1.解放の瞬間
25mの温水プールの中、ゴーグル越しに沢山の泡が見える。
私の前を泳いでいる選手のキックの泡だ。
クロールで泳ぐ私の視界は、前の人が作り出す泡かプールの底にひかれたレーンの中央線だ。
ただもう1時間半練習をした後の最後の1000m。
泳ぎ始めてすぐに視界がハッキリしなくなる。
見えていないわけではない、意識の外に行ってしまう。
泳いでいるとき、色々な考えが巡る。
自分だけの世界に潜り込む。
その内、その巡る思考も消えていく。
泳いでいるといつの間にか真っ白な空間に意識が投げ出される。
何もない。
ゴチャゴチャと巡っていた思考も無くなり、本当に真っ白な空間に投げ出される。
その瞬間がとても好きだ。
泳いで、泳いで、泳いで、
ヘトヘトになったころにやってくるその瞬間のために、私は泳いでいるのだと思う。
誰もいない。
自分さえいるのかわからなくなる。
存在の解放。
体はたぶん悲鳴を上げている。
それでも、この瞬間を待ちわびて、私は厳しい練習を耐える。
時間にすると数分の出来事。
前の泡が一層大きくなって、人の姿がちらりと目の端に入るのを合図に私はその居心地の良い空間から意識を現実に戻す。
意識が戻った瞬間に体に疲れがどっと押し寄せ、プールから上がると尚一層に重力がのしかかってくる。
目の前に選手が数人プールサイドで柔軟をしていた。
私はその横まで移動して座り込む。
「お疲れ」
その内の一人の女の子が声をかけてくれる。
先に上がっていた同級生の奈央ちゃんだ。
ハーフのような顔立ちで真っ白い肌をしている。
目の色は少し色素が薄い。
私は小学6年生にしては大きな方だけど、彼女は平均くらいだ。
私は彼女をうらやましく思っている。
息を大きく吸って吐きながら私も「お疲れ」と返す。
彼女の右隣りには少し小太りで小さな女の子、真由ちゃんが座て柔軟をしていた。
彼女は私のことをあまり好きではないようで、いつでも挑戦的な少しきつい目を私に向けてぶっきらぼうに「お疲れ」という。私は彼女が苦手だ。
真由の隣には真由と同じくらいの大きさで引き締まった少年が座っている。
彼は俊君、この水泳クラブのエースだ。
彼は私を一瞥しただけで特に何も言わない。
黙々と柔軟を続けている。
奈央ちゃんの前に座って息を切らしているのは私より少し小さな体格の男の子だ。
私の前を泳いでいた。
平田君。
今日ずっと一緒の練習メニューをしていた相手だ。
彼に向けて私は声をかける。
「お疲れ様、今日ペース早くなかった?いつもより体がだるい気がする」
そう告げると、彼は少し笑って「まぁ、どうにか目標クリアできたかな。コーチに練習の最後だからって流しすぎだって昨日怒られたから、、、」とまだ他の選手の練習を見ているコーチに目を向けた。
今は中学生の選手たちが練習しているのを見ている。
競泳水着を来て上半身には黄色のTシャツをきた体格の良い20代後半男性の大きな声が選手に激を飛ばしている。
私もコーチをチラッと見た。
けど、大きな声で怒る彼を私はあまり好きになれなくて、なんとなくため息をついた。
プールサイドの真ん中にある時計を見るともう少しで7時55分になる。あと5分柔軟と今日最後の調整用の泳ぎをしたら今日の水泳教室は終わりだ。
8時には強制的にサウナ室に入れられる。
私は急いで決められた柔軟をこなした。
私と平田君を残して、後のみんなはプールにもう一度入り、ゆっくりと思い思いの泳ぎをしている。
奈央ちゃんは平泳ぎで、真由ちゃんはバタフライ、俊君はクロールだ。
平田君は柔軟を終えたのか、スッと立ち上がって「お先」といってプールに入る。
彼はバタフライを選んだようだ。
私も最後の柔軟をしていたら、コーチから叱責が飛んできた。
「まり!!何してる、早く柔軟終わらせろ!!」
私は声の方に向いて「すみません、もうおわります」と大きな声で返事をして、立ち上がってプールに入る。
私が個人で怒られることは珍しくなく、誰も気に留めていない。
私は水の中で体を反転し、背泳ぎをする。
そして、大きく息を吸い、すべての息を吐ききるように息を吐き出していく。
私に残された時間は少ない。50mしか泳げない。
このプールから離れると日常が戻る。
大人たちのイライラとした声を思い出してげんなりする。
ぽそりと本音が漏れる。
「帰りたくないな」それは小さなつぶやきで誰の耳にも入っていない。
室内プールの天井に残り5mの印が見えた。
私は体を反転させて、最後はクロールをしてプールサイドに上がる。
中学生や高校生はまだ練習が続く中、私たち小学生組は練習は終了である。
自分たちで最後にシャワーを浴び、サウナに入って体を温めて帰る。
私はこのサウナの時間があまり好きではない。
プールの塩素のにおいがして気持ち悪いのと、友達とのおしゃべりがあるからだ。
好きではないけれど、ここでは長い間プールに使って冷えた体温を上げて帰らなければならない決まりで、しかも、あまり家に帰りたくない私はいつも最後まで残っているけど。
今日は、みんな親が迎えに来ているのが見えたみたいで、ちょっと温まるとすぐに帰って行った。
「まりちゃんは?まだいるの?」と奈央ちゃんに聞かれて
笑いながら「うん、もう少し温まって帰るね」と伝える。
スラリとした手足と少し膨らみ始めた胸元、白い肌に色素の薄い茶色の瞳。
お人形さんみたいだなと思いながら彼女を見る。
俊君と平田君も彼女を見て、「お疲れ」と声をかけた。
いつも彼女の横にいる真由ちゃんが「お疲れ」と二人の男子に伝え、私を一瞥する。
「近藤さんも早く帰ったら」と二人の男子と一緒に残ろうとする私を咎めるように声を出した。
私は、なんとなく居心地が悪い。
でも、もう少し家に帰る時間を引き延ばしたい。
真由ちゃんに作り笑顔を向けて「うん、早めに出るけど、もう少しいるね」と伝えると、真由ちゃんは嫌そうな顔をしながら奈央ちゃんに帰ろうと言った。
奈央ちゃんと真由ちゃんは私たちを残してサウナをでて更衣室に向かった。
シンとしたサウナのなか、ボイラーの音が響く。
誰もしゃべらない。
私は、男子の方が気が楽だ。
とりつくろわなくてもいいし、仮に嫌われても特に好きな人以外はどうでもいい。
女の子は苦手だ。
めんどくさい。
でも、ずっと付き合っていかなきゃいけないから無碍にするわけにもいかず。気を使って彼女たちの機嫌を取らなくちゃいけない。
友達認定されていないと意地悪されるし、
仲間外れにされる。質が悪い。
ボーとしてたら、平田君の声が目の前から聞こえてきた。
「もう5分経つけど大丈夫か?」
ハッとして顔を上げる。
私の目の前には彼のお腹が見えて、私はもう少し顔を上げる。
彼は私の良き理解者だ。
何か話をしたわけではないけれど、なんとなくだけど、自分をとりつくろわなくてもよいと感じさせてくれる。
そう、彼が理解者であってくれたら嬉しいなと思うぐらいには彼に好意を持っている。
恋愛ではないけれど。
彼の顔が少し笑っていた。
「おばさん来てただろ?うちも母さんきてるし、もう少ししたら中学生くるし、帰ろ」
俊君は帰った後の様で、平田君しかいない。
「待っててくれたの?」
私は聞いてみた。
「いや、俺ももう少し居たいけどね、コーチが来ても中学生がきても面倒だから、近藤も、だろ?」
私は笑って肯定する。
そして、こんな風に言葉をかけてくれる彼が本当に不思議で、私はやっぱり彼が私の良き理解者であればよいと勝手に期待してしまっている。
踏み込んで期待を裏切られるのが怖いから、決して詳しい話も本心も見せる気にはならないけど。
私は立ち上がって彼の隣に立った。
「帰ろっか」
二人でサウナを出る。
すぐに分かれ道だ。まっすぐ行けば男子更衣室。左に曲がれば女子更衣室だ。
右手にはプールサイドが見える。
彼は、すぐに着替えて帰るから、更衣室を出ても会えない。
私は平田君に手を振って「ばいばい」というと彼も手を振り返す。
歩みを止めることなく私たちは分かれた。左に曲がった先に女子更衣室がある。
先に帰っていた奈央ちゃんと真由ちゃんが着替えてドライヤーの前に居る。
私はスッと更衣室に入り、競泳水着を脱ぐ。
私の胸は、もうスポーツブラが手放せないほど成長している。
何となく、ため息が出る。
からかいの種になる自分の体があまり好きになれない。
急いてスポーツブラをつけると下半身をバスタオルで覆って水着と下着を履き替える。
もうすでに第二次成長が始まり、下半身に体毛が生え始めている。
成熟するのが早い体に私は心底がっかりしていた。
そんな私の様子を横目で見ていた奈央と真由は
「まりちゃんいいね、胸大きいし、背も高いし、」と呑気に話はじめた。
奈央の目には羨望の色が見えるが真由からは嫉妬の色しか見えない。
大きな体をしているのに、水泳の成績はイマイチだ。
私は練習を真面目にしているが、真由に「あんたにはその体勿体ないのよ!私の実力であんたの体があれば無敵なのに!!」と怒りを向けられたことがある。
確かに、練習を真面目にやったからって才能は神からの授かりものだ、どうにもならない。
私は人に怒りを向けられる原因になっている自分の体が本当に好きになれない。
私は奈央と真由の話には加われず、黙っているとその内二人の支度が終わったようで
「じゃあまた明日」といって出ていった。
私には特に返事を求めていないようで、言いながら出ていった。
私は更衣室の時計を見る。
今8時25分だ。
母とは30分には必ずスイミングスクールを出ると約束している。
私は急いで着替えて、ドライヤーはかけない。
私の髪はサウナであたたっまたためかもうほとんど乾いているからだ。
手早く荷物をビニールのバックに詰めて裸足で更衣室を後にした。
ロビーにいると珍しく母が迎えに来ていた。
そういえば、平田君が「おばさんが来てた」って言っていた。
いつもは父が迎えに来る。
母に「お待たせ」と声をかける。
母は私を見て、「もっとちゃんと髪を乾かさないと風邪ひくわよ」とお小言だ。
うんざりする。
父は何も言わないから、母がお迎えならもっとちゃんと乾かしておけばよかったと後悔した。
母がロビーでお世話になりました。と声をかけながら出ていく。
私も急いで靴箱から靴を取り出して、玄関に置き、「お疲れさまでした」と声を出しながら母の後を追った。