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掲載日:2026/08/15

 缶を開ける音が、やけに大きく聞こえた。

 仕事から帰ったばかりの部屋は静かだった。テレビはつけていない。冷蔵庫の低い唸りと、窓の向こうを走る車の音が、ときどき耳に届くくらいだった。

 高橋修司はネクタイを外し、椅子の背に掛けた。三十八歳になった身体には、一日中着ていたスーツが少し重い。

 テーブルの上には、コンビニで買ってきた弁当と、五百ミリリットルの缶ビールが一本あった。

 風呂へ入る前に飲むか、入ってから飲むか。以前はそんなことを考えた日もあったが、最近は帰宅すると先に缶を開ける。

 ひと口飲んだ。

 冷たさが喉を通り、腹へ落ちていった。

「……ああ」

 誰に聞かせるでもなく声が出た。

 うまい、とは思わなかった。

 まずい、とも思わなかった。

 今日も終わった、という感じだけがあった。

 修司は弁当の蓋を開けた。焼き鮭と煮物と、少し乾いた白飯が入っている。箸を割り、鮭をひと口食べて、またビールを飲んだ。

 会社を出るまでは、今日は飲まないつもりだった。

 明日の午前中には客先を二件回る。昼からは支店へ戻って資料をまとめる。急ぎの案件はない。嫌なことがあったわけでもない。

 だから、今日は別に飲まなくてもいいと思っていた。

 それなのに駅前のコンビニへ入ると、いつものように酒の棚へ向かった。いつも飲んでいる銘柄が一本だけ残っていて、それを取った。

 買おう、と考えた覚えはなかった。

 修司はもう一度、缶を口へ運んだ。

 少し温くなり始めた泡が舌へ触れたとき、不意に、ひどく古い味を思い出した。

 苦かった。

 今飲んでいるものとは比べものにならないほど、ひどく苦かった。

 鼻に抜ける匂いまで嫌だった。

 同じビールだったことを、修司は長いこと忘れていた。

 小学校五年生の冬だった。

 年末になると、父方の親戚が祖父母の家へ集まった。

 大晦日より何日か前だったと思う。

 畳の座敷には二つの長机が並び、その上に刺身や寿司、揚げ物、煮物が所狭しと置かれていた。石油ストーブの匂いと料理の湯気、それに酒の匂いが混じっていた。

 男たちは瓶ビールを飲んでいた。女たちは料理を運んだり、座って話したりしていた。

 今になって思えば、女たちの中にも酒を飲んでいる人はいた。それでも子どもの修司の記憶には、酒を飲んで大きな声で笑っている男たちの姿ばかりが残っている。

 父も飲んでいた。

 叔父たちも飲んでいた。

 いつもは無口な祖父まで頬を赤くして、何度も同じ昔話をしていた。

 子どもたちは別の部屋でゲームをしていた。

 修司もそこにいたが、喉が渇いて台所へ行こうとしたとき、大人たちのいる座敷の前を通った。

「おい、修司」

 叔父の一人に呼び止められた。

「こっち来い」

 何だろうと思って近づいた。

 叔父はもうかなり酔っていた。

「もう五年生だろ」

「うん」

「男なら、ちょっとくらい飲めるだろ」

 周りで笑い声がした。

 誰かが「やめとけ」と言った気もする。

 父だったかもしれないし、別の叔父だったかもしれない。

 けれど、本気で止める人はいなかった。

 叔父は小さなコップへ瓶ビールを注いだ。淡い黄色の液体の上に、白い泡がこんもりと盛り上がった。

「一口だけだ。一口」

「いらない」

「いいって。大人の味だぞ」

 大人の味。

 その言葉だけは、妙に格好よく聞こえた。

 修司はコップを受け取った。

 周りの大人が見ていた。

 ほんの少し口をつけるつもりだった。

「もっといけ、もっと」

 叔父が笑った。

 それにつられて周りも笑った。

 修司はもう一度コップを傾けた。苦さに顔をしかめると、また笑い声が上がった。

「ほら、まだ残ってるぞ」

 煽られるまま、修司は意地になって半分ほどまで飲んだ。

 舌の奥に苦味が広がり、鼻へ嫌な匂いが抜けた。

「まずっ」

 大人たちが笑った。

「そりゃ最初はそうだ」

「そのうちうまくなるんだよ」

「まだ子どもだなあ」

 何がそんなに面白いのか分からなかった。

 腹が立った。

 こんなに苦くて変な匂いがするものを、どうして大人たちは嬉しそうに飲んでいるのだろう。

 口直しにジュースを飲んだ。

 甘さのあとにも、舌の奥には苦味が残った。

 その夜、修司は吐いた。

 夜中に気持ちが悪くなって目を覚まし、慌ててトイレへ駆け込んだ。

 夕食に食べたものが出た。

 喉がひりひりした。

 便器に手をついたまま動けずにいると、母が起きてきて背中をさすった。

「だから子どもがお酒なんか飲んじゃ駄目なの」

 母は怒っていた。

 誰に向けた怒りだったのか、修司には分からなかった。

 翌朝も頭が重かった。

 胃がむかむかして、朝食をほとんど食べられなかった。

「二日酔いだな」

 大人の誰かが笑った。

 それも腹立たしかった。

 こんなものの何が楽しいんだ。

 二度と飲むものか。

 布団の中で、本気でそう決めた。

 大人から見れば、子どもの決意など軽いものだったのかもしれない。

 けれど、あの朝の修司にとっては、一生の誓いに近かった。

 実際、それから長いあいだ、酒を好きになることはなかった。

 二十歳になった頃、大学の友人たちと居酒屋へ行った。

「やっと堂々と飲めるな」

 誰かがそう言って、乾杯にはビールが並んだ。

 修司だけはウーロン茶を頼んだ。

「高橋、飲まないの?」

「酒、好きじゃないんだよ」

「飲んだことあるの?」

「子どもの頃にちょっと」

「それノーカウントだろ」

 笑われた。

 けれど、嫌な笑いではなかった。

 無理に飲ませようとする者もいなかった。

 友人たちは酒を飲み、いつもよりよくしゃべった。顔が赤くなり、声が大きくなる。普段なら言わないようなことまで話し、翌日になると、その一部を覚えていなかった。

 修司はウーロン茶を飲みながら、それを見ていた。

 楽しくないわけではなかった。

 ただ、酒があることで何がそんなに変わるのか、まだよく分からなかった。

 大学を卒業すると、生命保険会社へ就職した。

 営業を希望したわけではなかった。

 採用面接で人当たりがいいと言われ、そのまま営業部門へ配属された。

 研修を終え、初めて支店へ出勤した頃、修司は覚えることの多さに驚いた。

 名刺の渡し方。電話の取り方。約束の時間より少し早く着くこと。相手より先に座らないこと。商品を説明する前に、まず相手の話を聞くこと。

 社会には、知らなかった決まりがいくつもあった。

 修司は、それを覚えるのが嫌いではなかった。

 決まりがあるほうが楽だった。

 正しいやり方が分かれば、その通りにすればいい。

 初めて契約が取れたのは、入社から三か月ほど経った頃だった。

 大きな契約ではなかった。

 それでも先輩たちは喜んでくれた。

「今日は飲みに行くぞ」

 教育係だった先輩が、修司の肩を叩いた。

「俺、あんまり酒飲めないんですけど」

「別に飲まなくてもいいって。今日はお前の祝いだから」

 駅前の小さな居酒屋へ、先輩二人と同期一人で入った。

 修司はウーロン茶を頼むつもりだった。

 けれど先輩が、

「乾杯だけビールにするか。嫌なら残せばいい」

 と言った。

 押しつけるような言い方ではなかった。

 断っても、たぶん何も言われなかった。

 それでも修司は少し迷ってから、

「じゃあ、小さいので」

 と言った。

 小さなグラスにビールを注いでもらった。

「初契約、おめでとう」

 いくつかのグラスが触れ合い、軽い音を立てた。

 修司は口をつけた。

 苦かった。

 けれど、子どもの頃ほどではなかった。

「どう?」

「やっぱり、そんなに好きじゃないですね」

「そのうち分かるよ」

 どこかで聞いたことのある言葉だった。

 けれど、その夜の修司は気に留めなかった。

 料理を食べ、仕事の話をした。

 普段は何でもできるように見える先輩が、昔の失敗を話してくれた。

 契約目前までいって断られたこと。客に怒鳴られたこと。何か月も成績が上がらず、朝、会社へ向かうのが嫌だった時期があったこと。

 修司は意外だった。

 そんな人にも、自分と同じような頃があったのだと知って、少し安心した。

 ビールは半分ほど残した。

 それでも、その夜は楽しかった。

 酒ではなく、人が楽しかったのだと修司は思った。

 それは、たぶん間違っていなかった。

 仕事を始めて二年目になると、客と食事へ行く機会が増えた。

 最初は先輩についていくだけだった。

 得意先の担当者がビールを頼めば、自分も同じものを頼んだ。日本酒を好む人と席を囲めば、勧められるまま少し飲んだ。

 何度も口にするうちに、苦味に慣れた。

 いつからだったのかは覚えていない。

 気づけば、一口目を「まずい」とは思わなくなっていた。

 真夏の外回りを終え、冷房の効いた店で飲んだビールを、うまいと思った日もある。冷えたグラスを手にしただけで、張りつめていたものがほどけるような気がした。

「高橋君、いける口だねえ」

 客から言われることも増えた。

「いや、そんなに強くないですよ」

 そう笑いながら、空いたグラスを差し出した。

 酒が入ると話しやすくなる人がいた。

 店では仕事の話をほとんどしない人もいた。

 野球のこと。子どもの受験。妻と喧嘩したこと。昔飼っていた犬。若い頃に乗っていた車。

 そんな話を聞いていると、相手が契約書の向こうにいる「顧客」ではなく、一人の人間になる。

 翌週、会社で会ったとき、

「この前は飲みすぎたな」

 と照れたように笑う。

 修司も笑った。

 そういう相手とは、仕事も少しやりやすくなった。

 酒そのものが契約を取ってくれるわけではない。

 飲めば誰とでも仲良くなれるわけでもない。

 それでも、酒の席で初めて見える顔は確かにあった。

 修司は、それを嫌いではなかった。

 三十歳になる頃には、酒を飲まなかった昔の自分のほうが遠くなっていた。

 同期と仕事帰りに飲んだ。昇進した先輩を祝った。後輩が失敗した夜には、

「今日は俺が出すから」

 と言って店へ連れていった。

「無理に飲まなくていいぞ」

 そう言いながら、自分はビールを注文した。

 いつからか、それが自然になっていた。

 楽しい酒も多かった。

 同期が結婚すると報告した夜は、何軒も店を回った。

 支店で大きな目標を達成した日には、普段ほとんど飲まない支店長まで頬を赤くして笑っていた。

 長く付き合った取引先の男が退職するとき、二人で静かに日本酒を飲んだこともある。

「高橋君には世話になったな」

 そう言われた。

 修司は、それほど大したことをした覚えがなかった。

 それでも嬉しかった。

 あの夜に飲んだ酒の銘柄は、今でも覚えている。

 酒がなければ生まれなかった会話だったのかもしれない。

 酒がなくても、いつか話せたことだったのかもしれない。

 そこまでは分からなかった。

 一人で飲み始めたのは、もっと後だった。

 きっかけらしいきっかけはない。

 ある日、仕事帰りにスーパーへ寄った。

 惣菜を籠に入れ、そのついでに缶ビールを一本買った。

 家へ帰り、テレビをつけて飲んだ。

 それだけだった。

 外で飲むより安かった。

 帰る時間を気にしなくていい。

 誰かの話を聞かなくていい。

 何かを話さなくてもいい。

 飲んで、風呂へ入って、眠ればいい。

 その夜、修司はよく眠れた。

 次の日も飲んだわけではない。

 数日後、また一本買った。

 金曜日だったと思う。

 一週間が終わった褒美だった。

 それから金曜日には飲むようになった。

 いつの間にか、木曜日にも飲んだ。

 水曜日にも飲むようになった。

 嫌な客に会った日は酒を買った。

 数字が上がった日にも買った。

 後輩のミスを上司に謝った日にも買った。

 大きな契約が取れた日にも買った。

 理由はいくらでもあった。

 良い日にも悪い日にも、酒は似合った。

 そのうち、理由を探す必要がなくなった。

 帰宅して、冷蔵庫を開ける。

 缶を取り出す。

 開ける。

 飲む。

 それで一日が終わった。

 仕事をしている間、修司はいつも誰かと話していた。

 客と話す。同僚と話す。上司へ報告する。後輩の相談を聞く。電話に出る。メールを返す。

 一日に何十人もの人間と言葉を交わす日もあった。

 だから家へ帰ると、一人になりたかった。

 誰にも気を遣わなくていい。

 返事もしなくていい。

 それは楽だった。

 酒を飲みながらテレビを眺めた。何を見たのか翌日には覚えていないことも多かった。

 スマートフォンを少し触る。

 風呂へ入る。

 また飲む。

 眠る。

 翌朝には仕事へ行く。

 そんな生活が何年か続いた。

 特別な不幸はなかった。

 会社を辞めたいと思う日はあったが、本気で辞表を書いたことはない。

 仕事が好きかと訊かれれば答えに困ったし、嫌いかと訊かれても同じだった。

 良い客もいた。嫌な客もいた。気の合う同僚もいた。苦手な上司もいた。

 営業成績も、ものすごく良いわけでも、悪いわけでもなかった。

 結婚を考えた女性もいた。

 結局、別れた。

 大喧嘩をしたわけではない。

 彼女が転勤し、会う回数が減った。

 電話が減った。

 短いメッセージだけの日が増えた。

 それが何か月か続き、最後には、何を話せばいいのか分からなくなった。

「結婚したいと思ってる?」

 別れる少し前、彼女から一度だけ訊かれた。

「そのうち」

 修司は答えた。

 その「そのうち」がいつなのか、自分でも分からなかった。

 別れた日の夜、修司は飲んだ。

 翌日も飲んだ。

 けれど、その前の日にも飲んでいた。

 失恋したから飲んだのか。

 いつも通り飲んだだけなのか。

 自分でも分からなかった。

 三十代半ばを過ぎると、健康診断で少し数字を注意されるようになった。

「お酒はどのくらい飲みます?」

 医師に訊かれた。

「毎日じゃないです」

 修司は答えた。

 嘘をついたつもりはなかった。

 飲まない日も、なくはなかった。

「週に何日くらいですか」

 少し考えた。

「四、五日ですかね」

 口にしてから、本当にそうだったか分からなくなった。

「休肝日は作ってくださいね」

「はい」

 修司は素直に頷いた。

 その日の夜も飲んだ。

 健康診断が終わったから、という理由だった。

 翌週、一日だけ飲まなかった。

 自分でも、ちゃんと休めることを確認しておきたかった。

 夕食を済ませると、妙に時間が余った。

 いつもなら酒を飲みながらゆっくり食べるので、一時間近くかかる。

 その日は十五分ほどで食べ終わった。

 食器を洗った。

 風呂へ入った。

 髪を乾かした。

 それでもまだ九時前だった。

 テレビをつけたが、興味のない番組だった。消して、本棚からずいぶん前に買った小説を取り出した。三ページほど読んだところで文字が頭に入らなくなり、閉じた。

 スマートフォンを見た。

 誰からも連絡は来ていなかった。

 別に、誰かから連絡が来る予定もなかった。

 冷蔵庫には酒が入っていた。

 一度開けて、水を取った。

 しばらくして、また開けた。

 今度も水だけ取った。

 十一時前に布団へ入った。

 目を閉じてもなかなか眠れなかった。

 昔から夜はこんなに長かっただろうか。

 そんなことを考えた。

 翌朝は普通に仕事へ行った。

 頭が少し軽いような気はした。

 だからといって、何かが変わったわけではない。

 その夜には、また飲んだ。

 それからも、ときどき飲まない日を作った。

 ただ、気づけば「飲まない日」は、意識して作らなければ存在しなくなっていた。

 自然に飲まなかった日がいつだったのか、思い出せなかった。

 修司は、それを深く考えなかった。

 朝から飲むわけではない。

 酔ったまま仕事へ行くわけでもない。

 酒で誰かと喧嘩したこともない。

 翌日の仕事に支障が出るほど飲むことも、ほとんどない。

 世の中には、もっと飲む人間がいくらでもいる。

 自分は普通だと思った。

 そう思えば、それ以上考えなくて済んだ。

 四十歳が見えてきた頃、修司は若い社員の教育を任されることが増えた。

 ある春、新卒の男が一人入ってきた。

 真面目な青年だった。

 電話を取るたびに声が少し上ずり、名刺交換では必要以上に深く頭を下げた。

 昔の自分も、あんなものだったのだろうかと修司は思った。

 その新人が初めて契約を取った日、支店の数人で食事へ行った。

「今日は主役なんだから、好きなの頼め」

 修司が言うと、新人はメニューを眺めてから、

「僕、酒飲めないんで、コーラでいいですか」

 と言った。

「いいよ」

 修司はすぐに答えた。

 横にいた同僚が笑った。

「若いのに飲めないのか」

「すみません」

「謝ることじゃないだろ」

 修司はそう言った。

 それから店員へ、

「とりあえず生で」

 と自分の分を頼んだ。

 新人はコーラを飲み、修司たちは酒を飲んだ。

 仕事の話をした。

 新人の小さな失敗談に笑った。

 修司も、自分が入社したばかりの頃に電話で客の名前を間違えた話をした。

 帰り際、新人は、

「今日は楽しかったです」

 と言った。

 少し疲れた顔をしていたが、笑っていた。

「また行こうな」

 修司は答えた。

 その夜、帰宅すると冷蔵庫を開けた。

 外で二杯飲んでいた。

 十分だったはずなのに、冷蔵庫の奥に缶が一本あるのを見つけると、なぜかほっとした。

 取り出した。

 開けた。

 飲んだ。

 その音を、あのときは何とも思わなかった。

 今夜も、ほとんど同じだった。

 弁当を半分ほど食べたところで、最初の缶が空になった。

 修司は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

 もう一本あると思っていた。

 なかった。

「あれ」

 棚の奥を見た。

 何となく野菜室まで開けた。

 もちろん、そこに酒が入っているはずはない。

 昨日、最後の一本を飲んだのだった。

 修司は冷蔵庫を閉めた。

 一本飲んだのだから、十分だ。

 そう思って椅子へ戻った。

 弁当の残りを食べた。

 テレビをつけるとニュースが流れていた。

 水を一杯飲んだ。

 それでも、何かが終わっていない感じがした。

 時計を見ると、午後十時を少し過ぎていた。

 コンビニは近い。

 歩いて五分もかからない。

 一本買って戻るだけなら、十分もあれば足りる。

 明日も仕事だが、一本くらいなら問題ない。

 修司は財布を持った。

 玄関へ行き、靴を履いた。

 しゃがんで紐を結びかけたところで、手が止まった。

 白い泡が浮かんだ。

 赤い顔をした叔父がいた。

『一口だけだ。一口』

 修司は靴紐を持ったまま、玄関にしゃがんでいた。

 苦かった。

 吐いた。

 二度と飲まないと思った。

 ずいぶん昔のことだった。

 子どもだった。

 味覚も変わった。

 暮らしも変わった。

 好きになったものも、嫌いになったものもある。

 修司は立ち上がろうとした。

 そのとき、玄関の静けさが妙に耳についた。

 誰もいなかった。

 笑っている叔父もいない。

 乾杯を待っている先輩もいない。

 得意先もいない。

 祝い事もない。

 今日は、嫌なことがあった夜ですらない。

 それでも自分は、酒を買うために靴を履いていた。

 修司はしばらく動かなかった。

 喉が渇いているわけではない。

 酔いが足りないというほどでもない。

 酒が飲みたい。

 そうなのだろう。

 けれど、その言葉は、思ったより自分になじまなかった。

 修司は靴を脱いだ。

 もう飲まないと決めたわけではない。

 これから買いに行かないと決めたわけでもない。

 ただ、そのときはいったん脱いだ。

 部屋へ戻る。

 テーブルには空になった缶があった。

 手に取ると、ひどく軽かった。

 流しで水を入れると、缶の内側から薄い泡が浮いた。すすいだ水を捨て、水切り籠の横へ置いた。

 そのままコップに水を入れて飲んだ。

 冷たかった。

 それだけだった。

 テレビでは天気予報が始まっていた。

 明日は晴れるらしい。

 修司はソファへ座った。

 まだ十一時にもなっていない。

 眠るには少し早かった。

 何をしようかと考えた。

 何も思いつかなかった。

 それでも、しばらくそのまま座っていた。

 やがて冷蔵庫の音が止まった。

 部屋が静かになった。

 窓の外を車が一台通り、その音も遠ざかっていった。

 翌朝、修司はいつもより少し早く目を覚ました。

 頭痛はなかった。

 喉もそれほど渇いていない。

 だからといって、特別爽快というわけでもなかった。

 顔を洗い、シャツを着た。

 朝食は食パンとコーヒーだった。

 いつもと同じだった。

 電車も同じ時間に来た。

 会社へ着けば、机には処理しなければならない書類があり、メールも何通か届いていた。

 昨夜のことを誰かに話そうとは思わなかった。

 話すほどのことでもない。

 酒を一本、買いに行かなかった。

 ただ、それだけだった。

 その日の仕事は忙しかった。

 午前中に訪問した客から予定外の質問を受け、支店へ戻って資料を調べた。

 昼食はコンビニのおにぎり二つで済ませた。

 午後には後輩が作った書類を直した。

「すみません」

「ここだけだから。次から気をつければいいよ」

 修司はいつものように答えた。

 夕方には肩が重くなっていた。

 帰りの電車では座れなかった。

 駅に着き、改札を出た。

 家までは十分ほどだった。

 途中に、いつものコンビニがある。

 自動ドアが開いた。

 修司は中へ入った。

 弁当を取った。

 サラダも取った。

 それから酒の棚の前へ行った。

 いつものビールが並んでいる。

 冷蔵ケースの白い光を受けて、缶の表面に細かな水滴が浮いていた。

 修司は一本取った。

 会計を済ませ、家へ帰った。

 ネクタイを外した。

 手を洗った。

 弁当とサラダをテーブルへ置いた。

 ビールも、その隣へ置いた。

 椅子へ座る。

 缶へ手を伸ばした。

 人差し指をプルタブへ掛ける。

 薄い金属の感触が、指先にあった。

 冷蔵庫が低く唸っている。

 修司はしばらく、そのままの姿勢でいた。

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