10.
狩猟祭の最初の収穫は、狐だった。一番矢はシグラッド。猟犬に勝るとも劣らない脚力で狐を追いまわし、狐の胴を矢で射た。
「皇帝陛下は素晴らしい俊足ですね。体力もおありです」
「竜の血のおかげなんだって。レギンほど濃すぎないから、ちょうどよくて、身体が丈夫だっていってた」
人々からはなれた場所で、イーズとシャールは湧き立つ人々を眺めていた。見事狐を仕留めた皇帝に、人々が賛辞の雨を降らせている。皇帝はあまり疲れた様子もなく、黄褐色の目を活き活きとかがやかせて、賞賛に応えていた。
「陛下はお強いのですか?」
「並みの騎士じゃ相手が務まらないって聞いた。へたに聞くと、手合わせしようっていわれそうで、怖いんだよね……」
イーズは弓を握りしめて、困ったように眉尻を下げる。シグラッドの放った矢は狐の胴に深く突き刺さり、従僕が抜くのに苦労していた。
「さて、私たちも獲りましょうか」
「何もなしじゃ、ティルギスの威信にかかわるもんね」
イーズは座っていた大きな石から腰を上げた。シグラッドが獲った狐は、ローラに贈られていた。クノルがニコニコと、土産代わりにどうぞ、と献上している。
「アルカ様がやってきてようやく一年だというのに、もう次の皇妃候補を選ぶとは、気の早いことです」
「でも、私は人質みたいなものだし、前の王様にもお妃様が複数いたし」
「何人もの女性を娶るのが悪いとはいいません。しかし、それにしたって、礼儀というものがあるでしょう。ローラ姫に贈り物をして、アルカ様にしないなんて話がありますか」
シャールは腰に手を当て、当の本人よりも憤慨していた。シグラッドとクノルをきつくにらむ。とくに、クノルの方を。
「――あっ」
「どうされました?」
「さっき、あっちで何か動いた。兎かも」
潅木の葉が揺れ、かさかさと音を立てていた。あまり大きくはなさそうだ。イーズは期待に胸を高鳴らせていると、草むらから野兎が飛び出してきた。イーズが一矢放つが、それは外れ、つづいて放たれたシャールの矢が獲物を射止めた。
「やった!」
イーズは飛び上がって喜び、兎へ駆け寄った。いただきます、と獲物に対して敬意を払ってから、兎の耳をつかんで持ち上げる。
「運がよかったね。猟犬も馬もないから、獲物を探すの大変だと思ってたのに」
「本当に」
「私もがんばって捕まえるよ」
イーズは兎を隠す場所を探して、周囲を見回した。すると、足元をネズミが駆け抜けていった。慌てた様子で森の奥へ走っていく。甲高い鳴き声とともに鳥が羽ばたき、木々の影が揺れ動く。シャールは訝しげに、兎のやってきた方向を注視した。
「なにか……」
音はしない。枯葉の腐った甘い匂いがする。視界にはなんの影もないが、静寂は緊張を孕んでいた。どこかに何かが潜んでいるけはいだ。シャールはイーズを背後にかばい、矢筒から矢を一本取った。茂みに狙いを定める。
「――きゃっ!」
飛び出してきたのは、大きな犬だった。体高がシャールの腰ほどはある。鍛えられた脚が地面を蹴り、黄みがかった牙が剥き出しにされた。シャールの矢は犬の胴に命中したが、絶命させることはできなかった。飛びかってきた犬の口に弓を突っ込み、腹を蹴り上げる。
「アルカ様っ!」
二匹目の犬が、先ほどとは違う方向から襲ってきた。イーズは後ろに跳び退り、その拍子にバランスを崩した。地面に尻餅をつく。それでも犬に矢を放ったが、相手の肩をかすっただけだった。襲いかかってきた犬を、地面を転がって避ける。
「ひっ――!」
牙の並んだ赤黒い口が眼前に迫る。イーズはとっさに、犬の口に弓を噛ませた。唾液が飛び散り、頬を濡らす。生温かい吐息が喉元にかかると、心臓は恐怖に鷲づかみにされた。奥歯ががちがちと鳴る。イーズは満身の力をこめて、のしかかってくる犬を押し返した。
無情に、パキッと弓にひびが入った。木と動物の骨を組み合わせて作られた弓は、犬に噛み砕かれて二つに折れた。イーズは固く目を瞑った。犬の爪が肌に食いこんだ。
だが。
「だーいじょうぶですかー? 姫サーン」
悲鳴を上げたのは犬の方だった。シャールの短剣が首に刺さり、胴に矢が刺さっていた。犬は地面に横倒れになる。イーズは目の端に涙を浮かべて、顔を右向けた。巻き毛でもじゃもじゃとした頭の兵が、おおい、と手を振っていた。後ろに仲間らしい兵を二人連れている。
「おーお、泣いちゃって。もー大丈夫だからネ」
もじゃもじゃ頭の兵が、仰向けになっているイーズのそばにしゃがんだ。鳥の巣のような頭と、不精な外見のせいで老けて見えたが、差し出された手の肌は張りがあり、見た目より若いように感じられた。
「あ……ありがとうございました」
「イエイエ。それはこっちの台詞デス。前にウチの部下の身内を助けていただいてますんでネ」
連れの兵が深くお辞儀した。しかし、イーズは何のことか思い出せない。
「覚えてませんかネ? レギン殿下が竜化なさったときに、庭師のじーさんを助けてくださったデショ。そのじーさんの息子なんですヨ、あいつ」
「本当にありがとうございました。レギン殿下が竜化なさっても被害がまったくなかったのは、あの時だけです」
イーズは目をしばたかせた。まさかあの時のことが、こんなふうに返って来るとは思っていなかったのだ。シャールもまじまじと男たちを見返す。鳥の巣頭の兵は首をかしげた。
「どっか痛かったですか」
「大丈夫です。肩にちょっと爪が食い込んだくらいで」
「そっちのおネエさんは」
「まったく。危ないところを、ありがとうございました」
「礼儀正しいだから。シモジモの者としては、そんなふうにされちゃうと、居心地が悪くっていけない」
男はもじゃもじゃ頭をかく。飄々としていて、城仕えの兵という雰囲気が薄い。だが、連れの一人は「隊長」と呼びかけた。
「早く戻りましょう。持ち場離れてるって知られたら、またお小言くらいますよ」
「おー。そうすっか」
「隊長、ですか」
「これでもね。よかったら、これを機会に鍛練場に遊びに来ませんかね、おネエさん。一人寂しく鍛練してないで。美人な女戦士さんに、実はみんな興味津々なんスよ」
「……考えておきます」
シャールは壊れたイーズの弓を回収し、獲った兎も忘れず持った。
「それも持っていくんですか?」
「一応、獲物にゃ変わりないさ」
兵たちは倒した犬を背負っていた。シャールは犬の死体を検分する。野犬というには毛並みがきれい過ぎ、鳥獣には目もくれず、シャールたちだけを狙ってきたのは不審だった。涼やかな目が剣呑に細まる。
「煮ても焼いても食べられそうにない獲物ですね」
「はは、違いねえ。喰ったら腹を壊しそうだ」
シャールの軽口に、鳥の巣頭がにやりと笑った。イーズに帽子をかぶせ、ぽんぽんとかるく頭を叩く。
「気ィつけな、姫さん。狙われてんよ」
「狙われて……?」
「あんたのことを邪魔に思っているやつがいるのさ」
忠告しながら、男は遠くのクノルを一瞥した。
クノルは相変わらず、満面の笑みを浮かべながら、ローラの機嫌取りをしていた。