44.動き始める世界 ~前編~
第一章エピローグです。
こちらは前半。
後半は、いつもの時間(12時頃)に更新予定です。
「え、あいつ負けたの?」
「はい」
「本当に? あははははっ、ここ一○○年で一番笑えるわね! まぁ五○年は寝てたみたいだけど」
イルテア大陸、魔王国領内、奥地。
万年雪をたたえる山の山麓にある大きな屋敷。肌に纏わり付くような、濃密な魔力が充満する大気の中で、悠然と存在する古くも美しい屋敷で、艶のある薄紫色の長い髪をした女が、肩を揺らして笑っていた。
柔らかなソファにその身体を預け、扇情的な薄手のドレスを着崩して纏う姿は妖艶で。
右手に持ったグラスには、血のように赤いワインが揺れていた。
その女性の後ろ。ソファの傍に控える執事は、モノクルを直しながら頷く。
「しかも、龍化してブレスを跳ね返された? あはははは、お、お腹痛い」
バタバタと脚をばたつかせる女性。肉付きの良い太股がきわどいところまで見え隠れしているが、それを気にする風も無く。
笑いすぎて浮かんだ涙を、左の人差し指で拭い取る。
「力しか取り柄が無いのに、力で負けてどうするのよー。……で、今は療養中ですって?」
「はい。完治には暫く時を要するかと」
「そんな傷を負わされたんだ。ふーん……」
くるりくるり、とグラスの中で紅を燻らせて、その香りを吸い込む。
血のように赤い瞳を細め、口端を鋭い三日月の様に歪めながら笑えば、ちろりと舌先で唇を舐める。
「可愛い子だった?」
初めて、女が執事へと視線を向けた。
その瞬間、執事は一瞬だけ、薄く眉間に皺を刻む。――しかし、それ以外は何の変化も見せず。
「マグダレーナ様の好みの容貌かと」
パチン、と。指を鳴らせば、乾いた響きのある音と共に、部屋の中空に一つの映像が浮かび上がる。
そこにあったのは、銀髪の少年の姿。
アドヴェルザとの戦闘で被っていた仮面は外されていて、メイド姿の人族と話をしている少年の――。
「……へぇ」
ちろり、と。再び舌が口端を舐める。
「……あら?」
その映像の端に映る一つの姿。マグダレーナの真っ赤な瞳が、その存在へと向けられた。
「イルーシオ、魔王様はまだ見つかって居ないのよね?」
「……はい。申し訳ございません。マグダレーナ様の眷属をお借りしておきながら成果を出せず」
「謝罪は良いわ。この少年の情報を持ち帰ってきた事でチャラにしてあげる。それに……」
マグダレーナはグラスを傾け、ワインを口に含む。舌先を湿らせるように、少しだけ口にして、口角を円弧に彩った。
「少し、面白いことになりそうだし、ね」
窓の外、陽の光を通さない、消炭色の雲に、霹靂が奔った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
贅をこらしていながらも、簡素にまとめられた執務室。
その奥にある大きな執務机に、人の頭ほどの大きさの水晶球が置かれていた。
仄かに蒼く輝く其れには、豊かな白髪を後ろに撫でつけるようにして整えた老年の男性の姿が映し出されていた。
身なりは良く、外見よりも若々しく見える蒼い瞳。金細工が美しい指輪を幾つか嵌めた太い指を組み、こちらを見据える眼光。
イルテア聖教の頂点に立つ、グレギウス三世その人だ。
水晶球のこちら側でそれに向かうは、ルートベルク公爵こと、クレーメンス。
神経質そうな蒼瞳に、きっちりと整えられたアッシュブラウンの髪。
「事情は理解した。……しかし、良く無い。実に良く無い」
水晶球に映るグレギウス三世が、豊かな髭を撫でながら、厳しい視線を向けていた。
聖職者とは言え、教皇の座に就くこの男は、当然只人ではない。力も、野心も、頭脳も、全てを持っているからこそ、その座に君臨しているのだった。
故に、その鋭い眼光に耐える者など、イルテア大陸を探してもそうそう存在するわけは無いのだが、クレーメンスは眉一つ動かさず、真正面から受け止める。
「確かに、想定外の事態ではありますが、そう慌てるようなことはありません」
「ほう?」
ギロ、と、片眉を吊り上げ、眼光の鋭さを増す老獪。
「キースリング領は混乱しています。元々、キースリング辺境伯の力で保っていた領地でしたが、既に辺境伯は討たれました。
王都に居た息子が継いで立て直しを図るようですが、そう上手くはいきますまい。何せ、領都キースリングが大打撃を受け、前線の城塞都市フレイスバウムが陥落しているのです。例え、この私でも、立て直しは容易ではない」
自国の危機であるにも関わらず、淡々と、まるで第三者が論評するかの様に語るクレーメンス。
グレギウス三世の眼光に怯むどころか、口角に笑みを浮かべながら相対する。
「しかも、事の真相を知るのは、キースリング騎士団の副団長以下数十名のみ。事態は如何様にでも操作できます」
「操作したところで、かのアドヴェルザを退ける程の力を持つ何者かを放置はできぬぞ?」
「それも承知しております。――そこで、聖下、例のモノを頂戴したく」
その言葉を聞いたグレギウス三世は、これまでには無かった怒りの感情を露わにした。
握りしめた拳で机を叩いたのだろうか。僅かに、ドンという音が水晶球越しに聞こえてきた。
「何をぬけぬけと! 勇者の息子を持ったとは言え、一国の公爵如きがアレを強請るとは、傲慢が過ぎるぞ!」
「おや、これは異な事を……」
薄ら笑うクレーメンス。
立場は明らかに相手が格上であるが、全く動じること無く。白手袋を嵌めた手を組み、そこに顎を乗せ、唇を円弧に歪める。
「元々アレは、英雄テオドールが魔王国の奥地で手に入れ、イルテア聖教国に持ち帰った代物。そして英雄自身も、その恩恵に与ることで『聖炎』を神の炎に昇華させたと聞いております。其れをひた隠しにして、勇者の覚醒を妨げていると民衆に知られれば、イルテア聖教の立場はどうなりますかな」
「貴様……ッ」
ギリ、とグレギウス三世が歯を軋ませる。
「誤解しないで頂きたい。私は聖下を強請っている訳ではありません。仮に、勇者によって魔王国を制したとしても、それで人々が救われるわけではない。
人が救われる為には信仰が必要であり、それはイルテア聖教の力でしか為し得ません。――だからこそ、神は、イルテア聖教に神託と言う形で勇者の存在を告げた。私はそう、理解しております」
「……ふん」
老獪の顔を見れば、クレーメンスの言葉に納得している様子は全く見て取れないが。
それでも、溢れんばかりの怒りはどうにか鎮められた様子。
グレギウス三世は、一度咳払いをして、大きく息を吸い込む。そして、目を瞑って――数秒。
「――分かった。アレの代わりなど有りはせぬが……、相応の対価を用意せよ。いくら勇者とてタダでやる訳にはいかん」
「それは重々承知しております」
「次の報告は、朗報を期待している」
水晶球の輝きが失われる。
今までグレギウス三世が映し出されていた水晶球は、ただのガラス玉のように周囲の景色を反射するだけの代物と化した。
そこには、やや疲れた表情のクレーメンスが映り込んでいる。
「……俗物めが」
吐き捨てるようにそう言うと、クレーメンスは水晶球を執務机の引き出しに仕舞う。
そして、執務机にあるベルを取ると、其れを鳴らした。
涼やかな音が響くと、そう間を置かず執事がやってくる。
グレーの髪を綺麗に整えた、老紳士だ。
「クラウスの様子は?」
「今はお眠りになられております。傷の方はほぼ完治しましたが、魔力の方が安定せず、まだ起き上がれる状態ではありません」
「……チッ」
クレーメンスは立ち上がって、後ろにある窓から景色を眺めた。
見慣れた公爵邸の中庭が広がる。手入れの行き届いた、整然として美しい庭園だ。
「どうにかして回復を急がせろ。――で、キースリング領の調整はどうだ?」
「はい。民草に紛れ込ませた諜報員から、勇者様の噂を流布させております。彼の領地が混乱していることと、唯一と言って良い朗報だということで、順調に広まっております。
キースリング騎士団の副団長達については、勇者護衛の報賞ということで褒美を取らせ、全員に特別休暇を与え、ルートベルク領の別荘地で療養させております。暫くは時間を稼げるかと」
「宜しい。――で、アドヴェルザを討った者の素性は掴めたのか?」
「申し訳ありません。未だでございます」
「急がせろ!」
「御意に――」
そう言うと、老執事は恭しく頭を垂れ、部屋を出て行った。
音も無く閉まる扉を肩越しに見遣るクレーメンス。
苦々しげに表情を歪ませて、再び庭園へと目を向けた。
少し前まで、二人の息子が剣の鍛錬をしていた場所。
一人は追放し、絶縁したため、今はもう見ることの無い光景が、瞼に浮かぶ。
「この私が判断を誤っただと? ……あり得ぬ。アレはどう考えても芽の無い愚物であった」
今思い返しても、憎しみだけがこみ上げてくる子供の顔。
あの男によく似た子供――。
「立て直さねば。直ぐにでも……」
クレーメンスは眉間に深い皺を刻み、静かに目を閉じた――。




