7 寂しかったんだね
再び常備設置となった木製階段の上で、シルクスがリプロの前で手を差し出した。そこには、水晶や硝子球で作られた腕飾りがあった。
「これ、どうしたのシルクス」
「この青い石が、リプロの瞳に似ていたから。つい買ってしまった」
腕飾りはほとんどが透明の硝子玉で造られている。繋がれた硝子玉の一定の間隔の間に青い水晶が入れられている。硝子球と青い水晶の間には、小さな金の環が挟み込まれていた。
「ビュランが言ってた、シルクスの悪い癖の衝動買いってやつ?」
「な、ビュランのヤツ。そんなこと言っていたのか!」
怒りで顔を赤らめるシルクスを見て、リプロはクスクスと笑い声を上げる。そんな彼女を見て、シルクスもまた小さく笑った。
あの一夜から二人の関係は一変した。
シルクスはリプロを自分の対等な友人だと周りに宣言してくれた。周囲は戸惑いを見せたが、リプロ自身も自分の言葉を持って己の状況を語った。
経緯を知った何人かはリプロの境遇に同情してくれた。彼らはリプロを来客として扱ってくれるようになり、リプロもまた彼らとは距離を取らなくなった。今では気軽に話せる仲となった侍女も数人いる。
「リプロ、手を貸して」
囁きかけるようなシルクスの柔らかな口調に、リプロの頬は熱くなった。
「な、何?」
心臓の高鳴りを誤魔化そうと、リプロはあえて素っ気なく尋ねる。そんな彼女を見て、シルクスは首を傾げた。
「具合でも悪いのか? 顔が赤い」
「平気平気!」
そう言ってリプロは水中へ潜った。人魚鉢の中をくるりと一周し、再び顔を出す。水の冷たさで体の火照りは若干静まった気がした。
「ね、元気でしょ。手ね、はい!」
右手をシルクスの前に差し出す。すると、シルクスは先ほどの腕飾りをリプロの手首にはめた。
「うん、思った通りだ。よく似合う」
「どうして、これシルクスが買ったんでしょう?」
「リプロに贈るために買ったんだ」
さらりとそう告げられて、リプロは胸が詰まった。男の人から贈り物なんて初めてだった。自分の手首に贈られた装飾品をじっと眺める。キラキラと輝く硝子球に、海の煌めきを思い出す。
「迷惑だったか?」
不安げにシルクスは訊ねてきた。慌ててリプロは首を横に振った。
「ううん。ありがとう、シルクス!」
「そうか。黙っているから、気に入らなかったかと思った」
「違うの。ただ、ちょっと海を思い出しちゃって」
そう言い、リプロは腕飾りを撫でた。冷えた石の感触に、また望郷の念が深まる。そんなリプロにシルクスが問いかけてきた。
「リプロの住んでいた海って、どんな所なんだ?」
「うーんとね、とにかく広いの」
答えながら、リプロは両腕を大きく広げる。
「この部屋よりも、もっともっと。上も下もスッゴく! あ、上の方と下の方は景色が全然違うんだよ」
語りながらリプロは故郷の風景を脳裏に思い返す。
太陽に近い水上は、海の色が薄く透かされる。差し込む日差し に反射して魚たちの鱗が煌めき、まるで宝石のようだった。夕日になると海は艶やかな橙へと移り変わり、夜には静かな月明かりが海の色を濃紺に染め上げる。
光届かぬ水底は、どこまでも静寂に包まれている。薄暗い闇の中を、深海魚たちの灯りが照らす。暗闇の中を泳ぐのは迷宮にいるに等しい。油断したら最後、海の中でさ迷ってしまう。
魚の群れと共に泳いだり、時にはサメから身を隠したり。友人らと珊瑚の首飾りを作ったこともあった。そんな故郷の思い出をリプロは次から次へと口に出す。シルクスはそれを合いの手を挟みつつ、聴いてくれた。
「それでね、お母さんの手伝いでカニを……」
そこまで話して、リプロの胸に鋭い痛みが走った。
父母は今、どうしているのだろうか?
優しい父親は娘の行方を探しているのではないだろうか。心配性な母親は娘の無事を泣いて祈っているのではないだろうか。そんな両親の姿が脳裏に浮かび、リプロは胸が痛くなる。
「リプロ?」
突然黙り込んだリプロに、シルクスが心配そうに声をかけてきた。すぐにリプロは首を振った。
「な、何でもないよ。それよりもシルクスのご両親ってどんな人なの?」
誤魔化そうとリプロはとっさに別の話題を振った。が、シルクスから返事は無い。同時に彼の顔から柔らかさが消えた。
ふとリプロの脳裏にシルクスとエングレーの会話が蘇る。あの時のシルクスと全く同じ顔を彼は見せていた。この話題は禁句だったのだろう。リプロが別の話題に切り換えようとした時、シルクスが口を開いた。
「母は、僕が幼い頃に亡くなった」
リプロが息を飲む。
「ご、ごめんなさい」
「謝ることはない。元々体が弱い人だったからな」
シルクスの記憶の中で、彼の母はいつも病床にあったという。棒のように細い母の腕が彼を抱きしめたのは、数えるほどしか無かったそうだ。
「母が亡くなった後、父上は大臣の娘を娶った。この方が現在の王妃で、エングレーの母親だ」
淡々とシルクスが語る。まるで他人事のように。
「父上は良き王さ。いつも民のことを考え、より良い政策を実現しようと頭を張り巡らせている」
一見誉めているようにも見えるが、暗に家族のことを省みない父だと言ってるように思えた。
「エングレーはまぁ、あの通りだ。まだ僕に継承権が残っているから、僕のことを邪魔に思っているのだろう」
「シルクスは王様になりたくないの?」
リプロが問えば、シルクスは曖昧な笑みを浮かべる。
「さぁ、どうだろう。ただ現状では無理だ。そもそも母の身分が低かったからな。後ろ盾なんか無いし、僕自身も王の器としては不十分だろう」
何となく、リプロは悟った。シルクスの瞳にあった陰。その原因はコレだろう。
「寂しかったんだね」
ふとリプロの口からそんな言葉が零れた。シルクスは家族を否定しているような口ぶりなのだが、それとは別の思いも感じられたのだ。それはかつて狭い水槽の中で過ごしていたリプロを苛んでいたものと同じだった。
シルクスはリプロの発言の意味が判らない様子だった。
「僕が寂しい?」
「うん。きっとそうだよ」
たぶん、シルクスがエングレーに冷たく当たるのは嫉妬しているのもあるのだろう。自分とは違い、両親が健在で将来も望まれている。だが、シルクスが自身の気持ちを素直に認めるには、年齢を重ねすぎてしまったのだろう。兄としての意地もあるのかもしれない。
シルクスは依然として暗い顔のままだ。それに気付き、リプロは口を押さえた。
「ごめん、私は何も知らないのに勝手に決め付けて」
「いや……」
シルクスが目を伏せた。
「多分、そうなのだろうな。キミに指摘されて、気付いた」
そう言うシルクスの口調は幾分か軽いものに感じた。彼が再び瞼を開くと、そこにあった陰は少し薄れていた。
「少し楽になった。もしかしたら僕は、誰かに聞いてもらいたかったのかも知れない」
ただ、誰でも良かったわけでは無いとシルクスは続ける。
「リプロに聞いて貰いたかったのかも知れない。すまない、キミは聞きたくなかっただろうが」
「ううん、私で良ければ何でも聞くよ」
シルクスの心が軽くなるのなら。そう言いかけて、リプロは口をつぐんだ。先ほどよりも体全体が熱く感じるようになったからだ。特に、頬が痛いほどに熱い。
両頬を押さえてシルクスを見れば、彼もリプロを見つめていた。彼の緋色の双眸。夕焼けの海に似た色のそれに見られていると感じただけで、リプロの心臓は大きく跳ね上がる。
恥ずかしいはずなのに、もっと見られていたい。もっとシルクスを見つめていたい。そう思ってしまうのは、どうしてなのだろうか。
二人の間にただ沈黙が流れる。シルクスが手を、伸ばす。引かれるように、リプロもその手を取った。
「いつか行ってみたいものだな。リプロの、キミのいた海へ」
「脱走の計画なら阻止させていただきますよ」
突然の第三者の声に、リプロは驚き飛び上がった。シルクスもそうだったらしく、あわや人魚鉢の中へと落ち掛けていた。
「ビュラン! 何故、勝手に部屋に入ってきた?」
身を起こしたシルクスが、扉付近にいるビュランに向かって怒鳴った。ビュランはわざとらしい大きなため息をこぼすと、呆れたように言い放った。
「ノックしましたよ、何度も何度も。ちっとも返事が無いもので、てっきりまたシルクス様が溺れているかと思いましてね。心配でつい入室させていただきました」
「お前のせいで溺れかけたのだが」
「さ、食事の時間ですよ」
シルクスの抗議を、ビュランはさらっと無視する。三人分の食事が乗せられた台車を押し、部屋の中央へと進んでいった。そして、何事も無かったかのようにビュランは机の上に食器を並べ始めた。シルクスは彼の後ろ姿を眺めながら、小さく愚痴をこぼしている。逆にリプロは身を縮めていた。
先ほどの一部始終を、ビュランに見られていたのだろうか。
そう考えただけで身が焼けるほどに恥ずかしく思えた。同時にビュランに対して少し恨めしいという感情も湧き上がる。
リプロは自分の右手を見つめる。指先には、まだシルクスの指の感触が残っていた。長く節立ったシルクスの指。自分の小さな指とは全く違う、男の人の指。
「リプロ」
シルクスに名を呼ばれ、リプロの体がびくりと震えた。慌てて右手を後ろに隠した。