#2話:クオラ村の師匠と弟子
村人達が夕食を済ませ、寝床に入るか徹夜するかを選ぶ時間帯。
夕陽が沈む寸前の赤い光をキラキラと反射させながら外を駆ける人影があった。
歳は十代前半から半ばほど。まるで水晶のような髪が目を引く小柄な少女だ。
今日は睡眠を選んだはずの少女だったが相当慌てているらしく、薄い生地でゆったりとしたワンピース型の寝間着に外套を羽織った姿で村はずれの家へ着くや否や、ぶつかるように扉を開いた。
「お、お師匠様ー! 大変ですー!」
「ぉブッ?!」
「あぅっ?!」
扉が何故か途中で止まり、少女は扉に頭を本当にぶつけることになった。
「い……痛ぃ……」
改めて扉を押すと、そこには鼻を押さえた老人が立っている。
長い白髪が、同じく長い白髭と一体化した老人。その白髭はすこし血に染まっていた。
「お、お師匠様ー……! こんなときにまでいやらしいこと考えてないでくださいよぅっ!」
「たわけ! おぬしの開けた扉にぶつかったんじゃ!」
少女の名はクイシェ。この白髪の老人ギュランダムの弟子として修行を積んでいた魔導士だ。
「まったく、慌てんでもわかっておるわ」
「じゃあやっぱり……!」
「【獣払い】用の結界が壊れたんじゃろ。今から調べに行く所じゃよ」
このクオラ村は山間にある小さな村で、周囲は深い森に囲まれている。街道からはかなり外れており、旅人が訪れることも滅多にないような辺鄙な村だ。
森は獣の領域。特にこのあたりには魔獣と呼ばれる特殊な獣が数多く生息している。それらの脅威から村を守る為、クオラ村では特殊な結界を設置することである程度の安全を得ているのだが、先ほど何の脈絡もなく全ての結界が破壊されてしまった。
自室で眠りに就こうとしていた際にそのことに気が付いたクイシェは、慌てて師匠の元へと知らせに来たのだった。
「儂が施した結界が破られたんじゃ。儂が気が付かないわけなかろうが」
「あっ……そ、そうですよね。ごめんなさい……」
「いや、謝らんでも良いが……いや、鼻の件は謝っても良いがの」
(しかし、他人の結界の破壊に気が付くとは、まったくもって才能じゃのう……)
本来結界というのは仕掛ける際に自分の血を用いた者を除けば、その影響を受ける対象にしかその存在を悟られることがない。今回の場合は【獣払い】の名の通り獣や魔獣を対象としたもので、人間にはまったくと言って良いほど効果がないはずである。
仮にそこに結界があると知っていてその境界に直に触れていたとしても、並みの感覚ではわからないだろう。
本来はそこに結界が存在しているかどうかすら、要として設置する楔や札等を見つけるか何らかの魔術を用いて調べない限りは判らないはずなのだ。
(クイシェの足でここに来たタイミングからすると、結界が壊れてすぐに自宅を飛び出してきたんじゃろうなあ。寝間着姿じゃし)
札や境界を調べている暇は無かっただろう。にもかかわらず、クイシェは確信を持ってそれを伝えに来た。
ギュランダムはそれをクイシェの魔力感知能力がずば抜けて高いからだ、と判断している。並みの人間では有り得ないほどに鋭い感覚は、魔導士としてもかなり有利な才能だ。
クイシェほどの感覚があれば、発動中の魔力の流れから他人が使おうとしている術の内容まで読み取れる様になるのではないかと、ギュランダムは感覚を磨く訓練もさせていた。そして実際、既にある程度の成果は出ている。今後、争いの場に立つことがあるかは判らないが実戦で役に立つレベルでの精度が期待できるはずだ、と村の研究者達も太鼓判を押していた。
大気や地脈に流れる魔力を感じ取れる範囲も尋常な規模ではない。それも精神集中など手順を踏まずに常に把握しているというのだから、村人達からは、もはや見ている世界が違うのではないだろうかとすら思われている。
これほどまでに感覚の鋭いクイシェならばこの破壊の原因もわかるのではと、ギュランダムは確認しておく事にした。
「結界が破られた時じゃが、何か別の事には気が付かんかったか?」
「別の……あ、はい。気になったと言いますか、いまもずっと感じていることがあるんですけど……」
「今も?」
「はい。東の森の方に、なにか違和感があるんです。何がと聞かれると何とも言えないんですけど、たぶん、魔力の流れがなんだか少し、おかしいような」
「ふうむ。結界を破るような強力な魔獣でもやってきたんかのう」
「あ、そういう感じじゃないです。魔獣だったらもっとハッキリ判りますから」
「おぬしは本当に便利じゃなぁ……」
ギュランダムはそこまで確認すると、先ほど取り落としてしまった本を拾い、外へ出る。
「まあ何にせよ確認しておかねばのう」
「あ、あの、お供しますっ」
「よい。おぬしは村で待っておれ」
「で、でも……お師匠様を支えて行かなくてもいいんですか? 今朝は腰が痛くて動けないって仰ってわたしが……」
「腰?」
ギュランダムはなんのことだったかと一瞬考えを巡らせた。
「はい、なのでお手伝いが必要かなって、走ってきた……んですけど…………」
「…………ああ! あれか……あー。……うむ。あれは治った」
「そういえば普通に歩かれてますね」
「うむ。急に治ったのじゃ」
2人の間に少しの沈黙が流れる。
「………………あの、まさか、嘘だったんですか?」
「うむ、いや…………まあ、そうじゃ」
「……また、どさくさに紛れて、わ、わたしの胸を……触ったりする為に……ですか……」
見ている方が悲しくなるほど肩を落とし、深く息を吐くクイシェ。
今朝、クイシェは腰が痛いと主張する師匠に肩を貸していた。その際に支えている側の師匠の腕が、事故にしてはわりと容赦なく胸に伸びてきたのを思い出す。
「うう……一体何度目ですか、こんな嘘つくの……」
「……」
「……」
「というかのう……おかしいおかしいと思いつつも結局は信じてしまうのはおぬしのいいところじゃなあ……」
「全然褒められてる気がしません! 毎度毎度、恩人がそんなひとだって思いたくない私の気持ちはどうしてくれるんですか!」
「まあその話は後じゃ後。今は村の一大事じゃ」
「ご、ごまかされませんよ! わたしも行きますからっ!」
「……まあ、魔獣じゃないというならそこまでの危険はないと思うが、どっちにせよ先に結界の張り直しじゃ。山に入るのは夜遅くになるぞ」
「かまいませんよっ。だいたい昨日お師匠様だって、わたしがもう一人前の魔導士だと仰いましたしっ!」
クイシェは、ギュランダムの弟子としては一応卒業した身だった。
「うむ。魔導士としては一人前じゃが人間としては四半人前じゃ。というか、四人揃っても一人前にはならんと思う」
「ううっ、そんな……」
「じゃからのう」
「こんな人に四分の一扱いされるなんて……」
「……」
弟子がショックを受けるポイントの微細なズレに、ちょっとだけ自粛しようかと思ったギュランダムだった。