その5
エアコンで補充した冷気が逃げてゆくことに気づき、慌てて窓を閉めにゆく。鍵をかけると同時に背後から気弱そうな声が届いた。
「あの……もしかして取り込んでますか?」
「え、ああ、はい。いや、いいえ。どうぞ」
どこから見られていたのだろう。心臓を縮ませながら、理闘は軽やかに振り向いた。それにしても来客の多い日だ。今度はなで肩の目立つ少年が、扉付近で指をもじもじさせている。中肉中背で、目が小さく小鼻が丸いというくらいしか特徴のない凡庸な顔をしていた。
理闘は席に戻ると勤勉な窓口役のように自然な笑みを作って、少年にソファを薦めた。少年は腰かける前に、ソファの脇で眠っている儷を怪訝な眼つきで眺める。
「彼は立ったまま寝てるの?」
「気にしないでくださいね。それは観葉植物ですから」
「でも……この人、一年の鮎川くんだよね?」
「違いますよ。単なるオブジェです」
存在していても社会の役に立ない、寝息を立てるオブジェ。理闘は揶揄を含んだ視線を儷に送った。少年は小心者なのか、儷に気を取られて落ち着かないのか、怪しむように忙しなく儷の元へ目線を送っている。またも儷の知人かもしれない。先ほどの間違いを教訓にして前もって尋ねてみたが、儷との面識はないという。少年が一方的に儷を知っているだけらしい。
「あなたは依頼人ですか?」
率直に問いかけると、少年は意を決したように頷いた。
「ここはフェクト・レスって所だよね? 何でも屋をやってるって噂で聞いたから半信半疑で来てみたんだけど、本当にあったなんて驚いたな」
「安心してください。そういった方は多いですよ」
理闘が微笑むと、彼は緊張が解けたように姿勢を崩した。厳密には何でも屋できないが、あえて訂正はしなかった。依頼は選んでいるつもりだが、金額によっては応じる場合もある。
理闘がマニュアル通りの説明を始めるより早く、彼の方から簡単な自己紹介があった。それによると、彼は三年二十八組の岡本仁志紀。家族構成は父母妹の四人で、父親は消臭剤を開発する会社に勤めている。母は専業主婦に徹しており、妹は同じ明峰学園の一年だという。
時おり、雑談を交えながら話を進めた。何か共通した話題があればそれに越したことはないが、仁志紀の趣味がわからないので模索しながら無難に会話を繋げてゆく。話が弾むということは依頼人の警戒心が薄まった証拠であり、本音を引き出しやすくなる。
「仁志紀先輩は、将来何か目指してるものはあるんですか?」
「プロレスラーになりたいんだ」
仁志紀は照れ臭そうに頭を掻いた。理闘が相槌をうつと、水を得た魚のように目を輝かせながら二〇分以上もプロレスの素晴らしさについて語り通した。
お世辞にも仁志紀がプロレスの世界に向いているとは言い難かった。衣服の下に鋼鉄めいた肉体が隠れているとは思えないし、その世界で成功できるほど根性があるとも思えない。下手の横好き。それはトレーニングとは無縁な青白い肌と闘志の欠片も感じさせない気弱な両眼が物語っている。理闘は本音を喉元に押し込み、無責任に頑張れとだけ奨励しておいた。
気を良くしたのか、すっかり安心しきった様子だ。ここがチャンス。理闘は組んだ指を机上に乗せ、姿勢を正してから一度深く頷いた。
「ところで依頼の方ですが、内容を窺ってもよろしいですか?」
そこで仁志紀はフェクト・レスを訪れた目的を思い出したようだった。顔が一瞬にして強張り、見る者にも伝わるほど身を硬くする。卑屈なくらい目を伏せていた。
「内緒で調べてもらえるんだよね?」
「刑事事件などに発展する場合などの例外でなければ、もちろん。守秘義務がありますから」
「実は……僕の口座に、三百万円の振り込みがあったんだ。親と口座は別にしてあるから、親への振り込みじゃないと思う。でも相手は知らない名前だし、身に覚えがないから引き出すのも怖くて。だって、三百万円っていったら大金だろう?」
「確かに」
理闘は身近な相談事を聞くように、妙に納得した顔で同意した。同意したのは三百万円が大金である、という部分のみ。誰が振り込んだにせよ、理闘ならば即座に別の口座に移す。振り込みが間違いであったなら、銀行に修正されてしまう恐れがある。間違いで三百万円がもらえたのだから、神から与えられた奇蹟だと賞賛してありがたく頂戴してしまえばいいのだ。
「こういうのって調べられるのかな?」
「誰が振り込んだのかが知りたい、ということなら大丈夫だと思います」
仁志紀は明らかにホッとしていた。何が不安なのか、理闘には理解できない。犯罪に絡むにせよ、どんな問題がつきまとうにせよ、金は金だ。仁志紀の口座にあるものは仁志紀のものではないか。間違いで振り込まれたのなら、間違った方に非がある。手違いで三百万円を手に入れたのなら羨ましい限りだ。
今度は理闘の方が卑屈に口唇を尖らせながら、紙面にペンを走らせた。
「それで、調査終了までに期限とかあります?」
「期限はないけど……」
理闘の憮然とした態度に戸惑いつつ、仁志紀は言葉を訂正した。
「いや、やっぱり早い方がいいなあ。命を狙われたりしたら怖いし……どれくらいで調べられるんだろう」
「さあ。すぐに終わると思いますけど」
理闘は愛想なく答えた。労せず大金を手中に収めた仁志紀が妬ましかった。
しかし依頼にしては簡単すぎる。振り込んだ相手が判明しなかった場合、適当な名前を告げればそれで終わりではないか。念入りな調査の末に――と言葉を添えれば、疑うこともできないだろう。仁志紀自身に調べる能力がないのからフェクト・レスを頼ったのだ。
「それで報酬の方ですが、手数料と税金込みで一割ほどになります」
「三百万円の一割? 高すぎる!」
仁志紀は声高に主張した。
「だったら恥を忍んで他に頼んだ方がいいよ。親が銀行の頭取をやってる友達もいるんだ。誰にも内緒で調べたかったから頼みに来たのに! 三○万なんて冗談じゃない!」
立ち上がって、憤怒するように顔を紅潮させて興奮している。
仁志紀の怒りはもっともで、はじめから理闘も成功するとは思っていなかった。明峰学園に通う生徒は金持ちが多いので、金銭感覚が狂っている者も多い。試しに言ってみただけだ。
理闘はペン先で頭を掻き、わざとらしく咳払いした。
「あっと、一割は嘘です。本当は五万円ですから」
「五万……」
仁志紀の脳内では損得勘定の計算が超高速処理されているのだろう。カチカチという無機質な音が聞こえてきそうだ。たっぷり二分考えた後に、仁志紀は渋々了承した。税金分も請求することを付け加えたが、軽蔑の眼差しで理闘を見据えながら仕方なく頷いた。
理闘が書き綴った書類に氏名を記入してから、仁志紀は部室を後にする。やはり悪人になりきれないのか、退室する時に丁寧なお辞儀をして「よろしく頼みます」と三者面談の親みたいな挨拶を残していった。
「ありがとうございましたあ」
理闘は笑顔で見送ったが、扉が閉じた瞬間にはさらに目尻をさげた。
プロレスを熱く語られた時はさすがに疲れたが、金のためだと思って耐え忍んだ。その甲斐あって五万の収入は確保されたわけだ。おまけに税金分も支払ってくれるという。扶養家族に位置する理闘がわざわざ収入を役所に申告するはずもなく、従って所得税も払っていない。夢見がちな仁志紀は現実を知らないのだ。うまく誤魔化せば、もっと絞れたかもしれない。
理闘は、先ほど儷から奪った一万円を取り出して穴が開くほど見つめた。こうしている時間が、理闘にとって何より至福を感じられる瞬間だった。想像するだけで天にも舞う気持ちだ。愛する諭吉がもうすぐ五人やってくる。
きめ細かく印刷された諭吉の凛々しい顔が、半分に折られていたせいでしわしわになっている。諭吉は穢れなく知的でなければならない。指でそれを丹念に伸ばしていると、放置されたままの携帯電話がけたたましく鳴った。無粋な音だ。
着信の名前を確かめると、フェクト・レスに属するもうひとりの部員、上条迅晴からかかってきたものだった。理闘は不満げに眉を寄せながら、通話ボタンを押した。
「あんた遅刻よ。罰金二千円だからね!」
「バカ、それどころじゃねえよ! 今部室か?」
理闘は開口一番怒鳴りあげたが、迅晴も負けじと大声で応戦してきた。フェクト・レスは部長が法律であり絶対である。口答えは許されない。なのに、迅晴は早口で何かを捲したてている。あまりにうるさいので電話を耳から離して、静かになるのを待った。
「うっさいわね。どうでもいいから、さっさと部室に来なさい。依頼があったのよ。急いで来て頂戴。わかったわね!」
「お前、話きいてなかっただろ! 俺は、お前がこっちに来いって言ったんだ!」
「話になんないわね」
理闘は素っ気なく言うと通話終了ボタンに指を当てた。それを察したのか、迅晴の喚き声がいっそう強まる。仕方なく理闘はもう一度電話を耳にあてた。
「切ろうとしただろ? 今、ポチっと切ろうとしただろ? 冗談じゃねえんだって。嘘くせえ話だけど、マジで刃物ふりまわしてんだって!」
「は?」
事情を聞いてなかったので話が呑み込めない。電話の向こうで、女の子の悲鳴めいた甲高い声が街の雑踏のように遠く聞こえる。迅晴は無類の女好きだ。女の悲鳴。刃物。まさか――。
「あんた、痴漢したわね」
短絡的な思考がそのまま口をついて出た。
思いあまって女生徒に猥褻な行為に及んだが、予想外の抵抗に遭い、刃物で報復されているのかもしれない。部の存続に関わる一大事だ。国の恥だ。今の内に迅晴を除名処分にしておいた方が被害は縮小されるかもしれない。自首も薦めよう。痴漢なら罰金五○万以下で済む。
「ワケわかんねえよ。どうでもいいから、とにかく応援頼む。それと、俺の道具も持って来てくれ。予備で置いてあるヤツ!」
「だから何なの?」
故意に冗長な対応をしているのではなく、理闘は本当に理解できていなかった。電話越しに緊迫感は伝わってきたが、どこで何が行われているのかが把握できない。
切羽詰まった迅晴は、最も効率の良い処置に及んだ。
「ああ、面倒くせえ。五千円やるからふたりで校門まで来い! 五分以内にな」
「わかった。どこ?」
理闘はあっさりと了解した。
「東のE門にいる。すぐに来いよ。俺の予備も忘れるな」
「おっけい」
理闘は電話を放り出すと、棚に置かれたナイロン製の黄色いリュックを素早く引き寄せた。このリュックには迅晴の私物だ。何が入っているのか詳しくは知らないが、かなり重い。感触は硬く、他に入る余裕がないほど中身がパンパンに詰め込まれていた。
勇ましくリュックを背負うと、眠っている儷の腕を引いて廊下を突っ走った。
信じられないことに、それでも儷は眠り続けている。蹴ってもぶってもつねっても間接技をかけても起きる気配はない。残り四分三○秒。このままでは、指定された時間内に東のE門に到着するのは無理だ。
「ちくしょう」
理闘はリュックを腹の方にかけ直すと、思いきって儷を背負うことにした。意識がないので背中に乗る協力などしてくれない。本当に足手まといだ。廊下の窓をあけて腰かけさせ、何とか背中に乗せてジャンプしながら体勢を整える。身長がある分、見た目よりもずっと重い。
理闘は歯を食いしばって廊下を駆け抜け、階段を二段抜きで降りてゆく。
すぐに汗が吹き出したが、疾走で生まれる風がすぐに冷却してくれた。運動部のジョギングを追い越し、教師の制止を振り切り、玄関から掃き出される下校途中の生徒たちをくぐるよう
に走った。砂埃を撒き散らすよう文字通り風のように走った。