データで語れないことがあるとしたら
翌朝。
支部の空気は、さらに張りつめていた。
受付カウンターには、また新しい指示書が配布されていた。
『業務対応記録標準化マニュアル・第一版』
(またマニュアル……!)
ミーナは、分厚い冊子を手に取り、軽く目を通した。
──すべての応対を「数値化」して記録すること。
──主観を排除し、事実のみを淡々と記載すること。
「感情表現は業務報告に不要」
と、わざわざ赤字で強調されていた。
(そんなこと、できるわけないじゃないですか……)
心の中で、そっと抗議する。
依頼人がどんな顔をしていたか。
どんな声で希望を語ったか。
それを無視して、ただ結果だけを記録しろというのか。
──この違和感を、伝えなきゃいけない。
そう思ったミーナは、意を決して支部長室の扉を叩いた。
「失礼します。支部長、少しお時間よろしいでしょうか」
室内では、アルフォードがデスクに向かい、整然と書類を整理していた。
「手短にお願いします。次の打ち合わせが控えていますので」
冷静な声。
でも、引き下がるわけにはいかなかった。
ミーナは、手に持ったマニュアルをぎゅっと握りしめる。
「……この、標準化マニュアルの件なのですが」
アルフォードは顔を上げた。
その視線は、淡々としている。
「記録は大事です。でも、対応の中で生まれる感情や、細かなやりとりは、データだけでは伝わらないこともあると思うんです」
「感情論ですか?」
ぴしゃりと切り捨てるような言葉。
ミーナは、一瞬、喉が詰まった。
でも、逃げたくなかった。
「いえ、そうではなくて……現場では、数字に現れない小さなやりとりが、依頼人との信頼を築くこともあると思うんです」
必死に言葉を探しながら、ミーナは続けた。
「たとえば、少し話を聞くだけで、依頼人の表情が和らぐこともあります。データには残らないけれど、そういうことが、次の一歩につながることも……」
アルフォードはしばらくミーナを見つめ、それから、静かに口を開いた。
「……理屈は理解できます。しかし、感情に依存した記録は、組織運営の基盤を脆くします」
「そんな……!」
「現場の温度感に流されていては、改善は進みません」
ばっさりと断言され、ミーナは言葉を失った。
(ダメだ……通じない……)
胸の奥が、ぎゅっと縮こまる。
無理だったのかもしれない。
ミーナは、力なく頭を下げると、支部長室を後にした。
扉を閉めたあと、廊下で小さく息を吐く。
──何も変えられなかった。
でも。
(それでも、私の中では……確かに、何かが引っかかっている)
ミーナは、そう自分に言い聞かせるように、カウンターへと戻った。
手帳の隅に、そっと小さくメモを書く。
『数字に現れないことも、仕事にはある』
たとえ今は理解されなくても、忘れたくないから。
そう思いながら、ミーナは今日もまた、笑顔で窓口に立った。