9 ……うん、少し
リプロの故郷探しは難航したまま、また幾日か過ぎ去った。。
その日は、少し遅めの朝食をシルクスと二人でとっていた。ビュランも先ほどまで一緒にいたのだが、食事の支度を終えるとすぐに出て行ってしまった。いつもはビュランがいなくとも、最低でも一人は部屋に残っているのだが今日は誰も来なかった。なので二人きりで食事をするのは初めてのことだ。
「シルクス、怒られちゃうよ?」
リプロが扉にチラチラと視線を移しながら言った。が、シルクスはそれを一笑する。
「構わん。それにこういった時でなければ、リプロと向き合って食事なんぞ出来んからな」
人魚鉢の横にある階段。その一番上の段には二人分の食事。一個下の段にシルクスは腰掛けている。お互い差し向かいにいるため、会話はし易いが、リプロは少し恥ずかしくも思う。自然と口数が減っていた。
「どうした、リプロ。調子でも悪いのか?」
あまり減ってないリプロの皿を見て、シルクスがそう尋ねてきた。何でも無いとリプロは答えようとしたが、余計に心配をかけさせてしまいそうだと思い直す。少し考えて素直に理由を話すことにした。
「その、こうやってシルクスと食事するの初めてだったから」
理由を口にしたら、ますます恥ずかしく思えてきた。顔全体が日焼けしたような熱くなる。シルクスは一瞬驚いたような表情をみせたが、すぐに肩を小さく震わせた。
「なるほど、照れているのか」
「照れっ、ち、違うよ!」
図星を引き当てられ、思わずリプロは声を荒げて否定した。が、これでは肯定しているのと変わらない。
「そうか。はは、リプロは照れていたのか」
「だから、違うっでば」
愉快そうにシルクスが笑う。内心を見透かされたようで悔しくて、リプロは頬を膨らませる。
「もうっ。そんなことより今日は大事な日なんでしょ」
今日はシルクスが城下へ視察に行く日だ。なので手早く食事を済ますようにと、ビュランが朝から口を尖らせていた。
「ああ。だからこそ、今日はこうやって食べたかったんだ」
昼食はかなり遅くなるので、リプロは先に取るようシルクスは薦めていた。
「ビュランは僕と共に視察に向かうから、キミの昼食は侍女に任せてあるはずだ」
シルクスと一緒にいられないのが寂しくて、リプロは少し落ち込んだ。その様子を、シルクスは目ざとく見ていた。
「僕と一緒にいられなくて残念だったかい?」
「……全っ然平気だし」
最近のリプロはシルクスに翻弄されっぱなしな気がする。時々それが鬱陶しくも思えるが、決して嫌なわけでは無い。
「それよりも視察がどんな感じだったか、教えてもらえるのを楽しみにしてるから」
「あぁ。夕食の時にでも、じっくり話してあげよう」
ふと、シルクスが真面目な顔でこちらを見つめてきた。
「キミも連れて行けたら、もっと楽しいだろうな」
「え……」
「あの活気に溢れた道を、共に巡れたらどんなに楽しいだろうな」
冗談のようには聞こえなかった。どう返したらいいのか分からず、リプロは俯いてしまう。
「困らせてしまったか?」
「……うん、少し」
すまない、とシルクスが謝罪した。リプロはただ黙って首を横に振るだけだ。気まずい沈黙を遮るかのように扉が開かれた。
「シルクス様、時間です……って、どこで食事取られてんですか!」
「あぁ、ビュラン。いいじゃないか、たまには」
悪びれも無く言い放つシルクスに、ビュランはがっくりとうなだれた。
「ちっとも良くありません。もしも落下して、これ以上頭が軽くなったらどうなさるおつもりですか」
「お前、本当は僕のこと嫌いだろう」
「はいはい、さっさと降りてくださいまし」
拍手のように両手を慣らしながら、ビュランはシルクスに催促する。渋々といった様子でシルクスは階段から降りた。
「では、シルクス様。隣室にどうぞ。お着替えの準備は出来ております」
「分かった分かった。……リプロ、また夕食に」
シルクスが部屋を出て行くと、ビュランが盛大なため息をこぼした。
「濡れ衣かも知れませんが、リプロ。シルクス様にちゃんと注意してください」
「ご、ごめんなさい。一応止めたんだけど」
結局は押し切られる形で、先ほどの食事風景になってしまった。だいたい想像はついていたのか、ビュランはそれ以上リプロを責めなかった。それでも、彼女は責任を感じてしまう。ビュランの言う通り、シルクスが怪我をしてしまう可能性だってあるのだ。
「本当にごめん。次はシルクスをもっと強く止めるから」
そう言うとビュランの体がびくりとと震えた。
「え、えぇ。お願いしますよ」
眼鏡を人差し指で押し上げて、ビュランは言う。
「恐らく私が止めるよりも、貴女が止めた方のがあの方には効きそうですから」
そんなこと無いとリプロは思う。何だかんだ言っても、シルクスはビュランの忠告をきちんと受け入れているからだ。リプロがそう伝えると、ビュランはどこか困ったような表情を浮かべる。
「そうだと良いのですが」
「大丈夫だよ。シルクスはビュランのこと、すごく信頼してるから」
確信を持ってリプロは頷く。が、やはりビュランは浮かない顔をしていた。彼は手早く食器を回収すると、リプロに向かって頭を下げた。
「本当に、すみません」
先ほど咎めたことに対する謝罪だろうか。
「ううん、気にしてないから。視察、頑張ってね」
リプロがそう言うと、ビュランはもう一度頭を下げてから部屋を出て行った。
独りきりになると、途端に部屋が静かになった。ぼんやりとリプロは手首に飾られた装飾品を見た。窓に向って手をかざせば、硝子球が煌めく。
「一緒に……か」
先ほどのシルクスの言葉を反芻する。彼の言う通り、共に行けたのなら。想像しようとするが、リプロの頭にその絵が浮かばない。外の世界をほとんど知らないからだ。
もし自分が人間だったら、そんなことを考えてしまい、すぐにリプロは考えを打ち消した。そんなこと思ってもしょうがないことだ。
頭を水の中に沈めていると、扉が開く音がした。掃除にやってきた侍女だろうか。リプロが振り返ると、兵士が一人立っていた。
彼は扉を閉めると、無言で人魚鉢に近寄ってくる。その手にあるのは大きな袋だ。
男が近づくに連れて、リプロの警戒心は高まる。男の放つ異様な雰囲気は、明らかに見慣れた兵士たちのものではない。
逃げなくては。反射的にリプロはそう思ったのだが、体が動かない。悲鳴を上げようにも、歯が震えるだけで声にならない。
そうしている間にも兵士は近づいて来る。どうしよう。リプロに逃げ場など無い。せめてと人魚鉢の中に潜った。そして、なるべく底の方に身を潜めた。これでしばらくは時間が稼げるはずだ。その間に誰かが来てくれる。祈るような気持ちでリプロは上を見上げた。
男は階段を昇りきり、袋の中から網を取り出していた。そして、勢いよくそれを人魚鉢の中へと投げ込んだ。網はリプロの体を包み込んだ。
「やっ、やだ!」
何とかリプロは網の中から抜け出そうとするが、その前に男が網を引き上げた。一気にリプロは人魚鉢の外へと引きずり出される。
恐怖のあまり声も出なかった。彼女の脳裏に浮かんでいたのは、海賊に捕らわれた場面だ。その時と全く同じ状況に、リプロは怯えた。
それでも、両手を回して必死に抵抗する。が、力の差が有りすぎる。何の抵抗にも成らず、リプロの口は男によって袋の中へと押し込められた。
男は人魚鉢から水を少しすくうと袋の中に流し込んだ。
「これぐらいなら、海岸までは持つだろ」
そう呟いて、男は袋の口を塞ぐ。たぶん彼は袋を背負ったのだろう。袋の中でリプロの体が揺れ始めた。
恐らく男の背中付近に当たる部分を、リプロは手で叩く。が、そこはまるで岩のように固く、逆にリプロの手が痛みだした。
「大人しくしてろ、そうしたらすぐに解放してやるから」
男が小声で話しかけてきた。その言葉は信用出来なかった。
しばらくリプロは抵抗しながら袋の中で揺られていると、外の音が賑やかになる。聞き取れないほどのたくさんの話し声が、リプロの恐怖をさらに煽った。
このままだとまた『珍しい動物』として売られてしまう。海に帰れない。シルクスに、会えなくなってしまう。
必死にもがいていると、段々と息苦しくなってきた。暴れたせいで体力を消耗してしまったのだ。
リプロは必死で頭を巡らせ、やがて一つの策を思い付いた。
「だ、出して」
ようやく出せた声はかすれていた。が、かえってそれが説得力になると思った。
男からの返事は無い。もう一度、リプロは彼に話しかける。
「お願い、苦しいの。息が、出来ない」
袋の揺れが止まった。
「おい、本当なのか?」
引っかかった! 乾いた唇を舌で舐め、リプロは慎重に言葉を選ぶ。
「うん。お願い、もっと水を、ちょうだい」
しばらくすると、リプロの体から浮遊感が消えた。きっと男が袋を地面に下ろしたのだろう。
「ちょっと待ってな。今、足してやるから」
男が袋を開こうとしている。好機は男が袋を開く、その瞬間だ。息をひそめて、リプロは体勢を整える。身を縮め、尾ヒレを捻らす。
暗かった袋の中に光が射す。……今だ!
男が顔を覗かせた瞬間、リプロは尾ヒレに勢いをつけて彼の顔目がけて叩きつけた。油断していた男は、まともにそれを食らった。盛大な音を立て、彼の体は弾き飛んだ。近くの壁に男は激突し、そのまま倒れ込む。
「や、やった」
達成感と同時に、リプロの体から力が抜けていく。下を見れば、開かれた袋から水が流れ出していた。
また別の危機に陥ってしまった。朦朧とし始める意識の中で、必死に辺りを見渡す。水辺らしき場所はどこにも無い。気絶した男が手に持っている筒状の物体から、少しの水を垂れ流れているだけだ。
じわじわとリプロの体は乾いていく。歪んだ視界に、自分の手首が映る。シルクスがくれた腕飾りが鈍い光を放っていた。
「シルクス……」
もっと一緒に話したかった。そう思いながら、リプロは地面に倒れた。
「何だ、さっきの音は」
誰かがやって来た。複数の足音が響く。
「あー、人魚だ!」
「本当だ。なんでこんなところに」
やがて辺りはざわめきに包まれ始める。が、リプロの耳には届かない。意識を失いかける直前、こちらに駆け寄るシルクスの姿を見た気がした。