8.
近頃、イーズは勉強が終わると、すぐに出かける支度をはじめる。
「アルカ様、最近楽しそうですね」
活き活きと動きはじめた幼い主人に、シャールが微笑する。イーズがくるりと半回転して振り返ると、ゆるい三つ編みにした髪は尻尾のように揺れた。
「今日はどちらまで?」
「シグのところ。昨日のゲームのつづきか、お城の探検かな」
「毎日ホコリまみれになって帰っていらっしゃるんですから。無茶な遊びはなさらないでくださいよ」
「分かってる。行ってきまーす」
「あ、お待ちください」
飛び出していくイーズの肩に、シャールはうすいショールをかけた。
「朝夕は冷えますから」
「どうしたの? これ。見たことのない柄」
「頂き物です。一昨日、西のカルダン地方からいらっしゃった領主様からの」
「最近、よく物をもらうね」
「アルカ様、陛下と仲がよろしいから」
シャールは部屋の隅に積み上げてある箱を横目にした。シグラッドとよく遊ぶようになり、食事を共にするようになってからというもの、イーズのところには贈り物がよく届くようになった。各国の使者や各地の領主が、ご機嫌取りに、皇帝だけでなくその婚約者にも贈り物をするようになったのだ。
イーズは贈り物のショールを留めるブローチをなでた。これも贈り物で、金に群青の青さが印象的な七宝細工だ。
「いいのかな。こんなものもらって」
「問題ございませんよ。むしろ、断ると、向こうを困らせてしまうでしょうから」
「最近ね、お城の人たちによく話しかけられるようにもなったよ。緊張する」
イーズは表情を引き締め、鏡に自分の姿を映した。一回転して身だしなみを確認し、髪のほつれを直した。
「そうそう、今度、お城で狩猟祭っていうのがあるんだって。秋になるとあるらしいんだけど、シャールは知ってた?」
「存じ上げておりますよ。アルカ様も参加なさるのですか?」
「うん。シグが気晴らしにどうだって誘ってくれたから。シャールもしない? 狩り、得意だよね」
「人並みにできます。しかし、そういう遊びの狩りはあまり……」
シャールは剣の柄に手の平をのせ、眉間にしわを寄せた。豊かなニールゲンでは、狩猟は生活の糧を得るための手段でなく、娯楽だ。無駄な殺生を嫌うティルギス人の二人は、気乗りしない。
「狩りをするのは男の人だけで、女の人は見ているのが普通なんだって。狩りはしないで、見てようか?」
「いえ、参加いたしましょう。そういう祭で弓を持たないのは、ティルギス人の名折れです」
「でも、私、狩りって得意じゃないんだ。弓を持つと余計に名を折っちゃうよ。シグをがっかりさせちゃう」
「大丈夫です。私が補佐いたしますし、アルカ様を特訓いたします。アルカ様専用の弓もティルギスから持ってきておりますので」
お任せ下さい、とシャールは胸を張った。得意分野の話題なので自信満々だ。イーズは頼もしく思う反面、不安にもなった。シャールと違い、イーズはニールゲンに来てから一度も弓矢や剣に触っていなかった。
「弓を持って一緒に走り回ってれば、なんとかなるかなあ」
イーズは部屋を出て、一人、気弱なセリフをこぼした。微動だにしない蝋人形のような衛兵に軽く会釈し、早足に廊下を進む。シグラッドの部屋の衛兵は、慣れた様子でイーズのために扉を開けた。
「シグ、入るね――」
一歩足を踏み入れた状態で、イーズは静止した。思わぬ人物と出くわしたためだ。気楽な態度を改める。
「こ、こんにちは」
「ごきげんよう」
クノルは口をへの字に近い形にして、むすっと、不機嫌そうに挨拶した。シグラッドの母親の肖像画から手をはなし、イーズに正面を向ける。咳払いを一つした。
「元気がよろしいですな」
「すみません。ノックもなしに」
「以後、お気をつけ下さい」
愛想のない、冷めた声だった。イーズは気まずく思いながら、部屋の中を見回す。クノルが口を開いた。
「陛下でしたら、隣国の使者との謁見が長引いていらっしゃいます」
「まだかかりそうですか?」
「そうですな」
話の接ぎにくい答え方だった。手を後ろに組み、せり出した腹を突き出して立っているクノルからは、無言の圧力が感じられる。イーズは具体的に何時頃までになりそうか尋ねたかったが、質問しにくい雰囲気だった。
「実は、隣国のクリムトからも、陛下に第二王女のローラ姫をどうかという話が持ち上がっておりましてね」
「え?」
「王に妃が何人もいては不思議ですか」
「い、いえっ。前の皇帝陛下にも三人、お妃様がいらっしゃったんですよね。側室もたくさん」
「クリムトも豊かな国です。クリムトの姫君を迎えれば、外交の面で何かと有利ですからな。――ああ、お気になさらず。殿下はティルギスに対する人質のようなものですから、それ以上のことを求めはいたしません」
「人質?」
「はは、勇猛と名高いアデカ王に、面と向かって人質をよこせとは、さすがのニールゲンも怖くていえませんよ」
イーズは面食らった。自分が人質だという自覚がなかったのだ。クノルから憐れむような視線を浴び、言葉に詰まる。しかし、重苦しい事実に負けまいとするように、イーズは懸命に口を開いた。
「隣の国のお姫様は、どんな方なんですか?」
「さあ。詳しくは存じ上げませんが。それが何か」
「何って……気にならないんですか? シグと気が合いそうかどうかとか」
「陛下の婚姻は、国と国の婚儀です。そんなことは関係ございません」
クノルは冷たく、呆れたようにいった。イーズは完全に黙った。クノルはシグラッドのことすら、ただの駒のようにしか思っていないのだ。うすい唇に浮かぶ薄ら笑いに悪寒を覚えた。
「それと、陛下、です。いくら親しくとも、人前では言葉遣いにお気をつけ下さい。陛下の威厳に関わる」
「ごめんな――すみません。気をつけます」
イーズは背筋を伸ばした。身体の前で手を合わせ、礼儀作法の教師に教えられたように、きちんと立つ。
「そう、そうやってお行儀よくしてください。お人形のように」
クノルはイーズの横をすり抜けながら、ささやいた。肩におかれた手で、簡素な金の指輪が冷たく光る。背筋に怖気が走って、イーズは吐き気がした。同じ姿形をしているが、この宰相の生温かい皮膚の下には、何か別の生き物が潜んでいるような気がした。
「……薬だけもらって、もう帰ろう」
シグラッドが部屋に戻ってくる気配はない。イーズは肖像画を持ち上げ、隠し棚から細かな葉の入った薬瓶を取った。自分の小瓶に移し変え、もとに戻す。毒薬の扱いに慎重なシグラッドにしては珍しく、ふたの開きかけの瓶があったので、締め直しておいた。
部屋に帰ると、掃除をする時間でもないのに、シャールが雑巾を手にしていた。予定より早く戻ってきた主人に、焦った顔をしている。
「どうしたの?」
シャールが床においた袋を隠すようなそぶりをしたので、イーズは気になって、袋をのぞきこんだ。腕と足があった。人形の。元はちゃんと五体そろっていただろうに、陶器製の人形は無残にばらばらになっていた。
「落としてしまったので。せっかくの贈り物でしたのに、申し訳ございません、アルカ様」
「う……ううん」
嘘をついているのは明白だった。人形の白い肌には、動物の血らしきものが塗りたくられていた。これまで、送られてきたときに塗られていたとは考えにくい。
「贈り物は私が開けますから。気になるでしょうけれど、少し我慢なさってくださいね」
「分かったよ」
イーズは贈られたブローチとショールを外し、机に向かった。本を開く。だが、クノルの薄ら笑いと、バラバラになった人形が頭に浮かんで、文章は少しも頭に入ってこなかった。