6 なんで謝るの?
「いたっ」
顔から床に落ち、その痛みにリプロは悶絶する。幸い、床に敷かれていた厚手の絨毯のおかげでリプロの落ちた音は部屋に響かなかった。
視線を部屋の左奥へと移す。そこには、大きな箱型の置物があった。ベッドというその置物の中で人間は寝るらしい。薄手のカーテンに包まれたそのベッドの中に、シルクスがいる。用心深く観察してみたが、起きてくる気配は無かった。
脱走するには、今が絶好の機会だ。
リプロは両手を伸ばし、絨毯の毛を掴む。腕に力を込めて身体を前進させる。ゆっくりと、リプロは窓へと距離を詰める。窓が近付くにつれ、リプロの口に笑みが零れる。海のさざなみは聞こえないが、今の彼女はそんなことには気付かない。故郷に帰れると妄信していた。
だが、半分も進んだところでリプロの腕は動かなくなる。さらには全身が重くなった。それでも前に進もうともがくが、余計に力が抜けていくだけだった。
呼吸するのも苦しくなる。まるで胸を貫くような痛みが、息をするたびに発生する。
リプロは二つの誤算に気付いていなかった。
一つは絨毯がタオル代わりとなって、彼女の体に残っていた水分を吸収していたこと。もう一つは窓から流れてくる風が、リプロの体をじわじわと乾燥させていたこと。
この二つが重なり、彼女の体は急速に乾いていったのだ。だが、リプロはそれを知らない。突然発生した苦しさに痛み悶えるだけだ。
背中が痛い。まるで岩肌で擦過したかのような痛みだ。呼吸も出来ない。ウロコが重い。
このまま自分は死んでしまうのか?
「や……い、やだ」
爪を立て、這い上がろうとする。が、リプロの体は動かない。
「たす、け、て……たすけ、て」
かすれた声を上げる。いや、たぶん上げている。自分の荒い呼吸音が耳を塞いでいて、声が聞こえない。
全身が熱い。視界がにじむ。息をすることでさえも苦痛だ。さらには、興奮の余りに忘れていた頭痛もぶり返してきた。激しい痛みに救援の声は、もはやただのうめき声にしかならなかった。
「何の音だ?」
ベッドのカーテンが開かれ、シルクスの顔を出た。寝ぼけ眼をこすりながら、彼は絨毯の上にひれ伏すリプロを見つけた。
「なっ、クロッキー!」
眠気が一気に吹っ飛んだのか、彼はリプロの元へとすぐさま駆けつけてくれた。
シルクスの両腕がリプロに触れる。彼に触れられた部分が、激痛を響かせた。唸るような悲鳴がリプロの口から飛び出す。
「大丈夫か? クロッ――リプロ!」
焦る素振りを見せながら、シルクスは人魚鉢に目を向けた。
「待ってろ。すぐに戻してやるから」
そう言って、シルクスはリプロから離れた。部屋の隅に置かれた椅子を人魚の傍らに置く。すぐに彼はリプロの元へと戻り、彼女を両腕に抱き抱える。
リプロの意識はもはや朦朧としていた。シルクスの腕の中で、うわごとのように痛みを訴えるだけの状態だ。
椅子の上に乗ったシルクスは、そっとリプロを人魚の中へと入れた。
静かな水音を立てて、リプロは水底へと落ちてゆく。体が沈んでゆくのとは対照的に、痛みが少しづつ抜けていった。呼吸も楽になる。水分を取り戻した体は、徐々に正常へと戻る。混濁とした意識から解放されたリプロは、速さをつけて水面へと上昇した。
「うわっ」
シルクスの悲鳴に、リプロは驚いた。見てみれば、彼は頭から水をかけられていた。リプロが勢いよく水から顔を出してしまったのが原因だろう。
「ご、ごめんなさい」
慌てて謝れば、シルクスは朗らかに笑った。
「いや、キミが元気になったのならば良い。それよりも喋れたのだな、リプロ」
「え、どうして私の名前……」
「夕食時にキミが名乗った。そうか、リプロか。クロッキーには負けるが、可愛い名前だ」
それは果たして誉められているのだろうか。複雑な気持ちになるリプロだったが、助けてもらった手前なので黙っているしかない。
「しかし、どうして人魚鉢の外に出てたのだ?」
「それは……」
正直に理由を話そうとして言いよどんだ。リプロを所有物扱いしているシルクスが、果たして彼女の望郷の想いを理解してくれるか不安になったからだ。
口ごもるリプロを見て、シルクスは暗い表情を浮かべた。
「そうか。やっぱりそうだったんだな」
彼の声は傷ついたような響きがはらんでいた。目頭を右手で押さえながら、シルクスは言葉を続ける。
「やはり、キミもビュランの方が良いのだな」
何を言ってんだ、この人。
戸惑うリプロに気付かず、シルクスは肩を震わせている。どうやら本気で悲しんでいる様子だ。
「安心するがいい。明日にでもキミをビュランの元へと送り届けよう」
「ちょっと待ってってば!」
リプロには、シルクスの話の流れが完全に読めない。どうして自分の脱走とビュランが結びつくのか理解不能だ。
「なんで突然ビュランが出てくるの?」
問い詰めると、シルクスは悲しげに微笑んだ。その笑顔が痛々しいほどに綺麗で、何故だかリプロは罪悪感を覚える。
「今までキミは一度も僕の手から食事を取らなかった。だが、今日ビュランが出したら食べだした」
「それは魚があったからで……」
「さらには夕食後、僕の名よりも先にビュランの名を呼んだじゃないか」
「え、そうだったっけ」
全くと言っていいほど、リプロにその時の記憶は残っていなかった。ただ心地良い気分になったことぐらいしか覚えていない。
たかが名前を先に呼ばなかったぐらいでそこまで傷付くことは無いだろうに。リプロはそう思ったのだが、シルクスにはよほどの重要なことだったようだ。
「構わない、僕は慣れている。いつもそうだ。僕の飼う物たちは皆、ビュランにばかり懐くんだ」
両手で顔を覆いながら、シルクスは身を震わせていた。自分よりも年上だろう青年のその姿に、リプロは少々に哀れに思えてきた。人魚鉢のフチから身を乗り出し、そっと彼に話しかける。
「私は、別にビュランの所に行きたかったわけじゃないよ」
「だが、脱走するほど僕の元にいたくなかったのだろう?」
そう言われてリプロは言葉に詰まる。それに関してはシルクスの言った通りだからだ。
が、それを肯定してしまえば、彼に完全にトドメを刺すことになるだろう。そう考えて、ここは素直に脱走の理由を語ることにした。
「私が抜け出したのは、海に帰りたかったから」
「海に?」
リプロは頷く。
「陸にあげられたのは、海賊に捕まったから。……元々、私が父さんたちの言い付けを破ったのが悪いんだけどさ」
そしてリプロはシルクスに今までの経緯を話した。海賊から商人に売られ、転々と流されたこと。その途中で喋れなくされたこと。諦めのあまりに無気力になっていたこと。
「声が出るようになって私が気付いたのは、ついさっきだよ」
「……そうか。ずいぶんと苦労をしてきたのだな」
シルクスは深々と頭を下げた。
「すまなかった」
突然の謝罪にリプロは驚く。
「なんで謝るの?」
「僕は今までキミの自己を否定する接し方しかしていなかった。名前だってそうだ。僕は完全にキミを己の所有物としか見ていなかったかった」
シルクスの顔には、悔恨の色が浮かび上がっていた。彼の言葉には嘘は無いのだろう。陸にあげられてから初めて「リプロ」として接してもらえた。リプロの目頭が熱くなる。
「そんなの、別に気にしてないよ。だから、頭を上げて」
本当は今まで散々心が傷付けられていた。だが、シルクスの謝罪でリプロの傷付いた気持ちは軽くなっていた。それよりも、自分もシルクスを傲慢な人間としか見てなかったことを恥じていた。
「私はもう大丈夫だから」
安心させようと、リプロは笑おうとする。だが、口の端が引きつって上手く表情を作れない。いつの間にか笑顔を忘れていたことに気付き、リプロは心の中で愕然とした。
そんな彼女を見て、シルクスは沈痛な面もちで言った。
「許してくれとは言わない。だが、せめてもの償いとして約束しよう」
シルクスはそっとリプロの手を両手で包み込んだ。濡れた手から伝わるシルクスの温もりに、リプロの鼓動が大きく跳ね上がった。
「キミを故郷の海に送り届ける。すぐには無理かも知れない。が、必ずだ」
「本当、に?」
問い返すと、シルクスは頷いた。
海に帰れる。それも嬉しかったのだが、協力者が現れたことに何よりもリプロは感激した。自然と彼女の両目から涙が溢れ出した。その涙を、シルクスがそっと指で拭ってくれた。
「すまない。本当ならハンカチを渡すべきなのだが」
「ううん、いいよ。ありがとう、シルクス!」
そう言ったリプロの顔には、幾日かぶりの笑顔が浮かんでいた。