8 無茶を言わないでください
「な、なぁに?」
「食事の準備が出来た。冷める前に食べよう」
そう言うシルクスの耳が赤いことにリプロは気付く。もしかしたら、彼もリプロと同じ気持ちなのかも知れない。そんな図々しい考えが頭によぎってしまう。それを振り捨てるように、リプロは首を振った。
「うん、食べよ!」
思わず大きな声で返事をしてしまった。これではまるで、ただの食いしん坊のようだ。赤くなるリプロに対して、シルクスが笑った。
「そうか。今日はリプロの好きな魚料理だぞ」
「川魚ですけどね。さ、シルクス様は椅子にお座りください」
リプロの食事はいつも通り、人魚鉢横にある階段の一番上に置かれてある。シルクスたちの食事する机とは、ほんの少し距離があった。
「キミも同じ机で食事出来れば良いのにな」
残念そうなシルクスに、ビュランはパンを千切りながら言った。
「無茶を言わないでください。ただでさえ、食事を自室でするというわがままをされているんですから」
食事はリプロと共に取る、とシルクスは周りに公言していた。当然、周囲は反対したのだが、彼は頑として譲らなかった。
「別に良いではないか、それくらい」
「全然良かないです。今日だって私、エングレー様に怒られたのですよ」
切り分けた魚を口にしようとしたリプロの手が止まる。先ほどのシルクスの話を思い出してしまったからだ。恐る恐るとシルクスへと視線を移せば、彼は黙って注がれた葡萄酒を口にしていた。
「せめて一日の内、一食は皆さまとお取りになってください。その内、王からも何か言われるかも知れませんよ」
「父上は何も言わないだろう。そもそも父上も執務を理由に、皆と食事することが少ないではないか」
またシルクスの声は淡々としたものに変わっていた。
「ですがねぇ、やっぱり体裁ってものが有りましてねぇ」
引き下がらないビュランに、リプロは内心ハラハラとする。彼もシルクスの変化に気付いているはずなのに。これではまるで挑発しているみたいだ。
「言わせたい奴には言わせておけ。僕は別に気にしない」
「シルクス様がお気になさらなくとも、周りが気にします。……そうでしょう、リプロ」
急に話を振られて、リプロは思わずフォークを落としそうになる。どう答えたものかと考えあぐねていると、シルクスが話を遮った。
「それよりも、リプロの故郷は見つかったのか?」
あからさまに話題を切り換えられたが、ビュランは特に何も言わなかった。彼は懐から折りたたんだ紙を取り出す。広げると、それは地図だった。地図には赤字で所々に小さく書き込みがなされていた。
「リプロの売られた先を順々に遡っているのですが、なにぶん人手に渡った回数が多くてまだまだ時間がかかりそうなんですよ」
「ごめんなさい」
申し訳無くてリプロは謝罪した。
「いえ、お気になさらずに。しかしせめて地名が分かれば良かったのですが」
リプロたち人魚にとって、海は全部海だった。それぞれの土地に名前があると知ったのは、つい先日のことだった。また、海は一ヶ所だけで無く、色んな場所に存在すると教えられて驚いたのも記憶に新しい。
「なぁ、リプロ。他に覚えていることは無いか?」
地図を手にしながら、シルクスが尋ねてきた。
「何かそう、特徴的な物とか。近くにどんな建物があったとか、そういったことを教えてくれないか?」
「うーんと」
海面から見た風景を、リプロは思い返す。そして、一つだけ思い当たる物があった。
「緑色の大きな岩があったよ」
「島、ではないのか?」
「ううん。岩だった。草が生えてるとかじゃなくて、岩自体が緑色してるの」
「シルクス様、ちょっと地図をお貸しください」
ビュランは地図を受け取ると、その上を指先ではらす。やがて、彼の指が止まった。
「分かったのか?」
期待に満ちた目でシルクスが問いかけた。リプロも思わず身を乗り出してビュランの方を見下ろす。が、ビュランは首を横に振る。
「いえ、それらしい海岸はありませんね」
「……そうか」
落胆するシルクスをよそに、ビュランは地図を手早く折りたたみ始める。
「シルクス様。すみませんが私、所用を思い出しましたので中座させていただきます」
妙に早口でそう告げると、ビュランはさっさと部屋を出て行った。皿の上には、まだ半分以上の食料が残っている。
「ごめんなさい、私が他の物も覚えていたら良かったんだけど」
特徴的な物と言われても、緑岩ぐらいしか思い当たらない。近くに人工的な建物は無く、見渡す限り海が広がっているだけだ。時折、船が行き交うのを目撃したが、そんな情報は何の役にも立たない。何を積んでいる船だか、リプロは知らないからだ。
「リプロが謝ることは無い。大丈夫だ。必ずキミを故郷は帰してあげるから」
シルクスのその慰めに、何故だかリプロは複雑な気持ちになる。胸に棘が刺さったような、そんな痛みを感じた。最近は、こんな痛みを頻繁に感じるようになっていた。それは先ほどのような言葉を、シルクスにかけられた時に感じられた。
黙り込んだリプロを心配したのか、シルクスが椅子から離れた。彼はそのまま、人魚鉢へと近寄って来た。
「安心してくれ。僕も時間を見つけては地図を見て探している。それにビュランは優秀だ。きっとすぐにでも探し当てれるはずだ」
「ありがとう、シルクス」
ひょっとしたら、シルクスは自分が早くいなくなって欲しいのだろうか?
そんな考えが一瞬リプロの脳裏によぎった。
途端に胸の痛みが強いものに変わった。目元が熱くなり、涙が出そうになる。すぐにリプロは人魚鉢の中へと潜り込んだ。水中だったら、泣きそうなのをごまかせると思ったからだ。
案じるような視線を送ってくるシルクスに向かって、リプロは無理やり作った微笑みを送る。自分は平気だと。そう言葉なく訴えるために。
シルクスが人魚鉢に両手を押し当ててきた。
「すまない、リプロ」
彼の声は水槽を隔ててリプロの耳には届かない。だが、何となくリプロは彼の言葉が聞こえた気がした。何故彼が謝るのか、リプロには分からなかった。