母の愛、無償の愛
──夜を唄う梟も、獲物を狙う獣さえ静まり返る森林の奥底に『彼女』は居る──
蜘蛛の巣が張るレンガ造りの家。
「まだ、足りない。腕も、足も、目も足りない。まだあの子には程遠い」
ザク、ザクと肉を断つ鋏、腐りかけた血が黒衣を赤黒く染める。
「捨てられたあの子を拾って、救ったのは私。でも、私の、いいえ……あの子の幸せを壊してまた奪っていったのは向こう、だから……だから、私があの子を救うの……」
ほろほろと涙を流し、独り言を呟きながら手を動かす。母親が愛娘へ愛情を込めて作るマフラーのように、肉を、神経を糸で繋ぐ。
──齢にして5歳程の女の子を森で拾った。
ズタズタの服、恐怖で引き攣った顔。その額には、深い傷があって。
魔女とて、人の心はある。家へ招き、暖かいスープを飲ませてやった。
その子は美味しそうに顔をほころばせた。
それから約10年。立派になってきて、これからが楽しみ、という時に……
あの時、おつかいになんて行かせるんじゃなかった、一緒に行けばよかった、そもそも拾うんじゃなかった、などと馬鹿馬鹿しい後悔を始める。
自分はずっとひとりでここにいる魔女だ、今更……なんて考えることもしたが、無理だ。
いくら嘆いてもいくら後悔しても沸き立つのは怒りと涙しか出ない。
「また、失敗……」
獣の肉や腐った肉じゃ、ヒトに近いモノなんて出来ない。
分かっているのに繰り返してしまう。
「この連鎖を、断つなら……」
杖を握る。奪われたなら奪い返す。強く握った手は、焦燥か、それとも悲哀からか、酷く震えていた。
「あの子が言っていた場所なら知ってる……あの街を……壊してやる……」
今の自分がドス黒い復讐心で動いているのが分かる。全身の血液が沸騰しているんじゃないかと勘違いするほど体が熱い。思考は同じ答えしか弾き出さず、思考という意味をなさない。
ドアを開ける。
木々が空を覆っているせいで昼か夜かも分からない。
それでもいい! この先に待つのがどんな結末でも、決意は変わらないのだから!
「ᚠᛚᛦᛁᚿᚵ」
飛び出し、杖を前に突き出しつつ飛行の魔術を唱える。杖は急加速して森の中を突き抜けていく。
ガサガサと小枝や葉に引っかかり多少体と服が傷付こうとも突き進む。
やがて目的の街に着き、暴れに暴れた。三日三晩ほぼ休み無しに暴れ続けた。
最初に疲れ果てて魔法が打てなくなった。それでも杖を振り回し果敢に戦った。
その次に杖が折れて武器が無くなった。そうなればただの人間、あっけなく組み伏せられ、即座に火にかけられることになる。
夜明けが近付く早朝、邢台に火が付けられる。
民衆が凶悪な魔女だと視線を注ぎ、全身を炎が焼く最中、魔女は見た。
奪われたあの子を。愛しさ故に取り戻そうとした『我が子』を。フードを被っていても、その髪や顔の輪郭、そして、手のひらに刻まれていた黒い紋章は何一つ記憶から剥がれたことは無い───
魔女の劇場は再び高まる。あの子にこれ以上傷を増やしてたまるものか。
「ᚵᚮ, ᛘᛦ ᛍᚼᛁᛚᛑ!」
その呪文を唱えた瞬間、魔女の子の首輪が外れる。子は『母親』と主人を見比べ………
「逃げて!! 貴女は……自由なのよ!」
その言葉にはっとした子は一目散に逃げおおせる。
幸いそれを見る者はおらず、主人でさえも魔女に釘付けだった。
「……私よりも、幸せに、すごすのよ……」
魔女は炎の中に言葉を遺し、息絶える──
:誰もいない家:
巡り巡ってたどり着くは魔女の家。
懐かしい景色、懐かしい匂い、懐かしい温もり。
「おかあさん、おかあさん……」
布団に残っているのはこびり付いた薬品と微かな血の匂い。それは幼い頃に嗅ぎ覚えのある母の匂い。涙が、涙が溢れて止まらない。止めなければこの匂いが消えてしまうのに、止められるわけが無い。
「う、うぅ、あ、ああぁぁぁ…………」
喉が枯れるまで、涙が出なくなるまで泣き続ける。もう会えない、もう聞こえない、もう、もう、もう。考える度に目から熱さが流れる。
「会いたかった、会いたかった、会いたかった会いたかった会いたかった…………」
布団の中で赤子のごとく叫ぶ。無償の愛はこうなるとどんな代償を払っても再び受けることは無い。頭で理解しても体がそれを拒否する。
……気絶するように眠り、目覚める──
「…おはよう」
無論それを返す声はない。
でも、覚悟はできた。
母のようになりたい。
だから、母の知り合いを訪ねに行く。
母の古着なのかは分からないが、押し入れから魔女の服装の一式が出てきた。サイズもぴったりだ。
唯一覚えている魔女、湖の魔女に会いに行こう。
小さな魔女は、深い悲しみを背負ったままに、もう一度外へと歩み出した。
あとがきメモ
作中にでてきたルーン文字。それぞれ、
ᚠᛚᛦᛁᚿᚵ (flying)
ᚵᚮ, ᛘᛦ ᛍᚼᛁᛚᛑ!(Go,my child!)
と、なっております。読みにくく、理解できない文字を作中に使用し、申し訳ありませんでした。