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43.愛しいヒト


 本当に、一瞬の出来事だった。


 デニスさんが振り上げたナイフ。業物でもなく、手入れも最低限といった獲物ではあるが、人ひとり殺すには十分過ぎる凶刃が、薄暗い洞窟に不気味に煌めいた。


「あああああああああっ!!!!」


 狂ったように叫ぶデニスさん。ナイフを持った彼の右腕に掴みかかったのはヨーゼフさんだ。両手で掴んで、捻り上げるようにして攻撃を阻止する。

 デニスさんは力任せにヨーゼフさんの抑止を振り切ろうとするが、ヨーゼフさんの力が強いせいかなかなか抜け出せないでいる。


「お母さん!」


 ルイーザさんを救出しようと迫るラウラさん。だが、ルイーザさんを押さえつけているウッツさんがそれを許すわけも無く。

 咄嗟に抜き放ったナイフでラウラさんを斬りつけようとする彼に、今度はウルガーさんが掴みかかる。


「放せ! この魔物が!!」

「そうはいかん!」


 ウッツさんのナイフが炎に包まれた。恐らく何等かのスキルの効果だろう。

 突然目の前に炎が表れれば驚きもするというもの。ウルガーさんが怯んだ一瞬の隙を突き、ウッツさんが拘束から逃れてラウラさんに斬りかかった。


「ラウラッ!!」

「ッ?!」


 咄嗟に剣を抜いたウルガーさん。彼自身はウッツさんを殺してしまわないよう、ナイフを持つ腕を狙って斬りかかっていた。しかし、ラウラさんが反射的にウッツさんの体を押し返したことで、その想定が狂う。


「え、あ……」


 どさり、とウッツさんが倒れた。その背中には深々と斬撃の痕が刻まれている。──明らかな、致命傷だった。


「貴様ああああ!」


 狂ったように声を上げるデニスさん。力任せにヨーゼフさんの拘束を抜け、ウルガーさんに斬りかかろうとナイフを振り上げる。

 それでも、デニスさんを止めようとするヨーゼフさんは、彼の腰に抱き着く形で無理やり凶行を阻止しようと試みるが、怒りで我を忘れかけているデニスさんは、相手がヨーゼフさんであろうと構わずナイフを向けた。

 もう誰を狙い、何を切ろうとしているのか分かっていないのかも知れない。一つ、二つと、あっという間にヨーゼフさんの背中に傷がついていく。それでもデニスさんを押さえつける手を緩めないヨーゼフさん。

 デニスさんの右腕は、ヨーゼフさんの返り血で赤く染まり。


「落ち着いて!」


 僕もデニスさんを押さえつけるべく、彼の右腕に掴みかかる──が、ぬるり、と、生暖かい感触を感じたかと思うと、彼の腕が僕の手から滑り出た。

 それがヨーゼフさんの返り血の所為だと気づいた時には、もう遅く。



「いやぁぁぁぁぁ!!」

「おのれぇぇぇ!!」


 ラウラさんの悲痛な叫びが、ウルガーさんの叫びが反響する。



 デニスさんの刃は、ヨーゼフさんを庇うように覆いかぶさったルイーザさんの背中に、深く突き刺さっていた。

 ルイーザさんの白く長い髪が、赤い血に染まっていく。口端から、つ、と一筋の紅が零れた。


「ひ、ひひっ」


 狂った様に笑うデニスさん。ルイーザさんの背に突き刺さったナイフを引き抜けば、血飛沫が宙を舞い、まるで雨の様に降り注ぐ。

 全身に返り血を浴びるデニスさんは、更にルイーザさんにナイフを突き立てようと振り上げる。


「止めろ!!!」


 ウルガーさんが、デニスさんを斬って捨てた。



 どさり、と、デニスさんが倒れた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




  何も出来なかった。


 誰かが死ぬのを防ぐことも、誰かが殺されるのを防ぐことも──。

 血に濡れた両手を見下ろしながら、僕はただただ立ち尽くしていた。



「お母さん!」

「ばぁば!」


 倒れ伏したルイーザさんに駆け寄る二人を、僕はその場に立ち尽くしたまま見送る。


 ──なんと、無力なのか。

 力を手に入れようと、それで全てが変わるわけでは無い。アドヴェルザを退けたところで、全てを守り切れる訳でも無い。真の意味でウルガーさん達の味方になり切れていなかったのだろうか。それがいけなかったのか。

 ヨーゼフさん達にも思うところがあったから、あの場面で手を滑らせてしまったのだろうか。


 分からなかった。自分の心が、行動が──。

 何が正しくて、何が間違っていたのか。


 ぐるぐると、くるくると、数分前の後悔が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。



「しっかり!」


 ラウラさんの声に、僕の思考が引き戻された。

 血塗れのルイーザさんが、ラウラさんに抱きかかえられている。そのすぐ傍には、涙だらけの顔をしたマオちゃんと、ウルガーさん。そして、犬人族(コボルト)達が集まっていた。

 ヨーゼフさんは、少し離れた場所でその様子を見つめていた。


 僕は自分で両頬を叩いた。ここで呆けている場合じゃない。


「治癒術を」


 もう魔力は殆ど残っていないけれど、何もしないよりはマシだ。できることをしようと心に決め、ルイーザさんの傍へ行く。

 譲ってもらった場所に膝をついて、ルイーザさんに手を翳した──が、術を行使する前に、その腕がルイーザさんに掴まれた。


「ルイーザさん?」


 ルイーザさんはただ、首を横に振るだけだった。


「無理はいけません。もう魔力は残っておらぬでしょう? 魔族は、魔力に敏感な種族ですから」

「ですけど!」

「ありがとうね、ノア様。──でもね、自分の体だから分かるんですよ……」


 ルイーザさんは、何が、とは口にしなかった。けれど、意図するところは理解出来てしまった。


「ばぁば、ばぁば、痛い?」

「ふふふ、大丈夫。ちょっと痛いけど、ほら、笑顔」


 儚げな笑みだ。でも、それはルイーザさんの精一杯なのだろう。マオちゃんは納得していない様子で目に一杯涙を溜めているけれど、マオちゃんなりに何かを察したのか、それ以上は何も言わず、ただただ涙を流していた。


「でも、まだ痛そう……」

「そう? あぁ、それはマオちゃんが泣いるからかも知れないねぇ。マオちゃんが泣いてると、ばぁばも、悲しくなるからね」

「うぅ……」


 ルイーザさんのすぐ傍で、マオちゃんは涙を流し続ける。

 子供ながらに──否、子供だからこそ、この状況が尋常ならざるものであることを感じ取ったのかも知れない。


「泣かないで、とは言わないけど、ばぁばは笑っているマオちゃんが好きですよ」

「ばぁば、ばぁばぁ……」


 本当に、何もできないのか、と答えが分かっていることを、何度も、何度も自問した。

 何度も、何度も。


 だけど、違う答えなんて見つからず──。



「お母さん、駄目だよ……、ダメ、だよ……」

「ごめんね。孫の顔も見たかったんだけど、ちょっと時間が無さそうだねぇ」

「お母さんっ!」

「あらあら、困ったわねぇ……」


 泣きじゃくる愛娘の顔を、困ったように見上げる母親の姿。ぽたりぽたりと零れ落ちる雫が、ルイーザさんの胸元を濡らしていく。

 その涙を拭おうと、母親の細指が娘の目尻に触れた。細指は震え、今にも落ちてしまいそうだけれど、それでも力強く涙を拭う。何度も、何度も、何度も……。


「嫌だ、おがぁざん……」

「困ったわねぇ……。ウルガー?」

「はい──」


 ウルガーさんが、ラウラさんの隣に膝を付いた。涙こそ流していなかったが、その表情は悲しみ一色で。


「泣き虫の娘を頼みます」


 言葉は少ない。けれど、真っすぐウルガーさんを見つめるルイーザさんの瞳には、溢れんばかりの愛情が、期待が、希望があるように見えた。


「──任せて下さい」


 ウルガーさんの返す言葉も少ない。

 しかし、その言葉には己が全てを賭したと言っても過言ではない覚悟が籠められていて。

 それだけで、お互い、伝え合うべきを伝え合ったと言わんばかりに、微笑み、涙し、頷き合う──。



「……ヨーゼフ、いますか?」


 その呼びかけに、ヨーゼフさん自身が一番大きく反応した。

 皆から距離を取り、されど、この場を去ることもできずにいた彼に、ルイーザさんは優しい声を向ける。


 暫く、ヨーゼフさんは立ち尽くしたまま、ルイーザさんを見ていた。

 ──が、ラウラさんとウルガーさんがヨーゼフさんを見ていることに気付き、意を決してルイーザさんの元へと歩を進める。


「…………」


 ヨーゼフさんは何も言わない。──言えないのだろう。けれど、やはり、その表情は今にも死んでしまいそうな程に悲し気だった。

 そんな彼を見上げるルイーザさんの目は、とても優しいものだった。それこそ──。


「貴方に、心、惹かれておりました」


 恐らく、この場に居る全員が息を呑んだのではないか。

 ラウラさんも、ウルガーさんも。マオちゃんでさえ、驚いていた。


 ただ一人、ヨーゼフさんを除いて。


「……そう、か」

「えぇ、そうです。貴方の、優しさに」


 二人の視線が交錯する。悲し気に、苦し気に歪むヨーゼフさんの表情と、柔らかく、優し気に微笑むルイーザさんが酷く対照的だ。


「それで、儂なんかを庇うなど……。馬鹿じゃ、お前は……」

「えぇ。でも、仕方ありません。体が勝手に動いてしまいました」


 数瞬、ヨーゼフさんが言葉を詰まらせた。目端に、僅かに浮かぶ涙。

 だがそれを、ぐっと、力強く目を閉じることで堪えて。──また、真っすぐ、ルイーザさんを見やる。


「儂も、心惹かれておった」

「はい。知っております」

「……そう、か」


「森の中で、右脚の包帯を巻き直して頂いたあの時から……」

「怪我をしておったからの。手当するのは、当然のことじゃ……」

「貴方の脚とは、随分違いますのに?」

「……同じ脚を持つ者など、おらぬ……」

「ふふふ。そう、ですか……」

「うむ……」


「本当に、すまなんだ」

「いいえ。貴方にとって、村の人々も大切な家族でしたから。……彼らの想いも、痛いほど知っている貴方ですから」

「…………」

「そんな、優しい貴方だから……。私は……」


「儂の、あと一歩の覚悟が足りぬせいで……。謝っても到底許されることではないが……、許して欲しい」

「……私が聞きたい言葉は、それではありません」

「…………」

「…………」

「……愛しておる」

「はい……」

「……ありが、とう」

「……はい、……っ」










「ノア、様?」

「はい」

「いらっしゃいますか?」

「ここに居ます」

「……ごめんなさい。良く分からなくて……」

「いえ。ちゃんといます」

「ありがとう。──ラウラとウルガーを、雪犬人族(シュネーコボルト)をお願いしても良いですか?」

「勿論です」

「ふふ、ありがとう」








「……ラウラ?」

「うん」

「ウルガー?」

「はい……」

「……マオ、ちゃん」

「ばぁば……」



「ヨーゼフ?」

「……あぁ」



「ここにおる」

「……ふふ、あの日より、痩せましたね」

「そう、じゃの……」






「……みんな、いますか?」

「はい」

「ばぁば……、ばぁばっ」

「お母さんッ」

「ここにおります」

「うむ」

「本当ね、温かい……」




「ばぁば」

「はい」



「お母さん……」

「はい」




「ばぁばっ」

「……はい」



「おかあさん……ッ」

「…………はい、はい……」








「ふふ……、しあわ、せ……です…………」












 ──柔らかく優しい、一片の風が吹いた。

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