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龍の箱庭  作者: 遠戸
5/18

5.自覚

 あの地震から数年が経った。

 己が不足を感じた琥珀と翡翠は、よく下界に下りるようになった。

 礼慎の元で代わりに診たり、妖退治や魔獣退治に出向く人間達に薬師として同行したりと経験を重ね、判断力や冷静さを養っている。

 何日も慎家を離れる事も多い為、慎家は少しばかり寂しくなってしまった。

 だが、寂しがってばかりもいられない。不足を感じたのは二人だけではない。ユエもだ。

 薬学は勿論、術を使えると力がなくとも出来る事が増える。水の精の力を借りれば、水を汲みに行かずとも傷口の洗浄を楽に行える。土の精や風の精の力を借りて、身体を抱えずとも持ち上げる事が出来る。

 発想と細やかな調整で様々な事が出来るのだ。

 しかし、やはりというべきか、使いこなすのは難しい。犀慎は息をするように水や風などを扱うが、人間には簡単には扱えない。精霊の愛し子であるユエでさえそうだ。

 そもそも龍と人間では使う術が別物なのだ。

 人間は精霊の力を借りる事で術を発現させる。助力を乞い、それに精霊が応えるという形だ。だからこそ精霊の力量と己の力量が釣り合わなければ己が身すら危ういし、相性もある。無論、何処にでも力を借りたい精霊がいる訳ではないし、力量に相応しい相手とも限らない。その為、精霊と繋がる必要がある。それを契約と呼び、双方の同意によってそれは成り立つ。

 一方、精霊とも近しい神獣である龍は元々持っている力を発現させるだけだ。発現も制御も、基本的には手足を使うのと同じ感覚で扱える。

 全く違うものをどうやって犀慎はユエに教えているのかというと、契約はしないが自身が精霊の代わりとしてユエと繋がり、力を貸すのだ。持っているものを制限なくそのまま与える精霊とは違い、犀慎ならば与える力を加減出来る。そして、そうする事によってユエの現状を見極める事が出来るのだ。

 そうして学ぶ中、新しい事も試している。

 ユエの父親であるシルバは人から精霊になった特殊な精霊だ。ユエの生まれた村の川辺の祠で神として祀られていた水の精とは違い、山に宿る本物の神の力を妻と子に心を残すシルバの未練が少しばかり取り込んだらしい。水の精が水を操るように、本来精霊は自然に関わる何らかの力を有している。しかし、シルバは肉体を離れた元人間で、ある意味幽霊のようなものだ。寄る辺を持たないシルバは単なる力の塊に近い。

 そこで犀慎は、ユエの能力増強にシルバの力を使えるのではないかと考えた。元々親子で繋がりの深い二人だ。相性は良い。決してシルバの精霊としての力は強くはないが、ユエの支えにはなれるのではないか。何より、繋がり力を交わす事で、姿を見たり、会話を交わすまではいかずとも意思の疎通程度の事は出来ようになるのではないかと犀慎は考えたらしい。

 本当に出来るかどうかはわからないという前提付きであったが、ユエもシルバも一も二もなく賛同した。特にシルバはずっと何らかの形でユエの力になりたいと思っていた為に、精霊としての力の扱い方から犀慎に学んだ。

 その甲斐もあってか、ユエがシルバの姿を視認するか、言葉を聞くか、同時には出来ないがどちらか一方は出来るようになった。尚、頻度は後者が高い。

 常時という訳ではなく術と同じ形態の為か、ユエの年齢はそうなのであるが思春期の親子のような微妙な距離感になる事はなく、良い相談役になれているようでシルバは喜んでいる。


 そんなある日の事である。

「どうした、ユエ?何か気になる事があるのか?」

「い、いえっ!大丈夫です。何でもありません」

 我ながら、何でもない訳があるかという反応だとユエ自身でさえ思う。明らかに動揺が滲んでいる。だが、どうしても平静を保てない。つい視線が向いてしまう。

 採取した薬草を種類別に分けているところだったというのに、集中出来ていない。慌てて視線を薬草に戻し、手を動かす。

 ここの所、こんな事ばかりだ。そろそろ犀慎も不審に思う筈だ。だが、犀慎にだけは追及されたくない。だというのに落ち着けない。思わず、溜息が零れる。

 きっかけは、十日程前に遡る。

 その日、ユエは夢を見て飛び起きた。恐れ多いというか身の程知らずというか、とんでもない、自らの人格を疑うような夢だった。端的に言えば性的な夢だ。下卑た事はしていないと思うが、何分夢の相手が相手だった。あの時の事を思い出すと顔から火が吹き出しそうだ。

 男ならば誰でも経験する生理現象だという事は、父に教えてもらった。汚した下着を洗っている所を、たまたま帰って来ていた琥珀に見つかって、琥珀にも喋らされた。本当によりによってという時に帰って来たものである。

 シルバは女性の夢を見たのかという程度の事は聞きはしたが、動揺するユエに説明して落ち着かせてくれただけで、相手だとかそういった深い事は聞いては来なかった。だが、琥珀はまだ動揺から立ち直っていないユエに根掘り葉掘り聞いて来た。琥珀の時は村一番の美人と評判だった作兵衛の嫁だったと聞きもしないのに教えてくれたが、そんな事は知った事ではないし、知りたくもない。だから、聞かないで欲しいと思っていた。黙秘しようと思っていた。なのに、うっかりと反応してしまった。美人と言っても犀慎様程じゃない、その名前に思わず肩が跳ねた。しかも、琥珀はそれに気付いてしまった。ぎょっとした顔で言われた、強者と言うか大物だなという言葉は、恐れ知らずの子供への呆れか、身の程知らずへの軽蔑か。ユエの身近な、少なくとも外見上年頃の異性は犀慎と翡翠くらいであるし、翡翠だったと言われても反応に困ると擁護もしてくれたが、大恩ある犀慎を夢の中とはいえ辱めてしまった己を誰より責めたいのはユエである。しかも、一度ではない。その度に相手は犀慎なのだ。犀慎に知られてしまったらという恐れを感じながらも、つい視線を向けてしまうのは、きっと否定したくてもしきれない欲があるからだ。そう考えれば、浅ましさに死にたくなってくる。

 徐々に深刻な表情になっていくユエに、犀慎が気付かない筈もない。

 心配から問われていても、流石に犀慎には話せず困っていたユエに助け船を出してくれたのは、やはりというか琥珀だった。余計な事もするが、今回も色々と教えてくれてもいた。慎家に来てから、ずっと兄のように接してくれていたのだ。ユエもそろそろ難しい年頃だし、女性には話し辛い事もありますよと誤魔化してくれた時には後光が差しているようにすら感じた。だが、心配を掛けていたのは犀慎だけではなく、ならば俺には話せるかと問うてきたのは貞慎だった。

 仕方なく貞慎には話す事にしたのだが、一部はユエも琥珀も誤魔化すつもりだった。流石に犀慎の弟である貞慎には言えない事がある。しかし、結局はユエの素直な反応に貞慎は察してしまった。

 二人は血の気が引いたが、貞慎の反応は予想していたものとは大分違っていた。ユエ寄りだったのだ。

「……ユエは純粋な上に真面目だな……そんなの姉上に言わなきゃわからないのに。小さな頃から姉上と居たし、真面目な姉上の影響が大きいのかな?琥珀が言っていたような感じで適当に濁して誤魔化しておけばいいんだよ、そういう繊細な事は。俺からも言っておく。それに……それは、責められるようなものじゃないと思うけどなあ……。だって姉上ばかりという事は、他の誰でも良いって訳じゃないって事だよ?ユエのそれはもう、欲ではなく思慕でしょう?まあ、その先を望むなら大変だけどね。おそらく俺も人の事は言えないんだろうけど、慎家って色恋壊滅的だって言われてるからな……寿命の短いユエには分が悪い」

「えっ?」

「んっ?」

 ユエばかりでなく、琥珀も貞慎の発言に驚いていた。そして貞慎は、驚かれた事に驚いた。

「ちょっ……貞慎様、そっちなんですか?」

「そっちって?」

「立場が違うとかそういう事ではないんですか?」

「ああ……二人とも難しい事を考えるねえ……」

 考えてもいなかったとでも言いたげないらえを返した貞慎に、二人は呆気に取られる。

「さっきも言ったけど、慎家って色恋沙汰は本当に駄目でね。関心が薄い所為か、誘惑されたり迫られたりしても色恋に結び付かないらしくて……お婆様も母上も本当に苦労したと言っていた。姉上も間違いなく、それを受け継いでいる。初代もそうだったらしいけど、爺様も父上もそれが理由で晩婚の部類なんだ。龍は大体千百歳くらいから千五百歳くらいで結婚するのが多いんだけど、父上は二千二百歳くらいだったらしいね」

 思わずユエと琥珀は顔を見合わせる。

 下界の人間達の寿命を考えればユエは百年も生きないだろうし、混血でも千年は生きないと言われている。二人にしてみれば、あまりに高齢過ぎて感覚が掴めない。とにかく慎家は龍の中では晩婚の部類なのだと言われたままを呑み込むしかない。

「慎家が絶えると龍塞が立ち行かなくなるって、塞主家も他四家も随分気を揉んだらしくてね。どうせ長く生きるんだから焦らなくても良いと思うんだけど……。まあ、それで父上に子供は出来るだけ多くって頼んだらしいんだ。まあ、結局は俺と姉上だけなんだけどね。人を番に選んだ龍は他にもいる。琥珀と翡翠の母上も人だろう?血さえ繋げばいいんだよ。それでも気になるって言うなら……俺も正直あまり関心はないんだけど、琥珀も翡翠もユエも可愛いし、いずれは結婚したいとは思うようになったから、姉上がユエを選ぶならそれでいいと思うよ」

 あっけらかんと言ってのけた貞慎に、二人は唖然とする。

 確かに、琥珀と翡翠の父親である黒鉄は人である母親と恋に落ち、二人を儲けた。龍塞にも人を娶った龍が居る。だが、黒鉄は下界の龍で他の人を娶った龍も言わば市井の民だ。五家の当主である犀慎とは違う。そんな簡単な事ではない筈だ。

 貞慎は、見目や雰囲気も犀慎と似ているが、頭の出来も同じくらい有能だ。その貞慎の言葉であるからこそ、ユエも犀慎も困惑している。そんな事がある筈がないと思いながらも、もしかしたら本当の事なのだろうかと。

 二人の困惑には気付かず、貞慎は楽しそうにしている。 

「……まあ、まだユエも自覚がないみたいだし、もう少し先の話かな?頼りになるかどうかはわからないけど、相談には乗るよ?」

 そういえば、つらつらと語られた上にそれ以上に驚かされた所為で反応し損ねてしまったが、とても大事な事を貞慎は言っていたような気がする。ユエが犀慎に抱くのは思慕――恋情ではないかと。ユエの白い肌に一気に朱が上った。

「えっ?えっと……よろしくお願いします……?」

「はい、了解」

 動揺と困惑で何を言っているのかもよくわかっていないユエに、貞慎は悪気なくにこやかな笑みを浮かべていた。


 貞慎との一件から、ユエは己が心の動きを気に掛けるようになった。己が心を見詰め、考える。よくわからない曖昧なものを明確にしていく。

 一番の理由は、欲ではなく思慕であれば己に言い訳出来るからだ。ずるい話ではあるが、それは苛まれていた反動でもある。傍で見ていた者が揃って心配する程に、ユエは思い詰めていた。それが緩和すれば、周囲の心配も減るのは事実である。犀慎に知られる可能性も減る。

 だが一方で、思慕でなければ良いとも思ってもいる。貞慎はああ言っていたが、ユエと犀慎では何もかもが違い過ぎる。ユエは犀慎が助けてくれなければ死んでいた。慎家に庇護されなければ、ここまで成長出来たかもわからないし、今よりもずっと出来ない事は多かっただろう。きっとここだから学べた事は多い。更に、ユエは精霊の愛し子ではあるが、人間だ。犀慎と同じ龍ですらない。冷静に考えて、己よりも深春の方が犀慎に相応しいのだろうと思う。自覚したらしたで、また思い悩むのだろう事は想像に難くない。

 ユエにとって、犀慎は特別だ。琥珀や翡翠とは違う。貞慎達慎家の面々とさえ違う。それは知覚している。恩義があるのも事実だが、存在自体がユエの中で重要なところにある。そして、今回の事もそうだが、柔らかで繊細な部分に触れる。よく似た顔と雰囲気の貞慎や雰囲気は違うがどこかしら似ている上にやはり麗しい聖辰の顔は客観的に見る事が出来ているのに、未だに犀慎の顔には慣れない。鼓動が跳ねる。保護者なのだが、それだけではない。

 今の犀慎はユエを恋愛対象として見てはいないだろう。だが、親代わりというつもりでもないだろう事は何となくだが感じられる。シルバの意思を確認しているような素振りがあるからだ。保護者兼師匠という位置付けがしっくりくる。可能性は薄いがない訳でもない。実際には出来ないのだろうが、それを犀慎自身に確認出来れば、相応しくないという劣等感に似た罪悪感は消えずとも、想う事自体に働いている自制はなくなりきっと思い切れる。そうすればどちらなのか判断出来るのではないだろうか。そう考えている。

 ちなみに、こうして思い悩む時点で思慕ではないかという考えはユエの中にはない。


 そんな中、犀慎が下界へと連れて行ってくれた。 

 最初にユエが助けられた際は、緊急事態だった為に犀慎が慎家の池と川とを繋いだのだが、基本的には龍塞と下界を行き来するには飛んで行くか龍塞の門を使用する。飛べないユエが下界に下りるには門を使うしかないのだが、門を使用出来るのも基本的に龍塞の龍のみだ。ユエばかりでなく、琥珀と翡翠も彼等だけで行き来する事は出来ない。その為、二人が行き来をする時は犀慎達が連れて行き、水盤に連絡が来れば迎えに行く。トラン王国であれば礼慎が送って来るという形になる。ちなみに連れて行く頻度が最も高いのは玉蘭だ。礼慎に会うのが一番の目的で、トラン王国へ行く際は必ず玉蘭が送って行く。礼慎と玉蘭が共に過ごす間、琥珀と翡翠が留守番として怪我人や病人を診ている。元々、犀慎が跡を継いだ際に玉蘭も礼慎と共に居を移したのだが、ユエの為に子育て経験者がいた方が良いだろうと慎家に戻って来ているのだ。ユエの成人後には、また礼慎の元へ戻る事になっている。

 今回は琥珀と翡翠は既に下界へ下りている為、犀慎とユエだけで下りた。

 犀慎は買い出しだと口にしたが、ユエが自由に行き来出来るのは龍塞の中だけの為、外の空気を吸えば気分も変わって、悩み解決の糸口が見つかるかもしれないと犀慎なりに考えたのだろう。

 琥珀や貞慎のお陰かユエに尋ねる事はして来ないのだが、犀慎の視線を感じる事がある。やはり心配を掛けている。それが心苦しい。 

 そして下り立ったのは、礼慎が暮らし、琥珀と翡翠も滞在しているトラン王国だ。

 トラン王国の歴史はまだ百五十年程で、トラン王国でも外れにある礼慎の薬草園は、実は建国以前からのものである。犀慎が跡を継いだのは百年程前の事件の後だが、それ以前から礼慎は準備をしていたようだ。何もなかった土地を開墾し造った薬草園に人が訪れ、礼慎が怪我や病を治療した事から人が集まり、集落が出来た。魔獣が出ても、戦が起こっても、礼慎が集落も人々も護った。その集落は徐々に大きくなり、村となり、町となった。そういった経緯で出来た町である為、礼慎が人でない事は暗黙の了解となっており、礼慎自身が否定しているにも関わらず、人々を救う為に天上より降り立った薬学の神であると方々へと伝わった。国も建国の際に絡んで痛い目を見た為、薬草園に関してだけは礼慎の自治領として扱い、現在は下手な手出しはせずに敬意を持って接している。

 その為、現在サルースと呼ばれている町は、国の外れに位置するにも関わらず王都並に治安が良く、人が集う町となっている。現在はかなり大きな町となっているのだが、誰もが礼慎を敬い、礼節を以て接しているので、慎家の者も犀慎の弟子である琥珀と翡翠も、幼い頃から連れられてやって来ていたユエの事も丁重に扱ってくれている。ユエ一人で出歩いても、酒場などが集まる場所に行きさえしなければ安心して過ごす事が出来るのだ。そこまで考えての選択であろう。

 とりあえずは、犀慎が理由として挙げていた買い出しをいう事で二人で繁華街へ出掛けた。

 並んで歩きながら、買い出しの内容を控えた小さな紙に視線を落とす犀慎を見遣る。もう身長はあまり変わらない。ずっと見上げていた目線は同じくらいだ。伏し目がちの瞳に掛かる睫毛が黒々として長い。薄く開いた唇は淡く色付いていて、何故だか鼓動が早くなる。どんどんと落ち着かなくなるのに、視線が外せない。

「ユエ、どうした?」

 ふと視線を向けた犀慎と目が合い、ユエの身体が硬直した。明らかに不審なユエの動きに犀慎が問うてくるが、説明する訳にもいかない。

「な、なな何でもありません!」

 不審さが増すだろうユエの反応に、犀慎が切り込もうとして止めた。声を発しようと開かれた唇が閉じられる。

「あっ……」

 少しの寂しさのようなものと自嘲が犀慎の表情から感じられて、しまったと思ったがどう取り繕えば良いのかわからない。焦るユエに、犀慎は穏やかに笑んだ。

「……大丈夫だよ。ユエももうすぐ大人として認められる歳になる。こうして大人になっていくんだなと思っただけだ」

「でも……」

「度々ある事だよ。ユエは以前は僕と言っていたのに、貞慎や琥珀の影響で俺と言い始めただろう?最初はそれだったか。その時もこんな感じだった。成長の一つだと思えば喜ばしいし、嬉しくも思う。だが、最近はユエも私には言えない事も増えたようだし、巣立ちも近いのかと思えば少し感傷的になってな。ユエが気にする事ではないよ」

 暁国では十五歳で成人とされる。それに則って、ユエの生まれた日から十五年の日に成人の祝いをしようとは言われている。

 まだまだ薬師として未熟であるので、成人してもすぐに独り立ちなど出来ないだろうし、そんな事は言われないだろう。だが、いずれはと漠然と考えていた時を意識した。

 人としての寿命を考えれば、琥珀や翡翠のように何十年も修行する事など出来ない。犀慎もそれを見越してユエに仕込んでいる。

 きっともう、そんなに長くは犀慎と居られない。別れの時は近いのだ。

 ずくん、と胸が疼いた。

「ユエ?」

 心配するような声に我に返れば、縋るようにして犀慎の腕を掴んでいた。

「どうした?具合が悪いのか?」

 嫌だ。まだ犀慎と居たい。離れたくない。そんな想いが胸に渦巻いていて、腕を掴む手に力が入っている。

 きっとユエならば痛いくらいだと思うが、龍である犀慎はただ心配げに眉根を寄せているだけで、全くそんな様子は窺えない。人間と同じ姿を取っていても、犀慎は人間ではない。龍だ。あまりない事だが、龍の姿を取る事もある。悔しい思いはした事がある。だが、違う事をこんなに苦しいと感じた事はない。顔が歪んでいるのがわかる。鼻の奥がつんとする。

「お、れは……」

 何か言わなければと思うのだが、何を言えばいいのかわからない。ただ絞り出した声は震えている。

「犀慎様、俺は……」

 きっと、ユエはこの苦しさを何と呼ぶのか知っている。けれど思った以上の苦しさに、断じてしまう事を怖いと思った。心はもう知っているというのに、逃げられないとわかっているのに怯んでいる。

「……何も言わなくていい。大丈夫だ。優しいお前の事だから気遣ってくれているんだろうが、気にしなくていい」

 犀慎は寂しさのようなものをおもてに出してしまった事を気にしていると思っているようだが、違う。だが、何も言えずにユエは項垂れた。

「……少し、一人になる時間が要るな。買い物は私がやっておくから、気分転換しておいで。危ない所には……いや、そんな事はわかっているか。買い物が済んだら父上の所に居るから、ゆっくりして来なさい」

 反射的な物なのか、幼い頃からよくしてきたように頭を撫でようとした手が躊躇って、引かれた。代わりに軽く肩を叩いて、犀慎が遠ざかる。追い縋る様に視線が背中を追うが、ユエはそのまま見送った。

 

 暫くそのままの状態で突っ立っていたユエだが、通行人にぶつかられて我に返る。視線を向けるとこんな所で何故立ち止まっているんだと言いたげな顔をされ、詫びる。大きな町の繁華街の道だ。当然人通りはそれなりに多い。こんな所で立ち止まっていては確かに迷惑だ。それに気付いて漸く移動する。

 常であれば、人通りの多い場所で醜態を晒した事への羞恥を覚えた所だろうが、いっぱいいっぱいのユエはそこまで頭が回っていない。犀慎との遣り取りを見ていたらしい者達の好奇に満ちた視線になど、当然気付く筈もない。

 下世話な者達の衆目を集めている事にも気付かず、ただ移動しようと歩いていると広場に辿り着いた。目に入った長椅子に腰掛けてぼんやりしていると、琥珀が息を切らせてやって来る。

「……ユエ!こんなところに居たのか!」

「琥珀さん……?どうして、ここに?まだ診療時間じゃ……」

「犀慎様が一人で帰って来られた上に構い過ぎたって自嘲されてたし、心配にもなるだろ。いざとなれば犀慎様もいるから、翡翠に任せてお前を探しに来たんだよ」

「すみません……」

 項垂れて消え入りそうな声でユエが詫びる。

 犀慎の落ち込み具合も気になったが、ユエの様子はそれ以上で、かなり深刻に琥珀の目に映った。

「……何があったんだ、ユエ?」

 優しく声を掛けると、ユエが泣きそうな顔で声を震わせる。

「琥珀さん、俺……俺、どうしたらいいですか?」

「うん。どうした?」

「……俺、もうすぐ大人として認められる歳になるって犀慎様に言われて、まだ先の事ですけど、独り立ちを意識して……気付いたんです。俺、犀慎様と離れたくない。ずっと一緒に居たいです」

 きっと、逆に辛い事もあるだろう。

 貞慎が言っていた適齢期に犀慎は入っているし、身近な聖辰と冬歓が既に結婚している事を考えれば、犀慎もいつ結婚の話が出てもおかしくない。貞慎の口ぶりでは今のところは決まった話がある訳ではないようだが、慎家が晩婚の家系だとしてもいずれはそういう話は上がるだろう。寧ろ、塞主家や他四家が慎家が絶える事を心配しているというのなら、今まで話はなかったのだろうか。そう考えるだけで胸が痛い。

 他の誰かと結ばれる犀慎など見たくない。だが、少なくとも今は、一緒に居られる間だけでも傍に居たい。

「……そう思う理由、わかるか?」

「……多分。多分、俺……犀慎様の事……」

「あ~……自覚しちゃったのか……」

「琥珀さんも気付いて……」

「そりゃあ、な……時間の問題だとは思ってたけど、もう少しかかると思ってたのに……。お前、慎家に来た時からしょっちゅう犀慎様に見惚れて呆けてたし、俺達や貞慎様と遊んでても犀慎様がいらっしゃると犀慎様にべったりだったし。貞慎様の仰る通り、色恋沙汰が駄目な方々だから気付かれなかっただけだろ。あっ、でも玉蘭様なんかは微笑ましく思ってらっしゃったんじゃないか?」

 自覚するより先に一部には筒抜けだったらしい。羞恥に顔が熱くなってくる。

「まあ、よりによってとは思うけど、子供の時にあんなに綺麗で優しくて強くて恰好良い方に拾われて、ずっと傍にいたんだから、他に目が行かないのも仕方ないよな。でも……しんどいな。貞慎様はああ言ってたけど、あれは貞慎様の立場だから言える事であって、俺達には違いを気にするなってのが無理だ」

「……」

 琥珀と翡翠は、母親と死に別れるまでは暁国に、下界に居た。龍塞へ来た時は見た目こそ少年だったが、中身は不惑を越えて充分に大人だった。年齢を重ねていても、種族が違う為に触れ合いはあれども外から眺めている立場の龍達とは違い、内側から見た人間の世界というものをよく知っていた。それを知っている犀慎は、ユエが下界に下る可能性も考慮して琥珀と翡翠に内側からの人間としての知識を教えてやるように頼んでいた。

 龍達の間にも地位や立場というものはあるが、塞主家も五家も割と気さくで、変に偉ぶったりはしていない。寧ろ、慎家以外の四家のさぼり癖などは、そういった立場などを面倒に思っている事の表れでもある。几帳面な塞主家や慎家でさえ、本当は面倒だと思っている。ただ、集団が平穏に暮らしていく為には誰かが取り仕切る必要があり、規模が大きくなれば手数も必要になる。そういった厄介事の為の塞主であり五家なのだ。だからなのか、塞主家や五家の者達も地位や立場にふんぞり返るどころか普通に住民達に交じって店で食事をしたり酒を飲んだりもする。住民達も、厄介事を引き受けてくれている存在に感謝しているから多少の便宜を図るという程度で、人間達とは大分感覚が違う。

 無論、龍にもそれぞれ個がある。野心的な者もいるし、人間や混血を下に見る者がいない訳ではない。犀慎は礼儀は身を守る為のものだとユエは勿論、琥珀や翡翠にも龍塞での基本的な礼儀を教え込んだが、それは龍と人間との身体能力の差も関係している。龍は基本的に穏やかな気質のものが多いが、万が一龍と人間が喧嘩などしてしまえば、人間は簡単に死んでしまう。少々尖った輩との折衝を避ける為の一つの防衛策として、犀慎は礼儀を身に付けさせたのだ。だが、龍塞ではそういった者は厭われている。穏やかな暮らしを望むが故に面倒事を嫌う者達に、事が起こる前に潰される。でなければ、軽く五桁を越えて龍塞の平穏が保たれている筈もなく、現在まで人間や混血が暮らしている事もなかっただろう。

 それに引き換え、人間達はつまらない事に拘る。血や権力に拘る。己は優れていると偉ぶり、何かと線引きしたがる。だから争いも絶えず、権力者も入れ替わる。そんな姿を琥珀も翡翠も知っている。ユエでさえも知っていた。だからユエは殺され掛け、慎家にいるのだ。それは賢いユエには根深く刻み込まれていて、今でも自身から格下なのだと線引きしてしまっている。実際に人を番として迎えている龍も龍塞にもいるので、貞慎の言う通り本当に種族の差など気にしなくても良いのかもしれない。だが、下界は違う。幼いユエが犀慎に淡い想いを抱いていた事に気付いていたとしても慎家の者が追い出すような事はしなかっただろうが、下界であるなら身分違いの想いを見抜かれた時点で排除されていてもおかしくないだろう。琥珀もユエも龍塞での暮らしは決して短くはないが、下界の感覚の方が強い。特にユエは命の危機を味わったが故に根深いのだ。

だが、自覚したばかりの想いを諦める事も出来ない。その程度のものであるなら、きっとこんなに拗らせてはいない。

「……とりあえずは、今日の事は落ち着いたと誤魔化して犀慎様にお詫びして、何とか取り繕えるようにならないとな」

「はい」

 離れたくないのなら、気付かれないように平静を取り繕えるようにならなければならない。それが二人の結論だ。

「誰かを想う事がこんなにきついものだと思わなかったです……」

「……それは相手次第なんだけどな。いずれ諦めがつくのか、ずっと捨てられないのかもそれぞれだろうし……お前は弟みたいなもんだし、俺には慰めでも無責任な事は言えないよ。でも、もし万が一があるのなら……いや、それこそ無責任か」

「いえ……琥珀さんが居てくれて良かったです。琥珀さんが聞いてくれるだけで、少し気が楽になります」

 辛そうなのにそれでも笑ってみせるユエが切ない。素直で可愛い弟分なのだ。出来るなら幸せになって欲しい。

 万が一が起こってくれないだろうか。琥珀はそう願ってやまない。

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