2 気に入った!
結論から言えば、リプロの『食べられてしまう』という心配は杞憂に終わった。が、別の問題が発生していた。
「ご覧ください、シルクス様。人魚! 本物の人魚でございますよ」
甲高い男の声だ。水槽越しでもうるさいぐらいに伝わる。
男は趣味の悪い派手な衣装に身を包み、身を女人のようにしならせる。彼がリプロの今の『ご主人様』である。
リプロを捉えた海賊は、陸に着くなり彼女を商人に売り払った。そして、その商人から別の商人へと転々と売り回された。そして、最終的に彼女はこの悪趣味男の手に渡されたのだ。
人手に渡る度にリプロは故郷の海に帰して欲しいと何度も何度も訴えた。が、誰も彼女の言葉に耳を傾けてはくれなかった。彼らは皆、リプロを『価値のある珍獣』としか扱わなかったのだ。三番目の商人は帰郷を訴えるリプロを疎ましく思ったのだろう。彼女が声を上げるたびに体罰を行った。そのため、四番目の商人に渡るころにはリプロの声は失われてしまった。
海よりもずっとずっと狭い水槽に閉じ込められ、与えられる食事も魚の餌もどきの簡素なものだった。昼夜を問わず、大勢の人目に晒されることもあった。唯一の抵抗手段である声も失い、その結果リプロの心はすっかりと折れてしまっていた。もう海には帰れない、そんな諦めが心に根付いてしまったのだ。
悪趣味男の手に渡った今は、それなりに広い水槽に移されている。それでも海よりはずっとずっと狭苦しい物だ。
彼はリプロを手に入れてから、毎日色んな人間に彼女を見せびらかしていた。来る人来る人全てが悪趣味男のように豪華に着飾った人間たちだった。そして、リプロに対する態度も同じだった。
「おぉ、これは凄いな」
今日の来客も同じ反応だった。好奇の目でリプロをしげしげと眺めている。
ただ、彼はいつもやって来る人間たちよりもずっと若かった。外見だけで判断するならリプロよりも少しだけ年上に見える。身なりも上質な物で整えられていた。
それと普段よりも悪趣味男の態度がへりくだったものに見える。普段なら客に対してふんぞり返っているのに、今日は妙にぺこぺこと頭を下げている。自分よりも若い青年相手に、だ。それが不気味に見えて、リプロは眉をひそめる。
彼女のあからさまな嫌悪の表情に気付いた男が、水槽に向かって拳を振るう。ガツンと音を立て、水が揺れた。
「コラ。いつも教えてるでしょ。笑顔見せなさい。え、が、お!」
「いや、僕は別に気にしないさ」
男にシルクスと呼ばれた青年は、にこやかにそう言いながら、水槽まで近寄ってきた。彼の緋色の双眸がリプロの姿を捕らえる。あまりに食い入るように見つめてくるものだから、リプロは居心地の悪さを覚える。
はっきりと言ってしまえば、彼は結構な美形だ。整った輪郭は、白磁の肌。優しげな印象を与える垂れた瞳は、若干の陰りをその奥に抱いて見る者の心を捉える。鼻筋は高く、唇は薄い。サラサラとした長い金の髪を後ろで一つに縛っている。
男の人なのに、こんな綺麗な人がいるんだ。リプロは思わず思う。だが、所詮彼もリプロを『珍獣』としか見てないに決まっている。
そんなことを考えたら、リプロの中で苛立ちが湧きあがってきた。悔しさ紛れにシルクスに向かって、思いっきり舌を出してやった。
「な、ななな何と無礼な真似を!」
悪趣味男が慌てた様子を見せた。ひょろりとした顔を赤くさせたり青くさせたりしている。いい気味だと、リプロは内心をすっとさせた。今までの仕返しだと、心の中でこっそりと悪態をつく。
「申し訳ございません! 何分、異形のしたこと……いやいや、別に言い逃れという訳ではなくて私もしっかりと躾てはいるのですが、全然言うことを聞かないもので」
「……気に入った!」
「は?」
硬直する男に、シルクスは極上の笑みを見せた。
「うん、面白い。僕にこんな真似をするものは初めてだ」
「さ、左様で」
どうやらシルクス的にはリプロの行動がツボだったらしい。目を輝かせながら悪趣味男にあれこれと質問している。シルクスの反応に、男は表情に安堵の色を見せていた。
水槽越しでは彼らの会話は聞き取れない。水で遮られてしまっているからだ。が、何となく男の望む方向へと進んでいそうなのが、リプロには分かった。彼は倒れそうなほどに胸をそらせ、くるりと伸びた鼻髭を指でピンと引っ張っている。調子に乗っている時の男の癖だ。
「全くとんだじゃじゃ馬でして。愛想の欠片も無いし、もういっそ捨ててしまおうかしらーとか思っていまして」
「そうなのか。なら、僕が貰おうではないか」
「……はい?」
男は呆気にとられたらしい。間抜けに口を半開きにしている。
「え、や、シルクス様? 貰おうって」
「うむ、そのままの意味だ」
シルクスの瞳は、子供のように輝いている。その眩しさに耐えられないのか、男が目を泳がせていた。
何やら展開が変わってきたのを察したリプロはこっそりと水上へと上がる。水音を立てないように顔を出し、そっと水槽のフチへと近寄る。幸い、人間二人は会話に夢中でリプロの動きには気付いていない。
「お前がコレをいらぬと言うのなら、僕が貰う。構わないだろう?」
彼のあまりに堂々とした物言いに、反射的にといった様子で男は頷いていた。が、すぐに首を横に振りだす。
「いやいや、シルクス様。貴方様にこのような生き物を献上出来ませんわ」
その声は若干上擦っていた。たぶん嘘だ。高い金払ったから他人にあげたくないとでも思っているのだろう。が、シルクスは男の遠慮を言葉通りに受け取ったようだ。
「構わん。逆に育て甲斐があるではないか」
「ですが、もしシルクス様にお怪我なんてさせてしまったら……」
「大丈夫だ。観賞魚と同じ飼育法で良いのだろう? ならば安全ではないか。犬猫のように放し飼いする訳ではないのだからな」
「そうですが、その。えーと」
段々と男の分が悪くなってきているようだ。シルクスは完全に引かないつもりらしい。
水槽の上から、リプロは彼らのやり取りを見守る。彼女にとってはどうでも良い話だった。どうせどっちに転んでも自分の境遇は変わらないのだから。
「では、有り難く頂戴する」
「は、はい……」
どうやら交渉成立したようだ。暗い表情の「元ご主人様」とは対照的に「新しいご主人様」は、ほくほくとした満足面をしていた。
シルクスは部屋を軽く見渡し、部屋の片隅に飾られた大きな白い壺を指差した。
「この壺を借りても良いか? 馬車にこの水槽は入らぬからな」
城までの運搬用に壺を利用したい、とシルクスは言う。
「えぇ、もう良いですよ良いですよ。あれも差し上げますんでお好きになさってください……」
負けた男は自棄になってしまったようだ。遠い目をしながら、シルクスの言いなりになっている。何だか少し哀れだ。リプロは初めて彼に同情した。
シルクスが退室すると、男が手を数回叩いた。すると何人かの使用人たちが部屋にやって来た。主の指示を受け、彼らはテキパキとリプロを壺へと移す。少しの水を注ぎ終えると、全員で壺を持ち上げた。
急に静かだった男が、クツクツと不気味に笑いだした。
「いい、乱暴に扱うんじゃないわよ。コレは未来の国王陛下への捧げ物なのよ。うん、そう。捧げ物。これでシルクス様の私に対する印象が上げれるというもの」
落胆からあっさりと立ち直っている。転んでもただでは起きないつもりらしい。彼は壺を覗き込み、リプロを指差した。
「大人しく可愛がられるのよ。いいこと? 私の評価を下げる真似だけはするんじゃないわよ」
同情なんてするんじゃなかった。
リプロが呆れた視線を送っていると、壺に蓋をされた。
「さ、アンタ達。コレをシルクス様の馬車まで丁寧に運ぶのよ。傷なんかつけたら許さないわ。私の出世に関わるんだからね」