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その1 序章

*

 盂蘭盆会――元来は中国で成立した盂蘭盆経に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事とされ、七月十三日から十五日まで行われる。

 日本では初秋の霊祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火を焚いて先祖の霊を招き、精霊棚に食物を供え、僧を招いて棚経を読んでもらう。近世以降、広く一般に普及したが地域によって各種の風習があるらしい。

 盂蘭盆会、盂蘭盆供、精霊会、精霊祭、歓喜会、魂祭りなど様々な呼び名があるようだが、日本では一般に「お盆」と呼ばれている。八月十五日。ちょうど今日がお盆だ。

 古く江戸の頃から東京に居を構える夏実の家には、八月に墓参りをする習慣がなかった。

 夏実自身それほど仏教について知識もなく、そもそも興味も持っていない。それは夏実の両親も同様だ。もちろん、身内が亡くなれば世話になっている寺に骨を預ける。だが信仰心は微塵もない。夏実の先祖たちは熱心な仏教徒だったかもしれないが、夏実は違う。

 いつか死んでしまえば、先祖と同じ墓に入るよう身内の者が処理するに違いない。死後に身体がどうなろうと、自分にはわからないのだから好きにすればいい。

 仏教では死んだ人間を仏と呼ぶ。

 仏はお盆にこの世に帰ってくるらしいが、夏実にはその概念が理解できない。死んだ者の墓を訪れて水や花や食物を供えること自体、馬鹿げた行為だとさえ思える。死んだ者がどうやって水を呑むのか。食物を頬張るのか。

 けして死者を軽んじている訳ではないし、仏教を否定している訳でもない。だが現実的に考えて、墓前に置いた供え物に死者の歯形がつくとは思えなかった。

 母の実家が東京にあるので、田舎に帰省することもない。高校生である夏実にとって、お盆は夏休みの中にある一日にすぎなかった。


 立っているだけで皮膚が痛むような熱気に満ちた夏日だった。とにかく蒸し暑い。風が吹いていないせいか、空気が澱んでいる気がする。タオルで何度も顔を拭いたしTシャツも着替えたが、すぐに全身が汗だくになった。まるで全身の毛穴が開いて、ありったけの水分を放出しているみたいだ。夏に生まれたから夏実と名づけられたお陰か、夏は苦手ではない。そんな夏実ですら弱音を吐いてしまうほどに、容赦なく太陽が照りつけてくる。

 夏休みではあるが、彼女は学園に足を向けていた。

 春に入部した弓道部には、実質的に活動する部員がふたりしかいない。名簿には二十名あまりの名が連なっているが、そのほとんどが幽霊部員だった。入部を薦めてくれた友人も、とっくに幽霊部員に成り果てている。

 弓道は思いの外、夏実の気質に合っていた。呼吸を整え精神を安定させ、視点を標的に定めて、まっすぐ矢を射る。ただそれだけの競技なのだが、はじめて的に刺さった時の爽快感は忘れがたいものがあった。身体から魂が抜け出て大気に溶け、まるで大地と自分が同化するような開放感と調和を感じられた。それから夏実は弓道にのめり込んでいった。

 学園には小さいながらも弓道場の設備が整えられている。伝統芸能を行う舞台めいた板の間からは頑丈な柱が天井に伸び、天井には太く立派な梁が交差していた。昔ながらの日本家屋の縁側に似た様相をしているので、外界の熱気が夏実たちを直撃する。

 的は三つ。部の仲間である細川伊織が間隔を空けて夏実の横に並んでいる。シュと風を切る心地よい音を耳にとめ、夏実は構えていた弓を降ろした。的には、放たれたばかりの伊織の矢が元気良く尾を揺らしている。

 伊織はひとつ年上の先輩で、弓ではかなりの腕前を誇っていた。幼い頃から習っていたらしく、実績も積んでいる。伊織が弓を構えた姿は、基本を忠実に模した絵のようだった。

 集中力が途切れてしまったので、夏実は尊敬の念を込めて伊織の姿を眺めた。

 背中まで伸びた髪を頭の天辺で結び、女性とは思えぬほど凛々しく口唇を結んでいる。練習ということもあり略装ではあるが、伊織はきちんと袴をはいていた。伊織を見るたびに、夏実は自分の着ているTシャツとジャージが粗末なものに思えてならない。いや、伊織と自分を比べること自体が間違っている。伊織の気品ある横顔を見ていると、戦国の世に名を馳せた武将の面影を連想させた。対して自分は、せいぜい野良仕事に精を出す小作人だろう。

「休憩しましょうか」

 伊織に声をかけられて、夏実は我にかえった。頓狂な声をあげて返事し、壁際に置いてあるタオルを慌てて取りに走る。タオルを受け取った伊織は柔和に微笑んで礼を言った。

 伊織の頬を流れ落ちる汗の玉が、太陽に反射してきらきらと光っている。タオルで顔を拭くという行為も、伊織が振るまうだけで神々しい行為に見えた。ただ歩いているだけでも常人とは違うことがわかる。姿勢が正しい。視線をまっすぐ前に見据えている。夏実との違いはそれだけなのに、伊織は自分とは違う空気を吸う異世界の住人のように輝いていた。

 伊織はタオルを置くと夏実に目を向けた。

「どうかしら。弓道は楽しい?」

「ハイ、もちろんです」

 夏実は覇気のある語調で答えた。

 伊織に心酔しているから弓道を続けている訳ではなく、心から弓道を探求したいと思う。いつか伊織よりも綺麗に矢を射たいと、おこがましい野望さえ持っている。

「嬉しいわ。こうして高橋さんが練習につきあってくれるようになるまで、いつも私ひとりで練習してきたのよ。仲間ができて心強いわ。本当に」

「そんな、私なんてへたくそだし……」

「うまいとか下手は関係ないのよ。そういったものは、弓道を好きで弓を扱っていればおのずと上達するものだわ。現にずいぶんと腕前が上がったじゃない」

「え、ホントですか?」

 夏実が大きく目を見開くと、伊織は慈愛に満ちた微笑みを浮かべて頷く。単なるお世辞なのはわかっているが、伊織に誉められたことが本当に嬉しい。

 伊織が弓を壁際に立てかけたので、夏実も同じようにそれを真似る。伊織が備えつけの簡易ベンチに腰をかけたので、控えめな態度ながら夏実もそれに倣った。ベンチに座ると、正面に張りつけてある的に目がゆく。的の中心を見つめるのは、もはや癖みたいなものだった。

 視界の両脇には適度に刈りそろえられた緑が広がり、矢を抜きにゆくのに往復する道筋が溝となり、剥き出しになった土が三本ほど伸びている。強い陽光のために土はからからに乾き、黄く変色していた。板間に土がこぼれていることも珍しくないので、いつも足の裏が汚れてしまう。夏実は前屈みの姿勢になり、こっそりと足の裏を覗いた。すでに真っ黒だった。

 伊織は蒼い空を仰ぎ、深い溜息を吐いた。

「どうして他の部員は真面目に出席してくれないのかしら。みんながもっとやる気を出してくれれば、大会に出場する時にも張り合いが出るのだけれど」

 みんな弓道は古くて気怠いものだと思い込んでるんですよ。そう思ったが、夏実は口には出さなかった。口に出して、その一般的な意見が自分の意見だと伊織に誤解されてしまうことを恐れたためだ。

「みんな最初は弓道に興味を持っていたはずなのにね」

 伊織は純粋にそう信じている。部活に参加しておくだけで、教師の心証は変わるものだ。彼等はそれが目的だったに違いない。だが弓道を愛する伊織は、みんなを疑うことをしない。自分が愛する弓道を、みんなが嫌う訳がないと思っている。なぜなら、弓道の門を叩いたではないか。当初はみんな弓道に興味を持っていたはずだ。そう信じている。はじめから幽霊部員になろうと決めていた確信犯ではないのだと。

「大丈夫ですよ、センパイ。そのうち、やって来ますって。ホラ、今って夏休みじゃないですか。高校生にとっての夏休みはいろいろあるみたいですから、大目に見てあげましょうよ。心配しなくても、二学期になったらみんなちゃんと参加しますって」

「……そうね」

 伊織は寂しげに目を伏せて、力なくつぶやいた。また溜息を吐く。しばらく黙っていたかと思えば、夏実の目をまっすぐ見据えて滑舌良く話し始めた。

「私は幼少の頃から弓道をやっていたわ。家に弓道場があったから最高の環境だったといえるわね。いつでも弓を射ることができたから、すごく練習したわ。家族が呼びに来ても声が聞こえないくらい集中してしまって、夕飯を食べ忘れたこともよくあったのよ」

 伊織は少し肩を竦めて悪戯っぽく笑った。

「そういえば、高橋さんって編入組? それとも進級組?」

「一応、小等部から明峰学園です」

「じゃあ知ってるかもしれないけれど、小等部や中等部には弓道部がなかったの。高等部に進級してすぐ、私は弓道部に入部を申し込んだわ。同じように弓道を極める仲間に出逢えると思って、子供みたいに胸をわくわくさせてね。でも結果はこうよ。寂しいわ。部員はいるはずなのに、誰も弓道場に来ないのだもの。仲間ができたという昂揚感は一日で消えてしまったわ。本当に落胆したのよ。家に帰ってお風呂に入っている時、大声で泣いてしまったくらい。きっと私、自分で思っていたよりも仲間ができることを喜んでいたのね。去年までは卒業した先輩がよく顔を出してくれたけれど、今はもうすっかり音沙汰なしよ」

「そうですか……」

 夏実は短い相槌をうつと、顔を俯けて黙り込んでしまった。

 弓道は単独競技だ。矢を射る前に精神を集中して無我の境地に立つこと、そうして己と向き合うことが、勝敗よりも重要な目的だといえる。

 だが伊織は、弓道を語り合い感動を分かち合える仲間が欲しいのだ。緊張感から解放された部活後などに、和気あいあいとした空気の中で仲間と過ごしたいのだろう。その口振りから察するに、夏実が想像しているよりもずっと伊織の孤独感は深いのかもしれない。

「さて、もう少し頑張りましょうか」

 伊織はタオルでもう一度顔を拭くと、頭の天辺にある結び目をキュと締め直した。板間に散らばる土の粒を踏みしめ、弓を構えて手前に矢を引く。その表情は、いつもの毅然たる伊織の顔に戻っていた。模範演技のような動きに目を奪われていると、幾度目かの矢が放たれた直後に伊織の身体がぐらりと揺らいだ。

「センパイ!」

 夏実は立ち上がるなり、伊織の元に駆け寄った。伊織は片膝をついたまま、陽に焼けた小麦色の手で額を押さえている。

「平気よ。ちょっと眩暈がしただけ……」

「もう少し休んでくださいよ。暑いから熱にやられたんでしょうか。水分、いります?」

「ごめんなさいね。ありがとう」

 伊織は苦しそうな息を吐き、眉間にしわを寄せている。伊織を板間に座らせてから急いで水筒を運んできたが、中身がぬるくなっていることを思い出す。

「あちゃ。今冷たいものを買ってきますから、ちょっと待っててください」

「いいの、大丈夫……」

「遠慮しないでください。すぐ来ますか……ら?」

 財布を取りに踵を返そうとした瞬間、夏実は彫刻のように硬直した。具合悪そうに項垂れていた伊織がとつぜん立ち上がり、そして拙い足取りでふらふらと板間を歩き始めたからだ。

「センパイ?」

 伊織は無言のまま、夢遊病者めいた動きで蛇行しながら当てもなく歩く。毅然と背筋を伸ばしている普段の伊織からは想像もつかない姿だった。前進するというよりも、前方にかけすぎた体重を支えるために交互に足を出していると形容した方が正しい。口許はだらしなく半分だけ開いていて、目の焦点も定まっていない。

「やだセンパイ、本当にどうしちゃったんです?」

 得体のしれない生物がとつぜん目の前に現れた気になった。触れることも躊躇われるほど、伊織の形をしたそれは異様な空気を振りまいている。伊織の口腔はなにかをぶつぶつとつぶやいていた。口調が不鮮明で聞き取ることができない。日本語ではないのかもしれない。

 何が起こったのかわからず、夏実の頭は恐慌に陥った。身動きできずにいると、伊織の声が「ボコール」と紡いでいることがわかった。意味はわからない。伊織がこうなった原因もわからない。自分がどんな行動を取ればいいのかもわからない。

 しかし夏実の当惑はよそに、伊織は勝手にふらふらと弓道場を去ってゆく。

 伊織の変貌が心配だったが、対処方法がわからないので後を追っても無駄足ではないだろうか。夏実は逡巡するふりをしながら、必死に頭の中で自己弁護を繰り返していた。自力で歩けるのだから、救急車を手配するほどひどい症状ではないのだろう。いや、伊織は冷たい飲物を買いに行ったのかもしれない。夏実を遣いに出すことが心苦しくて自分で買いに行ったのだ。そうに違いない。それ以外に説明がつくだろうか。

 伊織のまっすぐなふたつの瞳が無気力にぼやけていた。そのいびつな感じ。張りつめたピアノ線だと思っていたものが、実は糸巻きから伸ばしたばかりの弛みきった古糸だと認識した瞬間だった。ずっと伊織を別世界の人間だと崇めてきた夏実だが、伊織が本当に異世界のものであるように思えた。無性に気分が悪い。足から力が抜けて、夏実は膝から崩れ落ちた。

 元より伊織は人形めいた無機質な雰囲気があった。だがあれは違う。あれは伊織ではない。魂を抜かれた脂肪の集合体が目的もなく彷徨っていたにすぎない。手ひどい裏切りに遭った気分だ。夏実はさきほどの伊織の姿を否定するように頭を振った。一刻も早く、記憶から消し去りたかった。悔しいのか悲しいのかもう判然としない。涙が出てきたのか、少しずつ瞳が潤んで視界が不透明になる。なにも考えられない。

「ボコール……」

 無意識のうちに、夏実はつぶやいていた。

 不意に立ち上がると、自分でもどうして良いのかわからず途方にくれてしまった。わからないので板間をとりあえず歩き回ってみた。だがこの先どうして良いのかわからない。どうしたいかという意識も持てない。

 そのうち、誰かに呼ばれている気がして夏実は板間を出ていった。自分が裸足であることも忘れて、熱しきったアスファルトの上をとぼとぼと歩く。

 気づくと夏実は、尋常ではないと感じた伊織の姿と同じ姿になっていた。


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