Beast
少女は今日も独り、森の奥に佇んでいました。鳥の囀り。木々のざわめき。それに思いを馳せて、ただただじっとそこにいました。
少女には、両親がいません。そればかりか、友達と呼べる存在も、恩師も、何もありませんでした。
この森の中で、鳥の会話に耳を傾け、一日の終わりには目を瞑り眠ります。それが、彼女の一日でした。否、それこそが彼女でした。
ふいに、今まで楽しそうに囀っていた鳥たちは一斉に羽ばたき、木々もいつにもまして警戒心を露わにしました。
不思議に思った少女は、一層耳を澄ませました。
人間だ、と咄嗟に息を呑みました。ここには殆ど人なんて来ません。初めての来客に少女は戸惑いました。
どうしよう。誰だろう。お友達に、なってはくれるかしら。
少女は、不安と期待が心の内で掻き混ざったぐにゃぐにゃな感情で、人間たちを待ちます。
かさり、かさりと草を掻き分け、数人の声がだんだんと近づいてくるのが解りました。声から察するに、少女と同じ年ないし、少し下くらいでしょうか。
どきん。
少女の胸が高鳴ります。
最初はやっぱり、はじめまして…かしら?
彼らはここに辿り着いて私を見つけた時、一体どんな顔をするだろう。少女は考えました。彼らが来るまで、ずっとずっと。
驚き?喜び?なんだろう。
少女は驚く人間たちを思い浮かべては笑みをこぼしました。
それにしても、初めてのお客さんなんだから、おもてなしをしないとね。
少女はお気に入りのティーカップに手を伸ばし、緊張に震える指先で優しく撫でるようにそれを包み込みます。ぎゅっと身体全体でそれを抱きながら、彼女は待ちました。
ゆっくりと近づいて来る、足音。
とくんと早鐘を打つ、鼓動。
歓喜に震える、心。
今まで続いていた足音と話し声がぴたりと止みました。
ゆっくりと手のひらのティーカップから視線を戻すと、そこには数人の少年たちが、黙って少女を一点に見つめています。
「……ぁ」
声をかけようと口を開いたと同時に、少年の1人が大きな声で叫びました。
「気持ち悪いっ!化け物だ!」
さっと身体が凍えるのを感じました。一斉に少年たちはざわめき、そして一心に化け物だと罵り叫びます。
1人は来た道を戻ろうと振り返り走り出しました。
待って!少女は一生懸命に手を伸ばします。ですが、いつも椅子に腰掛けひっそりと佇むだけのこの身体は、なかなか自由がききません。
立ち上がりかけた身体はそのままとさりと前のめりに崩れ落ちました。なおも手を伸ばして少年たちを呼び止めますが、少年たちは代わりに手に持った石ころを少女の身体にぶつけて走り去って行きました。
また独り残された少女は、石ころを投げつけられた場所を数回さすり、ゆるゆると身を起こしました。
ゆっくりと、ゆっくりと。
化け物というフレーズが何度も少女の頭に響いてはじんわりと身体の奥に染み渡ります。
頭を言葉という鈍器で殴りつけられたような、そんな衝撃が彼女を襲います。
そうか。私は化け物か。だから皆、私を訪ねて来てはくれないのね。
悲しくて悲しくて途方にくれました。空っぽの手のひらを見つめ、辺りを見回すと、転んだ時に落としたのでしょう、大切なティーカップが無残にも欠けて散らばっていました。
夢中でそれを拾いあげては、ぎゅっと握りしめました。指先に鈍い痛みを感じ顔を顰めます。ゆっくりと視線を落とすと、ガラスの破片が刺さり、指先を赤く濡らしていました。
化け物 と 呼ばれた 身体から、人間と 同じ 鮮やかな 赤、 が 。
鮮血は溜まり切らなくなってその場に滴り、草花の上に散りました。
その様子をじっと眺めた少女は、身を縮めて涙を流しました。大きなビー玉のような水色の瞳から、止めどなく零れ落ちる透明なモノ。それに人間と差異はなく。
痛い。傷い。イタイいたいイタい。
痛かった。指よりも、心が。何よりも、拒絶されたことが、少女にとって苦しいことでした。
胸を締め付けるような、鈍痛。
指を切り裂いたような、鋭痛。
割れたティーカップを手に、ポロポロと人間と差異なき涙をこぼし、ひたすら泣き続けましたが、少女を慰める者はありません。ずっとずっと少女は泣きました。
少女には、優しく抱きしめてくれる母も、厳しく導いてくれる父も、ただ側にいて話を聞いてくれる友人も、なかったのですから。
化け物なんだから、私は“このまま”でいいの。
やがていつしか少女は、自らが化け物だと認めることで自らの心を保つようになりました。
化け物なんだから、独りでも寂しくなんてない。これが、普通のこと。
そうせずにはいられない程、少女の心は衰弱し、そう思うたびに身体は切なく悲鳴をあげるのです。
再びぎゅっと身体を両手で抱え込み、目を瞑って眠りにつきました。
それからどの位の年月が過ぎたでしょう。少女も今や、大人の子供の狭間のような、そんな女性に成長していました。今で言う、16、17くらいです。そうは言ってもまだまだ幼さは強く残ります。
でも、身体は着々と大人に近づいていきました。
忘れた頃、月に一度訪れる鈍い痛み。また、子孫を残せなかったのかと責め立てられているように、腹部をぐるぐると巡廻するそれは、いつしかの辛い過去を否が応でも思い出させます。
そのたびに強く強く目を瞑り、痛みを必死に堪えますが、忘れてなるものかとでも言うようにじんわりと波が広がっていきます。押しては返し、押しては返しの繰り返し。
かさり。
その音にはっとします。身体から汗が吹き出し、硬直して動かすこともできません。
…誰か、…来るっ!
隠れようともがいて無理に身体を引きますが、なんとか立ち上がった足も前に踏み出した瞬間に縺れてつんのめり、静かな場にどさりと豪快な音が響きました。
どうしよう、…どうしよう!
少女は辺りを見回して、近づいて来る気配に狼狽えます。過去の記憶が蘇って、水色の瞳を歪めました。
また、私は。
きっと、嫌われて しまう。
ゆっくりと近づいて来る、足音。
どくんと早鐘を打つ、鼓動。
恐怖に震える、心。
ひょこりと顔を出したのは、青年としては幼い、けれども大人びた少年でした。
少年は地に身体をついた少女を見るや、瞠目し、慌てて駆け寄って来ました。
少女は咄嗟に両手で顔を多い、喉の奥から絞りだすようにか細く言葉を紡ぎました。
「見ないで…」
私は、人間じゃないから。
少年はその言葉になぜと返答しようと口を開きましたが、少女の必死な様子に打たれて何度か唇を震わせて、やがて言葉を呑み込みました。
長い沈黙の後、少年はゆっくりと少女の肩に触れました。ビクリと反応した少女を不安そうに見つめ、手で隠れた表情を読み取ろうと窺います。
そして少年は狼狽し、戸惑います。目の前の少女が泣いているではありませんか。
少年は数回わたわたと身体を動かし、それが無駄と気づいて少女の前に腰を下ろしました。
「なんで泣いてるの」
初めて発せられた声は、心地良く胸に響きました。その問いかけには応えずに、少女は低い声で唸るように彼に向けました。
「私は、化け物だから。ーー私を、見ないで」
やっとのことで発した言葉も、力なく語尾が萎れていきました。
「化け物は、見ちゃいけないの?」
こくりと頷く少女に、少年はまた質問を投げかけます。
「なんで見ちゃいけないの?」
なんで。その言葉に少女は自分の中で何か別のモノが広がっていくのが解りました。
「醜いから」
少年はしばし俯いて、それから決心したように語りかけます。
「君は化け物なの?」
そう。私は化け物なの。だから近寄らないで。
そう答えたいのに、言葉が喉元に引っかかって言えません。
「君が化け物なんて、誰が決めたの?」
膨らみすぎた風船が、弾け飛ぶように、少女の中でも何かがぶわりと広がります。
「もう一度言う。君は、本当に化け物なのかい?」
再び重い沈黙が流れ、少女は広がって収まり切らなくなった感情を言葉と共に押し出すように口を開きました。
「………違う。私は、化け物なんかじゃ…ないっ…」
振り絞って、やっとのことで発したその言葉に、自分でも驚いていました。
少年は、ふっと笑み、そして少女の手のひらにそっと自らの手を翳します。
「そうか。君は化け物じゃないんだね」
認められた。
そう少女は思いました。
拒絶されたこの身体が。心が。
今まさに彼の言葉で。
「私を信じてくれるの…?」
「君が自分を化け物ではないと言ったなら、僕はそれを信じるだけだよ」
少女の心に光が宿りました。
「それに…」
少年は、少女の手を握り、ゆっくりと引きます。そのため今まで隠されていた少女の顔が、少年に晒されました。
「“君”が、化け物なわけないじゃないか」
「……ありがとう」
そう、笑顔を作って彼に笑いかけます。
少年は少女のとなりに座り直すと、目を細めて囁きました。
「良いところだね、ここは」
誰もいなくて、静かで。
優しくて暖かい。けれど。
少年は続けます。
寂しくて、辛いね。ずっと独り、ここで待っていたんだね。
少女は溢れかえる涙をもう我慢せず、そのままポロポロと声をあげて泣きます。
「ありがとう、…ありがとう、…ありがとう…!」
私を認めてくれて。
私を、見つけてくれて。
「綺麗な涙を流すね、…君は、十分綺麗だよ」
醜くなんてない。
そう言って少年は立ち上がると、ぱんぱんと足についた草をはらい、そのまま歩き出します。
待って。どこに行くの。
また そうやって 私を 置いて。
少女はそれが無駄なことだと解っていても、手を伸ばさずにはいられませんでした。
少年が足が、ぴたりと止まりました。くるりと振り返って優しく微笑みます。
「一緒に行こう」
そう言って手を差し伸べられ、瞠目した少女は、しばらく押し黙った後、ぎこちなく笑ってその手を取りました。
私を、連れていってくれるの?
少女はまた胸の奥が締め付けられる痛みがしました。けれど、それは、辛さではなく、ーー希望。
少女は待って待って、待ち続けてやっと、手に入れたこの手の温かさを離さないように、一層強く握りしめました。
今、少女はもう化け物ではなく、新たな存在として森を抜けるのです。
読んでいただき、ありがとうございました!