「代わりはいくらでもいる」と言われた記録官の引き継ぎ書を、なぜか王子殿下が毎晩査読されています
——ねえ、この干し無花果、おいしいね。
それは、ずっと先の話。
◇
引き継ぎ項目、237件。
ヘルベルト宮廷長官の声が、まだ耳に残っている。代わりはいくらでもいる——その一言を聞いた瞬間、イレーネ・フォーゲルの頭に浮かんだのは、涙ではなく、引き継ぎにかかる日数の概算だった。
10年分の人事記録。部署間異動の照合表。差し替え要員の適性一覧。休職・復職の経緯書。それらを後任に渡すには、最低でも30日は要る。
「28日で終わらせます」
イレーネは宮廷長官に向かってそう言い、深く一礼した。
泣かなかった。怒りもしなかった。なにしろ10年間、誰かが宮廷を去るたびに引き継ぎ書を作ってきた記録官である。自分の番が来ただけのこと。
記録官室に戻ると、隣席のフリッツが書類の山から顔を上げた。白髪交じりの副記録官は、イレーネの表情を見て何かを察したらしい。
「なんだ。ついに来たか」
「ええ。代わりはいくらでもいるそうです」
「お前の代わりが? この宮廷に?」フリッツが声を荒らげた。「10年間、ひとりで237項目の——」
「フリッツさん。引き継ぎ書を書かなくてはなりません。手伝ってください」
フリッツは何か言いたそうだったが、結局は大きく息を吐いて帳面を受け取った。
「分かった。だがな。お前の代わりがいくらでもいるなんてのは、お前の仕事を一度も見なかった人間の台詞だ」
イレーネは答えず、新しい帳面の1ページ目に備考欄を設けた。引き継ぎ書だろうと関係ない。備考欄は彼女の呼吸のようなものだった。
——備考:引き継ぎ開始日。天候、曇り。暖炉の調子が悪い。室温が低い。
◇
後任は、ミリアという名の少女だった。18歳。栗色の髪を高く結い上げ、初日から張り切って記録官室の扉を開けた。
「イレーネ先輩! 何でも覚えます!」
「ありがとう。では、引き継ぎ項目の1番から」
「はい!」
「まず、人事異動記録の分類法です。部署名、異動日、前任者名、後任者名、引き継ぎ完了日、備考欄。この6項目を——」
「あの、備考欄って何を書くんですか?」
イレーネは一瞬だけ手を止めた。10年間、この質問をされたことがなかった。誰もこの仕事に興味を持たなかったからだ。
「……業務上の所感です」
「所感って?」
「たとえば——」帳面を開いた。「『前任のマルクス卿は退任時に鍵を3本紛失。後任のエルマー卿は着任初日に同じ鍵を4本紛失。部署として構造的な鍵管理問題が疑われる。なお、当該の鍵はすべて給湯室の棚裏から発見済み』」
「鍵って、棚裏に行くものなんですか……?」
「宮廷の鍵は8割が棚裏に行きます。10年分の統計的事実です」
「統計」
「そして残り2割は、暖炉の灰受け皿の中です」
ミリアが絶句している。その日の夕方、引き継ぎ項目は3件しか進まなかった。
◇
引き継ぎ3日目。
ミリアが項目7で止まった。外交部の人事異動記録は、相手国の使節名を照合する必要がある。
「先輩、この名前、なんて読むんですか」
「ヴァイスハルト・フォン・メレンドルフ公。2年前の通商条約改定時の特使です」
「こっちは?」
「ゲオルク・フォン・アイヒベルク伯。その前任で、赴任3か月で胃を壊して帰国しました」
「なんで胃を?」
「備考欄をどうぞ。『当宮廷の宴席における香辛料の使用量が自国基準の3倍。特使の胃腸が構造的に耐えられなかった可能性が高い』」
「構造的に胃腸が……」ミリアが真顔になった。「先輩の備考欄、自由すぎませんか」
「事実の記録です」
その日の夜。閉室間際の記録官室に、予期せぬ来客があった。
「失礼する」
背の高い男が入ってきた。黒髪を後ろで束ね、宮廷服の上に読書用の薄い眼鏡をかけている。第二王子クラウス・ヴァイデン殿下。王位継承順位2位——言うなれば、王太子殿下の「控え」。
イレーネは立ち上がって一礼した。
「殿下。記録官室に何かご用でしょうか」
「引き継ぎ書の進捗を確認したい」
「引き継ぎ書の、進捗、ですか」
「ああ。宮廷の業務に支障が出ないか、把握しておきたくてね」
第二王子が記録官室の引き継ぎ書を確認しに来る。イレーネの10年の宮廷経験をもってしても、前例がない。
「こちらが途中の原稿です」
帳面を差し出すと、クラウスは眼鏡の位置を直し、最初のページから丁寧に読み始めた。しばらくして、ふ、と息を漏らした。
「鍵が棚裏に行く確率、8割」
「……はい」
「面白いな。——備考欄が」
「恐れ入ります。不要でしたら」
「むしろ」クラウスは目を上げた。「備考欄だけ読みたい」
イレーネは、とっさに帳面を開いて記録を取りたくなった。
——『第二王子殿下、記録官室に来室。来室1回目。目的:引き継ぎ書の備考欄の閲覧。前例なし。』
「それでは、お好きなだけどうぞ」
クラウスは頷き、来客用の椅子に腰を下ろした。
それが、最初の夜だった。
◇
引き継ぎ7日目。ミリアは泣いていた。
「無理です……覚えられません……」
「項目14まで進みました。あと223件です」
「数字で追い詰めないでください!」
「……では、今日はここまで」
「先輩は10年もこんなことを? ひとりで?」
「フリッツさんがいます」
「フリッツさんは副記録官ですよ? 主記録官として全部の帳面を書いてたのは先輩ひとりじゃないですか。誰にも気づかれず、ずっと」
イレーネの手が一瞬止まった。
「……記録官の仕事は、気づかれないのが正常です」
「正常って、そんな——」
扉が開いた。
「失礼する」
クラウスだった。7日連続。同じ時間。手にはアプリコットタルトが2つ載った皿。
「差し入れだ。引き継ぎは長丁場だろう」
「殿下、ありがとうございます。……あの、なぜ私の好物をご存じなのですか」
「去年の宮廷祭の記録に書いてあった」
「記録……?」
「お前の備考欄だ。『宮廷祭の接待菓子のうち、アプリコットタルトの消費速度が他品目の2.3倍。なお、筆者自身がその消費に寄与した可能性を排除できない』」
イレーネの耳が熱くなった。そんなことを備考欄に書いた記憶が、確かにあった。
「ミリア嬢。引き継ぎは順調かな?」
「ぜ、全然です! 項目14で止まってます!」
「あと223件」
「殿下まで数字で!」
クラウスの口元がわずかに緩んだ。
「私もある意味では『控え』でね。王太子の代わりが必要になったときのための——差し替え要員だ」
イレーネは思わずクラウスを見た。
「差し替え要員、と仰いますか」
「ああ。だから記録官の気持ちは、少しだけ分かる。代わりはいくらでもいると——言われる側の」
その言葉は、備考欄には書けなかった。業務上の所感では、ないものだったから。
◇
引き継ぎ10日目。最初のトラブルが起きた。
ミリアが項目32の「過去の特別人事の記録」を整理しようとして、書棚から10年分の帳面を落とした。床一面に紙が散らばった光景を見て、ミリアは固まった。
「先輩。これ、順番に戻せますか」
「背表紙の記号を見てください。年度-部署名-連番で整理されています」
「……記号が読めません」
「イレーネの字を読めるのはイレーネだけだ」フリッツが紅茶を啜りながら言った。「俺でも6割しか解読できん」
「え、先輩の字って暗号なんですか?」
「暗号ではありません。効率化された独自略記法です」
「それを暗号って言うんですよ!」
結局、帳面の再配架はイレーネが2時間で終わらせた。ミリアが手伝おうとするたびに、別の帳面が棚から落ちた。
——備考:引き継ぎの構造的困難。後任が帳面の再配架中に発生させた二次的落下事故、計4回。業務引き継ぎ以前に、書棚との関係構築が必要と思われる。
◇
引き継ぎ12日目。2つ目のトラブル。
外務卿から照合依頼が入った。来月の国際会議に出席する特使の前任記録と、過去の議定書の整合確認。イレーネなら3時間で終わる作業である。
ミリアが担当した。
結果、特使名の旧字体と新字体を取り違え、まったく別の人物の記録を提出した。外務卿が記録官室に怒鳴り込んできた。ミリアは机の下に隠れていた。
「先輩、ごめんなさい! でも旧字体と新字体って見分けがつかないです!」
「……フォン・シュタインバッハとフォン・シュタインバハは別の家系です。語尾の1文字が——」
「そんなの分かりませんよ!」
「分かります。前者は平和主義の商家で、後者は好戦的な武門です。間違えると外交儀礼が根本から変わります」
「外務卿が『武門の方を呼んだら殴られた』って怒鳴ってましたけど」
「武門のシュタインバハ伯は初対面時に握手の代わりに拳を合わせる習慣があります。備考欄に記載済みです」
フリッツが後ろで低い声を出した。
「なあ、ミリア。分かっただろう。代わりはいくらでもいるか?」
ミリアは泣きながら首を横に振った。
その夜もクラウスが来た。15回目。手には干し無花果。アプリコットタルトではなく。
「今日のトラブルは聞いた。外務卿が殴られたそうだな」
「拳の合わせ方を知らなかった外務卿にも落ち度があります」
「そういうことを備考欄に書いているのか」
「事実の記録です」
クラウスが笑った。声を出して。イレーネは、この笑い声を備考欄に記録したいと思った。文字では伝わらないのに。
◇
引き継ぎ15日目。3つ目のトラブルは、もはやトラブルと呼ぶ規模ではなかった。
財務部、外交部、典礼部——3部署が同時に照合依頼を出した。次年度の人事計画に必要な過去データだ。例年はイレーネが3日で全部処理していた。
ミリアの処理速度では、3か月かかる計算だった。
財務長官が血相を変えてイレーネのもとに来た。
「フォーゲル嬢。来年度の異動照合はまだか」
「後任に引き継ぎ中です。ただし、ミリアの習熟度はまだ項目42で止まっておりまして」
「237件中の、たった42件だと?」
「はい」
財務長官は頭を抱えた。その後も典礼官長や各部署の長が、次々にイレーネのもとを訪れた。誰もが同じことを言った。お前がいなくなったら困る、と。
だが、イレーネの退職を命じたヘルベルト長官のもとには、誰も逆らえなかった。
「たまには違うものを」
「……ありがとうございます」
イレーネは干し無花果を受け取った。指先がかすかに触れた。クラウスの手は温かかった。
「殿下。なぜ毎晩いらっしゃるのですか」
クラウスの手が皿の上で止まった。
「引き継ぎ書が面白いからだ」
「面白い?」
「ああ。特に備考欄が。——お前の文章には声がある、イレーネ」
声がある。記録官の文章に声がある、と言われたのは初めてだった。
「鍵が棚裏に行く統計も、胃腸の構造的限界も、アプリコットタルトの消費速度も、全部——お前にしか書けない」
「ただの癖です」
「癖だとしても」クラウスは目を上げた。「その癖を、私は必要としている」
暖炉がぱちりと鳴った。イレーネは干し無花果を口に入れた。
——おいしい、と思った。それを備考欄に書きたくなった。書けるわけがないのに。
「殿下は——『控え』であることを、お辛いと思われますか」
言ってしまってから、あまりに踏み込んだ質問だと気づいた。だが、クラウスは気にした様子もなく、干し無花果を1つ摘んだ。
「辛いとは思わない。ただ、面白い立場ではある。王太子が健在な限り、私は永遠に『不要な控え』だ。だが控えが必要になったときには、既に手遅れということが多い」
「……まさに、記録官と同じですね」
「ああ。だから分かる。——代わりがいると言われる者同士、な」
クラウスが静かに笑った。イレーネも、つい口元を緩めてしまった。
——備考欄に書けない夜が、また1つ増えた。
◇
引き継ぎ18日目。宮廷の空気が変わり始めた。
記録官室への照合依頼が、日に日に増えている。各部署が次年度の人事計画を立てる時期だからだ。例年はイレーネが3日で全部署分を処理していた。今年は——ミリアが1件も終わらせていない。
ついに、文官長が各部署の悲鳴を背負ってイレーネのもとに来た。
「フォーゲル嬢。来年度の異動照合、いつできる?」
「私の退職日は10日後です。後任に引き継ぎ済みの範囲で対応いたしますが」
「引き継ぎは、どこまで終わっているのだ?」
「項目42までです」
「まだそこか!」
文官長は青ざめ、宮廷長官に直談判しに行ったらしい。だが、返ってきた答えは同じだった。
代わりはいくらでもいる。予定通り進めよ。
イレーネは黙って帳面を開いた。その夜の備考欄にこう書いた。
——来室27回目。本日の殿下は、干し無花果ではなく紅茶を持参。「今夜は長くなりそうだ」と言った。なぜ長くなると知っているのか、不明。ただし——不明が心地よいと感じたのは、記録官として初めてのことである。
◇
引き継ぎ22日目。事態が急転した。
クラウスが、イレーネがミリアへの指導とは別に先行して書き進めていた引き継ぎ書の原稿から、項目189を精査し、国王に報告を上げた。
ヘルベルト宮廷長官による人事記録の改竄。自身の派閥の人間を特定部署に配置し、接待費を流用していた。それを証明できたのは、イレーネが10年間つけ続けた備考欄の照合データだった。
「3年前の異動記録と支出報告の一致率、97.3%」
宮廷会議でフリッツが読み上げた。列席した貴族たちが凍りついた。
「偶然で説明できる閾値は40%です。ヘルベルト長官の人事異動後に接待費が平均1.7倍に増加している事実は——構造的な不正を示唆します」
イレーネの備考欄から抽出された数字が、ヘルベルト長官の弁明を1つずつ潰していった。
長官は言葉を失っていた。反論するためには「記録官の備考欄は無意味だ」と主張しなければならない。つまり——自分が切り捨てた女の記録が正しかったと、認めなければならない。
財務長官が席を立った。「長官の人事命令で配属された部下に、私は何度も疑念を持っておりました。しかし確証がなかった。この備考欄を見るまでは」
典礼官長も続いた。「記録官室の照合なくして、来年度の人事計画は組めません。縮小どころか、記録官は増員すべきだと進言いたします」
1人、また1人と、長官の側から離れていく。宮廷の椅子が軋む音が、静かに響いた。
老宰相が口を開いた。
「代わりはいくらでもいる、と。あなたはそう仰った。ではヘルベルト卿。あなたの代わりは、いるのですかな」
会議室が沈黙した。長官の顔から血の気が引いていく。自分が吐いた言葉が、正確に自分に返ってきた。記録官がつけた記録のように——正確に。
◇
引き継ぎ25日目。退職まで、あと3日。
長官の謹慎処分は確定した。だが、イレーネは記録官室で、引き継ぎ書の最後の項目を書いていた。
「先輩」ミリアがそっと近づいた。「もう書かなくてもいいんじゃ」
「最後まで書きます。これが記録官の仕事ですから」
「でも、先輩を辞めさせた人が捕まったんですよ?」
「辞令が撤回されたわけではありません」
イレーネの声は平らだった。長官が処分されても、記録官室の縮小という辞令は生きている。退職日は、あと3日——。
フリッツが拳を握った。ミリアが唇を噛んだ。
イレーネはペンを走らせ続けた。項目237。「引き継ぎ総括」。その備考欄に——。
……書いてしまった。業務上の所感ではない何かを。
ペンを置いた瞬間、扉が開いた。
「イレーネ」
クラウスが立っている。手に帳面を持っている。イレーネの引き継ぎ書だ。提出用の清書版——最終項目まで含む。
「項目237の備考欄を読んだ」
心臓が跳ねた。
そこにはこう書かれている。イレーネの筆跡で。
——備考:10年間で最も記録に困った事象。第二王子殿下の来室回数が、なぜ正確に47回と記憶されているのか。記録官として数えたのか、それ以外の理由で覚えているのか、判定不能。なお、判定不能の統計的処理方法を検討すべきだが、そもそもなぜ私がそれを検討しているのかが——判定不能。
「47回」
「……はい」
「私の記録では49回だ。お前は2回、数え漏れている」
イレーネの息が止まった。
「——殿下が、数えていらしたのですか」
「最初から数えていた」
クラウスは帳面を閉じ、1歩近づいた。
「イレーネ。お前は10年間、この宮廷のすべてを記録した。誰の異動も。誰の失敗も。誰の功績も。——ただ1人、自分自身の価値だけ、記録しなかった」
「それは——記録官が自分を記録するのは」
「では、私が記録する」
クラウスの声が落ちた。静かに。揺るがず。
「宮廷記録官イレーネ・フォーゲル。代替不能。10年間の備考欄のすべてが、この宮廷の知性であり、良心であり——」
手が伸びてきた。帳面ではなく、イレーネの手を取った。
「——49回、この部屋に通い続けた男の、たった1つの理由だ」
視界が滲んだ。10年間、1度も滲まなかった視界が。
「……殿下。それは、業務上の査読ではなかったのですか」
「最初の3回は業務だった」
クラウスの手が温かい。帳面を持つための手ではなく——誰かの手を握るための温かさだった。
「4回目からは、お前の備考欄を読みたかった。お前の声を聴きたかった。干し無花果を受け取るときの、お前の指先が——好きだった」
指先。そんな細部まで。この人は見ていた。気づかれないのが正常の、記録官の指先を。
「引き継ぎは不要だ」
「え」
「辞令は今朝付で撤回された。国王の直命だ。お前の記録がなければ、あの不正は暴けなかった」
イレーネは息を呑んだ。
「記録官室は縮小ではなく、拡充する。主記録官はお前のまま。——そして直属報告先を第二王子府に変更する」
つまり。イレーネの上司が——クラウスになる。
「……それは、職権の濫用では」
「構造的な最適解だ」
「構造的……」
「お前が好きな言葉だろう」
クラウスが笑った。静かで、温かくて、干し無花果みたいに——甘い笑みだった。
「あの!」
背後からミリアが叫んだ。
「引き継ぎ、もう覚えなくていいんですか!?」
イレーネはクラウスの手を握ったまま振り返った。
「——覚えなくて、いいです」
「よかったぁー!」ミリアがその場に崩れ落ちた。「正直に言います! 項目14から先、全部忘れてました! 先輩が毎日がんばって書いてたから言えなくて!」
「3日目から無理だったのでは」
「はい! でも殿下が毎晩来るの面白かったんです! 先輩の備考欄の文字がどんどん小さくなるの!」
「文字が?」
「殿下が来ると、備考欄のフォントが縮むんですよ。手が震えてません?」
フリッツが腕を組んで天井を仰いだ。泣き笑いだった。クラウスの肩が揺れている。
イレーネは、記録官として初めて、記録できない顔をしていた。
◇
翌朝。
イレーネは記録官室の机に向かっていた。
引き継ぎ書は閉じられた。代わりに新しい帳面が開かれている。表紙には「業務日誌」とだけ書いてある。
最初のページ。日付の隣に、いつもの癖で備考欄を設けた。
——備考:本日より記録官室は第二王子府直属。室員3名体制に拡充(主記録官イレーネ、副記録官フリッツ、見習いミリア)。なお、直属上官の来室予定は本日19時。目的は業務報告。
1拍おいて、小さく書き足す。
——(ただし、茶菓子の持参が常態化している場合、業務報告の定義については再検討が必要と思われる)
ペン先が止まった。
10年間、イレーネの備考欄は誰にも読まれなかった。
——これからは、読まれる。たった1人の読者に。
窓の外では春の風が吹いている。暖炉はもう要らない。
帳面の1ページ目に光が差し込み、白い備考欄を照らしている。
ミリアが隣の席で、見習い用の帳面を開いている。まだ項目14の続きから始めなければならないらしい。フリッツが溜め息をつきながら、それでも丁寧に教えている。
この部屋は、明日も明後日も、ここにある。
イレーネは干し無花果を1つ口に含んだ。
——おいしいね。
いつか、隣で言おう。今日の備考欄に、そう書こうか。
ペンを取った。文字は小さくならなかった。もう——震える理由がなかったから。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
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