酒
缶を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
仕事から帰ったばかりの部屋は静かだった。テレビはつけていない。冷蔵庫の低い唸りと、窓の向こうを走る車の音が、ときどき耳に届くくらいだった。
高橋修司はネクタイを外し、椅子の背に掛けた。三十八歳になった身体には、一日中着ていたスーツが少し重い。
テーブルの上には、コンビニで買ってきた弁当と、五百ミリリットルの缶ビールが一本あった。
風呂へ入る前に飲むか、入ってから飲むか。以前はそんなことを考えた日もあったが、最近は帰宅すると先に缶を開ける。
ひと口飲んだ。
冷たさが喉を通り、腹へ落ちていった。
「……ああ」
誰に聞かせるでもなく声が出た。
うまい、とは思わなかった。
まずい、とも思わなかった。
今日も終わった、という感じだけがあった。
修司は弁当の蓋を開けた。焼き鮭と煮物と、少し乾いた白飯が入っている。箸を割り、鮭をひと口食べて、またビールを飲んだ。
会社を出るまでは、今日は飲まないつもりだった。
明日の午前中には客先を二件回る。昼からは支店へ戻って資料をまとめる。急ぎの案件はない。嫌なことがあったわけでもない。
だから、今日は別に飲まなくてもいいと思っていた。
それなのに駅前のコンビニへ入ると、いつものように酒の棚へ向かった。いつも飲んでいる銘柄が一本だけ残っていて、それを取った。
買おう、と考えた覚えはなかった。
修司はもう一度、缶を口へ運んだ。
少し温くなり始めた泡が舌へ触れたとき、不意に、ひどく古い味を思い出した。
苦かった。
今飲んでいるものとは比べものにならないほど、ひどく苦かった。
鼻に抜ける匂いまで嫌だった。
同じビールだったことを、修司は長いこと忘れていた。
小学校五年生の冬だった。
年末になると、父方の親戚が祖父母の家へ集まった。
大晦日より何日か前だったと思う。
畳の座敷には二つの長机が並び、その上に刺身や寿司、揚げ物、煮物が所狭しと置かれていた。石油ストーブの匂いと料理の湯気、それに酒の匂いが混じっていた。
男たちは瓶ビールを飲んでいた。女たちは料理を運んだり、座って話したりしていた。
今になって思えば、女たちの中にも酒を飲んでいる人はいた。それでも子どもの修司の記憶には、酒を飲んで大きな声で笑っている男たちの姿ばかりが残っている。
父も飲んでいた。
叔父たちも飲んでいた。
いつもは無口な祖父まで頬を赤くして、何度も同じ昔話をしていた。
子どもたちは別の部屋でゲームをしていた。
修司もそこにいたが、喉が渇いて台所へ行こうとしたとき、大人たちのいる座敷の前を通った。
「おい、修司」
叔父の一人に呼び止められた。
「こっち来い」
何だろうと思って近づいた。
叔父はもうかなり酔っていた。
「もう五年生だろ」
「うん」
「男なら、ちょっとくらい飲めるだろ」
周りで笑い声がした。
誰かが「やめとけ」と言った気もする。
父だったかもしれないし、別の叔父だったかもしれない。
けれど、本気で止める人はいなかった。
叔父は小さなコップへ瓶ビールを注いだ。淡い黄色の液体の上に、白い泡がこんもりと盛り上がった。
「一口だけだ。一口」
「いらない」
「いいって。大人の味だぞ」
大人の味。
その言葉だけは、妙に格好よく聞こえた。
修司はコップを受け取った。
周りの大人が見ていた。
ほんの少し口をつけるつもりだった。
「もっといけ、もっと」
叔父が笑った。
それにつられて周りも笑った。
修司はもう一度コップを傾けた。苦さに顔をしかめると、また笑い声が上がった。
「ほら、まだ残ってるぞ」
煽られるまま、修司は意地になって半分ほどまで飲んだ。
舌の奥に苦味が広がり、鼻へ嫌な匂いが抜けた。
「まずっ」
大人たちが笑った。
「そりゃ最初はそうだ」
「そのうちうまくなるんだよ」
「まだ子どもだなあ」
何がそんなに面白いのか分からなかった。
腹が立った。
こんなに苦くて変な匂いがするものを、どうして大人たちは嬉しそうに飲んでいるのだろう。
口直しにジュースを飲んだ。
甘さのあとにも、舌の奥には苦味が残った。
その夜、修司は吐いた。
夜中に気持ちが悪くなって目を覚まし、慌ててトイレへ駆け込んだ。
夕食に食べたものが出た。
喉がひりひりした。
便器に手をついたまま動けずにいると、母が起きてきて背中をさすった。
「だから子どもがお酒なんか飲んじゃ駄目なの」
母は怒っていた。
誰に向けた怒りだったのか、修司には分からなかった。
翌朝も頭が重かった。
胃がむかむかして、朝食をほとんど食べられなかった。
「二日酔いだな」
大人の誰かが笑った。
それも腹立たしかった。
こんなものの何が楽しいんだ。
二度と飲むものか。
布団の中で、本気でそう決めた。
大人から見れば、子どもの決意など軽いものだったのかもしれない。
けれど、あの朝の修司にとっては、一生の誓いに近かった。
実際、それから長いあいだ、酒を好きになることはなかった。
二十歳になった頃、大学の友人たちと居酒屋へ行った。
「やっと堂々と飲めるな」
誰かがそう言って、乾杯にはビールが並んだ。
修司だけはウーロン茶を頼んだ。
「高橋、飲まないの?」
「酒、好きじゃないんだよ」
「飲んだことあるの?」
「子どもの頃にちょっと」
「それノーカウントだろ」
笑われた。
けれど、嫌な笑いではなかった。
無理に飲ませようとする者もいなかった。
友人たちは酒を飲み、いつもよりよくしゃべった。顔が赤くなり、声が大きくなる。普段なら言わないようなことまで話し、翌日になると、その一部を覚えていなかった。
修司はウーロン茶を飲みながら、それを見ていた。
楽しくないわけではなかった。
ただ、酒があることで何がそんなに変わるのか、まだよく分からなかった。
大学を卒業すると、生命保険会社へ就職した。
営業を希望したわけではなかった。
採用面接で人当たりがいいと言われ、そのまま営業部門へ配属された。
研修を終え、初めて支店へ出勤した頃、修司は覚えることの多さに驚いた。
名刺の渡し方。電話の取り方。約束の時間より少し早く着くこと。相手より先に座らないこと。商品を説明する前に、まず相手の話を聞くこと。
社会には、知らなかった決まりがいくつもあった。
修司は、それを覚えるのが嫌いではなかった。
決まりがあるほうが楽だった。
正しいやり方が分かれば、その通りにすればいい。
初めて契約が取れたのは、入社から三か月ほど経った頃だった。
大きな契約ではなかった。
それでも先輩たちは喜んでくれた。
「今日は飲みに行くぞ」
教育係だった先輩が、修司の肩を叩いた。
「俺、あんまり酒飲めないんですけど」
「別に飲まなくてもいいって。今日はお前の祝いだから」
駅前の小さな居酒屋へ、先輩二人と同期一人で入った。
修司はウーロン茶を頼むつもりだった。
けれど先輩が、
「乾杯だけビールにするか。嫌なら残せばいい」
と言った。
押しつけるような言い方ではなかった。
断っても、たぶん何も言われなかった。
それでも修司は少し迷ってから、
「じゃあ、小さいので」
と言った。
小さなグラスにビールを注いでもらった。
「初契約、おめでとう」
いくつかのグラスが触れ合い、軽い音を立てた。
修司は口をつけた。
苦かった。
けれど、子どもの頃ほどではなかった。
「どう?」
「やっぱり、そんなに好きじゃないですね」
「そのうち分かるよ」
どこかで聞いたことのある言葉だった。
けれど、その夜の修司は気に留めなかった。
料理を食べ、仕事の話をした。
普段は何でもできるように見える先輩が、昔の失敗を話してくれた。
契約目前までいって断られたこと。客に怒鳴られたこと。何か月も成績が上がらず、朝、会社へ向かうのが嫌だった時期があったこと。
修司は意外だった。
そんな人にも、自分と同じような頃があったのだと知って、少し安心した。
ビールは半分ほど残した。
それでも、その夜は楽しかった。
酒ではなく、人が楽しかったのだと修司は思った。
それは、たぶん間違っていなかった。
仕事を始めて二年目になると、客と食事へ行く機会が増えた。
最初は先輩についていくだけだった。
得意先の担当者がビールを頼めば、自分も同じものを頼んだ。日本酒を好む人と席を囲めば、勧められるまま少し飲んだ。
何度も口にするうちに、苦味に慣れた。
いつからだったのかは覚えていない。
気づけば、一口目を「まずい」とは思わなくなっていた。
真夏の外回りを終え、冷房の効いた店で飲んだビールを、うまいと思った日もある。冷えたグラスを手にしただけで、張りつめていたものがほどけるような気がした。
「高橋君、いける口だねえ」
客から言われることも増えた。
「いや、そんなに強くないですよ」
そう笑いながら、空いたグラスを差し出した。
酒が入ると話しやすくなる人がいた。
店では仕事の話をほとんどしない人もいた。
野球のこと。子どもの受験。妻と喧嘩したこと。昔飼っていた犬。若い頃に乗っていた車。
そんな話を聞いていると、相手が契約書の向こうにいる「顧客」ではなく、一人の人間になる。
翌週、会社で会ったとき、
「この前は飲みすぎたな」
と照れたように笑う。
修司も笑った。
そういう相手とは、仕事も少しやりやすくなった。
酒そのものが契約を取ってくれるわけではない。
飲めば誰とでも仲良くなれるわけでもない。
それでも、酒の席で初めて見える顔は確かにあった。
修司は、それを嫌いではなかった。
三十歳になる頃には、酒を飲まなかった昔の自分のほうが遠くなっていた。
同期と仕事帰りに飲んだ。昇進した先輩を祝った。後輩が失敗した夜には、
「今日は俺が出すから」
と言って店へ連れていった。
「無理に飲まなくていいぞ」
そう言いながら、自分はビールを注文した。
いつからか、それが自然になっていた。
楽しい酒も多かった。
同期が結婚すると報告した夜は、何軒も店を回った。
支店で大きな目標を達成した日には、普段ほとんど飲まない支店長まで頬を赤くして笑っていた。
長く付き合った取引先の男が退職するとき、二人で静かに日本酒を飲んだこともある。
「高橋君には世話になったな」
そう言われた。
修司は、それほど大したことをした覚えがなかった。
それでも嬉しかった。
あの夜に飲んだ酒の銘柄は、今でも覚えている。
酒がなければ生まれなかった会話だったのかもしれない。
酒がなくても、いつか話せたことだったのかもしれない。
そこまでは分からなかった。
一人で飲み始めたのは、もっと後だった。
きっかけらしいきっかけはない。
ある日、仕事帰りにスーパーへ寄った。
惣菜を籠に入れ、そのついでに缶ビールを一本買った。
家へ帰り、テレビをつけて飲んだ。
それだけだった。
外で飲むより安かった。
帰る時間を気にしなくていい。
誰かの話を聞かなくていい。
何かを話さなくてもいい。
飲んで、風呂へ入って、眠ればいい。
その夜、修司はよく眠れた。
次の日も飲んだわけではない。
数日後、また一本買った。
金曜日だったと思う。
一週間が終わった褒美だった。
それから金曜日には飲むようになった。
いつの間にか、木曜日にも飲んだ。
水曜日にも飲むようになった。
嫌な客に会った日は酒を買った。
数字が上がった日にも買った。
後輩のミスを上司に謝った日にも買った。
大きな契約が取れた日にも買った。
理由はいくらでもあった。
良い日にも悪い日にも、酒は似合った。
そのうち、理由を探す必要がなくなった。
帰宅して、冷蔵庫を開ける。
缶を取り出す。
開ける。
飲む。
それで一日が終わった。
仕事をしている間、修司はいつも誰かと話していた。
客と話す。同僚と話す。上司へ報告する。後輩の相談を聞く。電話に出る。メールを返す。
一日に何十人もの人間と言葉を交わす日もあった。
だから家へ帰ると、一人になりたかった。
誰にも気を遣わなくていい。
返事もしなくていい。
それは楽だった。
酒を飲みながらテレビを眺めた。何を見たのか翌日には覚えていないことも多かった。
スマートフォンを少し触る。
風呂へ入る。
また飲む。
眠る。
翌朝には仕事へ行く。
そんな生活が何年か続いた。
特別な不幸はなかった。
会社を辞めたいと思う日はあったが、本気で辞表を書いたことはない。
仕事が好きかと訊かれれば答えに困ったし、嫌いかと訊かれても同じだった。
良い客もいた。嫌な客もいた。気の合う同僚もいた。苦手な上司もいた。
営業成績も、ものすごく良いわけでも、悪いわけでもなかった。
結婚を考えた女性もいた。
結局、別れた。
大喧嘩をしたわけではない。
彼女が転勤し、会う回数が減った。
電話が減った。
短いメッセージだけの日が増えた。
それが何か月か続き、最後には、何を話せばいいのか分からなくなった。
「結婚したいと思ってる?」
別れる少し前、彼女から一度だけ訊かれた。
「そのうち」
修司は答えた。
その「そのうち」がいつなのか、自分でも分からなかった。
別れた日の夜、修司は飲んだ。
翌日も飲んだ。
けれど、その前の日にも飲んでいた。
失恋したから飲んだのか。
いつも通り飲んだだけなのか。
自分でも分からなかった。
三十代半ばを過ぎると、健康診断で少し数字を注意されるようになった。
「お酒はどのくらい飲みます?」
医師に訊かれた。
「毎日じゃないです」
修司は答えた。
嘘をついたつもりはなかった。
飲まない日も、なくはなかった。
「週に何日くらいですか」
少し考えた。
「四、五日ですかね」
口にしてから、本当にそうだったか分からなくなった。
「休肝日は作ってくださいね」
「はい」
修司は素直に頷いた。
その日の夜も飲んだ。
健康診断が終わったから、という理由だった。
翌週、一日だけ飲まなかった。
自分でも、ちゃんと休めることを確認しておきたかった。
夕食を済ませると、妙に時間が余った。
いつもなら酒を飲みながらゆっくり食べるので、一時間近くかかる。
その日は十五分ほどで食べ終わった。
食器を洗った。
風呂へ入った。
髪を乾かした。
それでもまだ九時前だった。
テレビをつけたが、興味のない番組だった。消して、本棚からずいぶん前に買った小説を取り出した。三ページほど読んだところで文字が頭に入らなくなり、閉じた。
スマートフォンを見た。
誰からも連絡は来ていなかった。
別に、誰かから連絡が来る予定もなかった。
冷蔵庫には酒が入っていた。
一度開けて、水を取った。
しばらくして、また開けた。
今度も水だけ取った。
十一時前に布団へ入った。
目を閉じてもなかなか眠れなかった。
昔から夜はこんなに長かっただろうか。
そんなことを考えた。
翌朝は普通に仕事へ行った。
頭が少し軽いような気はした。
だからといって、何かが変わったわけではない。
その夜には、また飲んだ。
それからも、ときどき飲まない日を作った。
ただ、気づけば「飲まない日」は、意識して作らなければ存在しなくなっていた。
自然に飲まなかった日がいつだったのか、思い出せなかった。
修司は、それを深く考えなかった。
朝から飲むわけではない。
酔ったまま仕事へ行くわけでもない。
酒で誰かと喧嘩したこともない。
翌日の仕事に支障が出るほど飲むことも、ほとんどない。
世の中には、もっと飲む人間がいくらでもいる。
自分は普通だと思った。
そう思えば、それ以上考えなくて済んだ。
四十歳が見えてきた頃、修司は若い社員の教育を任されることが増えた。
ある春、新卒の男が一人入ってきた。
真面目な青年だった。
電話を取るたびに声が少し上ずり、名刺交換では必要以上に深く頭を下げた。
昔の自分も、あんなものだったのだろうかと修司は思った。
その新人が初めて契約を取った日、支店の数人で食事へ行った。
「今日は主役なんだから、好きなの頼め」
修司が言うと、新人はメニューを眺めてから、
「僕、酒飲めないんで、コーラでいいですか」
と言った。
「いいよ」
修司はすぐに答えた。
横にいた同僚が笑った。
「若いのに飲めないのか」
「すみません」
「謝ることじゃないだろ」
修司はそう言った。
それから店員へ、
「とりあえず生で」
と自分の分を頼んだ。
新人はコーラを飲み、修司たちは酒を飲んだ。
仕事の話をした。
新人の小さな失敗談に笑った。
修司も、自分が入社したばかりの頃に電話で客の名前を間違えた話をした。
帰り際、新人は、
「今日は楽しかったです」
と言った。
少し疲れた顔をしていたが、笑っていた。
「また行こうな」
修司は答えた。
その夜、帰宅すると冷蔵庫を開けた。
外で二杯飲んでいた。
十分だったはずなのに、冷蔵庫の奥に缶が一本あるのを見つけると、なぜかほっとした。
取り出した。
開けた。
飲んだ。
その音を、あのときは何とも思わなかった。
今夜も、ほとんど同じだった。
弁当を半分ほど食べたところで、最初の缶が空になった。
修司は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
もう一本あると思っていた。
なかった。
「あれ」
棚の奥を見た。
何となく野菜室まで開けた。
もちろん、そこに酒が入っているはずはない。
昨日、最後の一本を飲んだのだった。
修司は冷蔵庫を閉めた。
一本飲んだのだから、十分だ。
そう思って椅子へ戻った。
弁当の残りを食べた。
テレビをつけるとニュースが流れていた。
水を一杯飲んだ。
それでも、何かが終わっていない感じがした。
時計を見ると、午後十時を少し過ぎていた。
コンビニは近い。
歩いて五分もかからない。
一本買って戻るだけなら、十分もあれば足りる。
明日も仕事だが、一本くらいなら問題ない。
修司は財布を持った。
玄関へ行き、靴を履いた。
しゃがんで紐を結びかけたところで、手が止まった。
白い泡が浮かんだ。
赤い顔をした叔父がいた。
『一口だけだ。一口』
修司は靴紐を持ったまま、玄関にしゃがんでいた。
苦かった。
吐いた。
二度と飲まないと思った。
ずいぶん昔のことだった。
子どもだった。
味覚も変わった。
暮らしも変わった。
好きになったものも、嫌いになったものもある。
修司は立ち上がろうとした。
そのとき、玄関の静けさが妙に耳についた。
誰もいなかった。
笑っている叔父もいない。
乾杯を待っている先輩もいない。
得意先もいない。
祝い事もない。
今日は、嫌なことがあった夜ですらない。
それでも自分は、酒を買うために靴を履いていた。
修司はしばらく動かなかった。
喉が渇いているわけではない。
酔いが足りないというほどでもない。
酒が飲みたい。
そうなのだろう。
けれど、その言葉は、思ったより自分になじまなかった。
修司は靴を脱いだ。
もう飲まないと決めたわけではない。
これから買いに行かないと決めたわけでもない。
ただ、そのときはいったん脱いだ。
部屋へ戻る。
テーブルには空になった缶があった。
手に取ると、ひどく軽かった。
流しで水を入れると、缶の内側から薄い泡が浮いた。すすいだ水を捨て、水切り籠の横へ置いた。
そのままコップに水を入れて飲んだ。
冷たかった。
それだけだった。
テレビでは天気予報が始まっていた。
明日は晴れるらしい。
修司はソファへ座った。
まだ十一時にもなっていない。
眠るには少し早かった。
何をしようかと考えた。
何も思いつかなかった。
それでも、しばらくそのまま座っていた。
やがて冷蔵庫の音が止まった。
部屋が静かになった。
窓の外を車が一台通り、その音も遠ざかっていった。
翌朝、修司はいつもより少し早く目を覚ました。
頭痛はなかった。
喉もそれほど渇いていない。
だからといって、特別爽快というわけでもなかった。
顔を洗い、シャツを着た。
朝食は食パンとコーヒーだった。
いつもと同じだった。
電車も同じ時間に来た。
会社へ着けば、机には処理しなければならない書類があり、メールも何通か届いていた。
昨夜のことを誰かに話そうとは思わなかった。
話すほどのことでもない。
酒を一本、買いに行かなかった。
ただ、それだけだった。
その日の仕事は忙しかった。
午前中に訪問した客から予定外の質問を受け、支店へ戻って資料を調べた。
昼食はコンビニのおにぎり二つで済ませた。
午後には後輩が作った書類を直した。
「すみません」
「ここだけだから。次から気をつければいいよ」
修司はいつものように答えた。
夕方には肩が重くなっていた。
帰りの電車では座れなかった。
駅に着き、改札を出た。
家までは十分ほどだった。
途中に、いつものコンビニがある。
自動ドアが開いた。
修司は中へ入った。
弁当を取った。
サラダも取った。
それから酒の棚の前へ行った。
いつものビールが並んでいる。
冷蔵ケースの白い光を受けて、缶の表面に細かな水滴が浮いていた。
修司は一本取った。
会計を済ませ、家へ帰った。
ネクタイを外した。
手を洗った。
弁当とサラダをテーブルへ置いた。
ビールも、その隣へ置いた。
椅子へ座る。
缶へ手を伸ばした。
人差し指をプルタブへ掛ける。
薄い金属の感触が、指先にあった。
冷蔵庫が低く唸っている。
修司はしばらく、そのままの姿勢でいた。




