5 どういうことだ
結果的にリプロはシルクスの部屋に置かれたままだった。ビュランたちがかなりの時間をかけて説得したのだが、シルクスは譲らなかった。挙げ句の果てに彼は人魚鉢を移した先を自分の部屋にするとまで言い出した。
そこまでシルクスに言われると、ビュランたちは折れるしかないようだった。が、リプロの世話は当分自分たちに任せるようシルクスに条件を付けさせた。
人魚鉢横に常時置かれていた階段は普段は撤去され、食事の都度に設置されている。
「ほら、食事ですよ」
今日はビュランがリプロの食事を持って来た。階段の一番上に彼はトレーを乗せ、自身はその一つ下の段に腰掛ける。
ノロノロとリプロは水面まで上がる。彼女が一口は食べて見せないと、彼らはこの場から離れない。シルクスがそう命じているのだ。
周囲が反対すれば反対するほどにシルクスは意固地になっているようだった。今ではビュランたちとの根比べ状態になっている。
その渦中に入れられたリプロは、居心地悪くてしょうがない。食事を届けられる度に使用人たちが憂鬱そうに自分を見てくるのだ。結果、ますます彼女の食は細くなった。海にいた時、食事の時間は家族で過ごす楽しい一時だった。それが今では一番苦しい時間だ。
暗い表情で今日の夕食にありつこうとした時だった。メインの乗った皿にリプロの目は釘付けとなる。
「大体、人魚に魚料理だなんて共食いになると思うのですが……どうかされましたか?」
リプロの異変に気付いたビュランが顔を覗き込んできた。そして、彼女の視線の先を見て、勝手に納得した。
「これは、魚のムニエルです。ほぼ姿焼きになってるから抵抗ありますよね、貴女には」
ビュランの言葉を無視してリプロはムニエルを手掴みで口に運んだ。身が柔らかいため、ムニエルの欠片がポロポロと水槽の中に落ちた。
「こら、いつも教えてますでしょうが。手があるんだから、ナイフとフォークを使いなさいと」
叱るビュランの声はリプロの耳には入ってこなかった。
味付けられたムニエルは、リプロの知っている味と食感では無かった。だが、それでも魚独特の甘みに懐かしさを覚えた。失われていたはずの食欲に火が点くのには充分だった。口の中に頬張ったまま、他の皿にも手を伸ばす。柔らかい白パンに、新鮮なサラダ。甘味がある黄色のポタージュスープ。そのどれもが美味しかった。あっという間に皿は全て空になった。
リプロの食べっぷりに、ビュランは唖然としているようだった。
「やぁ、ビュラン。クロッキーはちゃんと食べているかい?」
食事を終えたシルクスが部屋に帰ってきた。
硬直したまま、ビュランが答える。
「たった今、完食しました……」
「何だって?」
驚いたシルクスがこちらに視線を送ったが、リプロは気付かない。
リプロは最後に残った紫色した飲み物を手に取り、そのまま一気に飲み干した。液体の苦味が口全体に広がったが、喉の奥にに流し込むとそれは心地良い酩酊感に変わる。一息付けば、飲み物の香りが口から広がる。
徐々にリプロの体に変化が沸き起こる。初めて味わう感覚に、リプロは恍惚した。気分が良くなり、体の奥底から温かくなった。
何より変わったのは、リプロの心情だ。今までの絶望感なぞ、全くと言っていいほどに消え去っていた。人魚鉢に閉じ込められていることすら、愉快に感じ始めている。
「どういうことだ、ビュラン!」
シルクスの怒鳴り声が聞こえた。瞼をこすりながら、リプロは彼を見た。
「僕が飼う物たちは何故、いつもいつもお前の餌ばかりを食べるようになるんだ!」
「いや、そんなこと言われましても」
階段の上でビュランは困っているようだった。彼にしてみれば、シルクスの主張は言いがかりに近い状態なのだろう。当然だ。ビュランは何もしてないのにリプロが勝手に食べ出したのだから。
しかし、状況を知らなかったシルクスの責めは止まらない。
「五年前に拾った子犬も、昨年の子猫も、お前ばかりに懐いて! 今では皆、お前の物になっているではないか。挙げ句の果てに僕の十七の誕生日に貰った樹木ですら、お前が手入れした途端に花が咲き出して実を付けた!」
「いや、樹木は完全に時期があっただけでしょうが」
「うるさい!」
至極当然なビュランのツッコミも、シルクスの怒りの前では無意味だった。整った顔立ちが歪んでいることすら気にせず、彼は早足で階段まで近寄る。
「さぁ教えろ。どうやってクロッキーを手懐けた?」
「だから知りませんってば」
烈火の如く怒りを露わにするシルクスに、困惑して及び腰となるビュラン。珍しい光景だ。何だか面白くてリプロは笑う。
とても愉快な気分だ。小さく漏れたはずの笑い声は、段々と大きなものとなる。最終的にリプロは腹を抱えて笑っていた。笑いすぎて零れた涙を拭えば、言い争っていたはずの二人は共に目を丸くさせてリプロを見つめていた。
「クロッキー。お前、喋れるのか?」
愕然とした様子でシルクスが言った。指摘され、初めてリプロは自分が笑い声を立てていたことに気付く。
「喋れる? あ、本当だ。すごーい。治っちゃった。あはは。それよりもクロッキーって何よ? わったしはリプロだし」
すらすらと言葉が出た。何日ぶりだろうか。久々に聞いた自分の声は、若干かすれていた。それが可笑しくてリプロはまた笑う。
彼女が身をよじらせて笑っていると、未だに固まったままのビュランが目に映る。リプロは手を伸ばし、ビュランの肩を叩く。
「あはっ、あはは。災難だね、ビュラン。あ、私もか。ふふふ」
「どういうことだ! ビュラン」
またシルクスが怒鳴る。
「お前、いつの間に名を呼ばれるまで懐かせたんだ!」
「だから、知りませんってば!」
ビュランは泣きそうだった。詰め寄るシルクスにただただ首を振って自身を弁護する。
「コイツは勝手に食べ出して、勝手に笑い出しただけです! 私は何もしてません」
「嘘をつくな!」
リプロの瞼が重くなる。同時に二人の言い争いがだんだんと小さくなってゆく。リプロは大きなあくびをすると、全身の力を抜いた。彼女の体はゆっくりと人魚鉢の底へと落ちてゆく。
まどろみの中で、懐かしい海のさざ波が聞こえた気がした。そこから、リプロの記憶はぷつりと途絶えた。
彼女の意識が戻った時には、辺りは闇に包まれていた。夕食からかなりの時間を眠ってしまったらしい。上半身を起こすと、頭に鈍痛が走った。人魚鉢の底で頭を打ったのだろうか?
だが、そのわりに痛みは頭の内部から伝わってくる。さらに、打撲とは種類が違う痛さだ。何よりも頭が重く感じる。
「何、これ」
呟いてリプロは驚いた。
声が、出た。
驚きつつも、彼女は喉元に手を抑える。そして、もう一度ゆっくりと発声してみる。
「……ぁ、あぁ」
小さく、かすれてはいたが、確かにリプロの口から音は漏れた。理由は分からない。だが、声を取り戻せたことにリプロは歓喜した。嬉しさのあまり、人魚鉢の中を縦横無尽に泳ぎ回る。頭の痛みなど感じている暇など無かった。彼女の動きに合わせて水面が激しく揺れ、水が外へと零れた。
「あ……」
水の零れた先には複雑な刺繍が施された布で覆われた大窓があった。布は「カーテン」とシルクスたちが呼んでいた物だ。そのカーテンがひらひらとはためいている。その度に青白い月の光が、広い部屋に差し込んでいる。窓を閉め忘れているようだ。
それを見て、リプロの脳内にある単語がよぎった。
脱走。
きっとあの窓の向こうには海があるはずだ。そうリプロは確信した。根拠は今日の夕食だ。
魚が捕れるところが近くにあるのだろう。いや、あるに違いない。魚がいる場所、それは海だ! つまり、あの窓の先には海があるのだ。
海に帰れる――ただそれだけの思いがリプロの勇気を奮い立たせた。
水面から顔を出し、人魚鉢と窓までの距離を目測する。ほんの少し距離はあるが、これぐらいなら這って行けれるだろう。水中から出るのは苦しさを伴うが、海に戻れることを考えれば大した苦痛では無い。
そうと決まれば、ここから出なくてはいけない。人魚鉢のフチを両手で掴み、身を乗り出す。ふと脳裏にシルクスの顔が浮かんだ。自分が勝手にいなくなったら、彼は悲しむだろうか。
少しだけ決意が鈍りそうになり、リプロは慌てて首を振った。彼はしょせん人間。人魚の自分のことなど、珍しい愛玩動物ぐらいにしか思っていないはずだ。
リプロは上半身に体重をかけて、一気に外へと滑り落ちる。