昭和47年6月
お寿司やだったりケーキ屋だったりするケンちゃんは、昭和の子供の憧れだった
わかば幼稚園の年長組だったヨシコには、世界で一番好きなテレビ番組があった。
「ケーキ屋ケンちゃん」だ。
近所には女の子がいなかったので、いつも男の子たちと空き地を走り回り、
バッタやザリガニルをつかまえてばかりいるヨシコは、
幼稚園では「乱暴な子」だとひそひそ言われていたが、本人はわかば幼稚園の女王様のつもりでいる。
その日の夕方も、ヨシコはちゃぶ台の自分の席に座り、茶碗を右手に、視線だけテレビに釘付けだった。
最初は父と母と3人で夕ご飯を食べ始めたのに、
オープニングの音楽が流れたとたん、ヨシコの箸はすっかり止まってしまった。
茶碗のごはんは、まだ半分以上白く山になっている。
身をほぐすのが面倒くさいだけの焼き魚には、全く箸をつけていない。
ヨシコは大好物のふりかけを、白いごはんにどっさりかけた。
でもTVに気を取られているので、ちゃぶ台にまでふりかけがこぼれている。
「もう、ちゃんと、手元を見なさいよ。」
向かい側から母の声が飛んでくる。
父は黙って席を立つ。お風呂場に向かったようだ。
番組の中で、ケンちゃんのお母さんが学校から帰ってきたケンちゃんに笑顔で声をかける。
「お帰り!戸棚にケーキがあるわよ」
その一言を聞いたとたん、ヨシコの中で、別のスイッチが入った。
戸棚に、ケーキ。
うちにも、あるのかな。
魚嫌い。ごはんも美味しくない。ケーキは甘くて美味しいよね。
気がついたときには、ヨシコはもうちゃぶ台から立ち上がっていた。
茶碗のごはんはそのまま、焼き魚は箸をつけていないまま。
「ちょっと、どこ行くの。ごはん食べてからにしなさい」
母の声が、さっきより少し鋭くなる。
でも、ヨシコの耳には、ケンちゃんのお母さんの声の方がよく響いていた。
戸棚って、どこだろう。
台所の茶色い戸棚。
流しの下の白い引き戸。
ちゃぶ台の横の、食器をしまっている低い戸だな。
6歳の頭の中で、「戸棚」と名のつきそうな場所が、次々と浮かぶ。
ヨシコはドラマのケンちゃんのまねをして、一番近くの戸をそっと開けてみた。
茶わんと小皿しか入っていない。
次はこっちだ。ガラッ。アルミの鍋とざる。ケーキの影もない。
「ヨシコ、ごはん。早く食べなさいってば。片付けられないじゃないの」
母の声の温度が、じりじりと上がっていく。
父がお風呂の湯でザザーっと身体に流している音がする。
空っぽになった父と母の皿。
それでもヨシコは、諦めない。
ケーキはきっと、どこかの戸棚にある。
だって、ケンちゃんのお母さんがあるって言ったんだから。
とうとう、流しの下の戸まで開けたところで、母の怒りがはじけた。
「いいかげんにしなさい! 何やってるのよ!」
バンッと頭をたたかれて、ヨシコはびくっとする。
「だって、ケーキが戸棚に、あるって……」
しぼり出すようにそう言うと、母は一瞬きょとんとした顔をして、それから、怒った。
「そんなもん、あるわけないでしょう! テレビはテレビ! ほら、さっさとごはん食べなさい!」
声が大きくなって、台所の空気がピリッと固くなる。
そのとき、風呂場の戸が開いて、父がパンツ一枚の姿で出てきた。
「ヨシコ。なんでまだ食べてないんだ!このノーターリン(父の造語:脳が足りない→馬鹿という意味らしい)」
ヨシコは、もうわけがわからなくなっていた。
ケンちゃんのお父さんもお母さんも、あんなにやさしく笑っているのに。
戸棚にケーキがあるって言ってたのに。
なのに、うちのパパとママは、すぐ怒る。
テレビみたいに笑ってくれない。
「テレビばっかり見てないで、ごはんを食えって、さっきから言ってるだろう!」
父の太い声が、ちゃぶ台の上の皿を震わせるくらい響いた。
それでもヨシコはひるまない。
戸棚のケーキがまだ見つからないんだから。
次の瞬間、ヨシコは父に腕をつかまれて、ぐいっと引き寄せられた。
「もういい。ごはんいらないんだな。だったら押し入れに入ってろ」
居間の隅の押し入れの戸が、ガラッと開く。
掛け布団と敷き布団が半分ほど出された暗い空間に、ヨシコはそのまま押し込まれた。
「出ちゃだめだからな」
戸が閉まり、視界が真っ暗になる。
ヨシコは、こらえきれず泣き出した。
なんで、怒られたんだろう。
ケーキ、探しただけなのに。
ケンちゃんのお母さんは、ケーキあるよって言ってくれたのに。
涙がぼろぼろ出る。
暗い押し入れの中で、息を吸うたびに、かび臭いようなちょっとほこりっぽいにおいがした。
もしかして、わたし、ほんとはこのうちの子じゃないのかもしれない。
うちのパパとママは私のこと怒ってばかり。
この間は私のこと「可愛くない」って言ってた。
テレビの中に、本当のお父さんとお母さんがいて、間違えてここに来ちゃったのかもしれない。
きっとそうだ!と思ったとき、ふと、足の先が押し入れのふすまにコツンと当たった。
ヴォン。
思っていたよりも、変な音がした。
今まであまり聞いたことが無い、くぐもった低い音だ。
もう一回、そっとけってみる。
ヴォン。
さっきより、ちょっと長く響いた気がする。
おもしろい。
ヨシコは、泣くのを忘れて、もう少し強くけってみた。
ヴォン! ヴォン! ヴォン! ヴォン!
押し入れの中で、足を交互に出しては、リズムをつけて戸をける。
暗闇の中に、ヴォン、ヴォンという音だけが、太鼓のように響く。
外で、母の笑い声がした。
「ヨシコ!ちょっと、やめさせなさいよ。おかしくって、笑っちゃうじゃない」
続いて、父の笑い声もまざる。
「こら、うるさいぞ、ヨシコ。勘弁しろ、太鼓じゃないぞ」
ヴォン! ヴォン! ヴォン! ヴォン!
ヴォン! ヴォン! ヴォン! ヴォン!
ヨシコは、幼稚園の先生に「リズム感があるね」と褒められたことを思い出した。
リズム感が何か、正直わからないけど、
おもちゃの太鼓をたたいている時に言われたから、
きっと先生がこの音を聞いたら、また褒めてくれるかもしれない。
ガラッと戸が開いて、まぶしい光が押し入れの中になだれ込んだ。
ヨシコは、足を少し上げた格好で固まっていた。
父も母も、さっきとは違う顔で笑っている。
「まったく、お前は……押し入れで太鼓たたく子なんて、聞いたことないよ」
母はそう言いながら、ヨシコの頬についた涙と鼻水を、前掛けでぬぐった。
その手つきは、少しだけ、やさしかった。
ヨシコは、最後まで、どうして怒られたのか、よくわからなかった。
ごはんをちゃんと食べなかったからかもしれないし、戸棚を全部開けたからかもしれない。
でもひとつだけ、はっきりわかったことがある。
押し入れの戸は、蹴るとおもしろい音がする。




