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龍の箱庭  作者: 遠戸
3/18

3.慎家

 窓から差し込む日差しと小鳥の囀りに、ふと意識が浮上する。

 目覚めは良い。暑くも寒くもなく、天気も良い。気持ちの良い朝だ。

「おはよう、父さん」

 近くを浮遊する銀色の光に挨拶すると、寝台を下りて身支度をする。

 着替えて顔を洗い、鏡を見ながらさっと髪を整える。先日、短く整えてもらった髪は手櫛で充分だ。

「よし!」

 身だしなみは礼儀の一つだと教えられた。

 わざわざ身を飾る事はしないが、人目に触れても問題ない程度に準備を整えると部屋を出る。

「おはようございます!」

 朝食の香りが漂ってくる扉を開けると、少しばかり声を張って挨拶をする。

 ユエが慎家で暮らし始めて五年。ユエは十歳になっていた。

「おはよう、ユエちゃん」

「おはよう。今日も良い挨拶だな」

 優しい笑みで挨拶を返してくれたのは、犀慎の母である玉蘭(ぎょくらんと弟の貞慎ていしんだ。

 玉蘭は人間の姿で言うと三十代後半といったところで、落ち着いた印象の犀慎とは違い、明るく話好きで、赤毛に青い瞳の見た目も華やかな女性だ。少々突き抜けた所があり、ユエも最初は驚いたが、愛情深く優しい所は犀慎と同じで、すぐに懐いた。

 貞慎の方は、琥珀や翡翠と同じく犀慎よりは二、三歳程年下に見えるが、見目も雰囲気もよく似ている。犀慎と同じ黒髪は短く整えられており、深くも澄んだ紺青の瞳は、穏やかながらも理知的な輝きを宿している。細身ですらりとした体躯は少年から青年への過渡期を思わせ、身長はまだ犀慎とそんなには変わらないが、少しばかり高いらしい。

 慎家の家族構成は犀慎と貞慎の姉弟に両親、祖父母なのだが、父である礼慎れいしんは西の国でしか採取出来ない薬草の栽培の為、殆どこの屋敷にはいない。また、祖父智慎ちしんと祖母芙蓉ふようは各地を転々としており、時折帰ってきては暫く滞在し、再び出掛けて行くという生活をしている。その為、普段は犀慎と玉蘭、貞慎、住み込みの弟子である琥珀と翡翠、そして養い子であるユエで暮らしている。

「……犀慎様は、まだ……?」

「いや、今朝方帰ってきたみたいだ。物音がしていた」

 塞主の宮へ赴いている犀慎は、ここ数日帰ってはいなかった。

 これまでの様子からして、流石にそろそろ帰れるだろうという所だったのだが、早寝早起きを習慣付けられているユエが起きている間には帰って来ていなかったのだ。

「犀慎が次で良いなんて言わない事なんて、とうにわかっているでしょうに……あの子達にも困ったものよね……」

「本当に。姉上には悪いですが……俺、本当に当主でなくて良かった……!」

 犀慎は龍塞の主である塞主に次ぐ地位にある、五家の当主の一人だ。

 龍塞は下界のように地震や水害などの災害に見舞われる事はない。空中都市ではあるが、龍は風雨や雷を操る神獣である為、嵐に遭う事もない。

 更に、龍は長く生きる為に穏やかでのんびりとした気質のものが多い。

 その為、基本的に平和で穏やかな生活が営まれているのであるが、ある意味では龍の気質が仇になってもいる。

 平和である為、半年に一度程の頻度なのだが、塞主の住まう宮で塞主と五家の当主による評議が行われる。

 この龍塞に住まう者や下界に住まう龍達の状況把握や、龍塞の土地や建物管理、公共事業、公衆衛生の整備や補修等々、やる事は下界の人間達とあまり変わらない。しかし、長生きの弊害か、今でなくても良いとすぐ後回しにするのだ。大らか、気長と言えば聞こえはいいが、すぐに手を付ければ大した労力にもならないのに、どうしようもなくなるまで手を付けたがらない。だが、それならまだ良い方で、今は必要ないからと必要となるまで放置する事さえあるのだ。

 龍塞に住まうのが龍だけならまだ良い。だが、そうではない。多くはないが、琥珀と翡翠のような混血やユエと同じ人間もいる。彼ら、特に人間が困ってしまうのだ。

 混血は龍の姿になれない場合がある事と、能力が多少落ちてしまう程度の差だが、人間は大分違う。水路が壊れても龍は水が呼べるが、普通の人間はそうではない。橋が壊れても龍は飛べるが、人は飛べない。川に架かる橋ならば最悪泳いで渡る等の方法もあるだろうが、宙に浮かぶ土地を繋ぐ橋が壊れては移動が出来なくなってしまう。人にとっては下手をすると命に関わるのだ。

 そういった調査等を分担して行うのだが、まずこの段階で龍の悪癖が発揮される。急ぎはしないと調査すらしないのだ。龍には珍しく几帳面な塞主家と慎家以外の四家は、毎度それだ。

 そもそも慎家は塞主家の血の濃い分家だ。初代は犀慎の曽祖父で、当時の塞主の双子の兄であった。本来は犀慎の曽祖父が塞主となる筈だったのだが、それが嫌だったらしく、自ら臣下に下ったらしい。その為、他の塞主家の分家は一代限りの特権階級なのだが、慎家は五家として名を連ねるに至っている。字面は違うが、塞主家が代々受け継ぐ辰と慎家の慎が同じ読みなのもそれに由縁している。

 それもあってか、几帳面は血で、それが故に龍塞の主として祭り上げられたのではないかと塞主家と慎家では思われている。

 評議の度に現塞主と犀慎が他四家の当主を叱責し、調査に行かせる。しかも、水を通じて逐一、所在を報告させないと信用ならない為、全てが終わるまで塞主と犀慎は宮から離れられない。更に全てが終わってからの評議となる為、毎度犀慎は数日は帰れない。帰る時にはもう心身共に疲れ果ててしまっているのだ。結局は五家として参加しているので同じ事になってはいるが、きっと慎家の初代もこれが嫌だったのではないだろうかと思わざるを得ない。

「ユエ、今日までは俺が見るよ」

「はい、よろしくお願いします」

 慎家で暮らすようになってから、ユエは色んな事を学んでいる。

 読み書きと算術、慎家が五家としての務め以外に家業としている薬学に身を守る為の武術等々。しかも、読み書きは龍塞ばかりでなく、下界の幾つかの国――ユエや琥珀、翡翠の故郷である島国、あかつき国やユエの名の元となっている言語を扱う京華けいか国、犀慎の父である礼慎が暮らしているトラン王国等、複数の言語を学んでいる。一人でも、そして何処ででも困らないようにとの配慮で、長くを生き、世界中を飛び回る事の出来る龍の基準よりは甘いのだが、なかなかに手広い。しかし、鄙びた村に生まれ育った割には賢く、更には好奇心旺盛だったユエは、教えられる事を次々と吸収し、身に付けている。

「……本当に姉上の所にくる子は皆、良い子ばかりだよね」

「ええ、犀慎の一番の才能はそれだと思うわ!」

「何のお話ですか?」

「あ、琥珀さん、翡翠さんおはようございます!」

「おはよう、ユエ」

「おはよう」

 朝食の支度が出来たらしく、今日の当番である琥珀と翡翠が両手に大皿を持ってやってくる。

 礼慎が西の国で暮らし、その父母である犀慎の祖父母が各地を転々としている所為か、慎家では様々な国の料理が出てくる。今日は西の国の朝食であるらしく、小ぶりで程よく焼き色の付いたパンという小麦を使ったふかふかで柔らかい主食に溶いた卵を半熟に焼いたもの、葉野菜を添えた燻製肉、果物、香り付けした紅色の茶だ。

 それぞれに配られた茶以外は、円卓に並べられた皿から各々好きな分だけ取り分けて食べる形式になっている。

「ふふっ、美味しそうねぇ!」

「じゃあ、いただこうか」

手を合わせ、いただく命と実りに感謝して食事を始める。幾分食事が進んだところで、翡翠が問う。

「……そういえば、先程は何のお話をされていたんですか?」

「ああ、うちの子はみんな可愛いって話をしてたんだ」

「……子供扱いはいい加減止めてください、貞慎様」

「何を言っているんだ、琥珀。俺でも千百年生きているんだぞ。百年ちょっとのお前達なんてまだまだだ」

「それはそうかもしれませんけど、見た目はあまり変わらないじゃないですか」

 琥珀が不満げに言うが、貞慎は笑って取り合わない。

 確かに貞慎と琥珀、翡翠は見た目の年齢は同じくらいだ。しかし、純粋な龍である貞慎と、龍の血は入っているが半分は人間である琥珀と翡翠では寿命も成長速度も異なる。ただの人間からすればどちらも長生きなのだが、何千年と生きる龍に比べ、半分が人である混血は千年は生きられない。また、貞慎は大凡千百年程生きているが、犀慎がもうすぐ千四百年、その父である礼慎で三千七百年、祖父である智慎は六千年程で、見た目は礼慎が人間でいう四十代、智慎が六十代くらいである。

 貞慎から見れば琥珀も翡翠もまだまだ子供だというのもわかる。

 だが、ただの人間でその人間からしてもまだ子供であるユエは、成長していないと言われたような気がして、少し傷付く。その事に気付いたのだろう。翡翠が貞慎に苦言を呈す。

「……貞慎様、ユエの立場がありません」

「あっ……ごめんな、ユエ。でも、ユエが一番成長はしてるよ。身体も勉強の方もな。姉上も、そろそろ術を教えてもいい頃だって言ってたよ」

「本当ですか?」

 暁国や京華国など東の国では術と呼び、西の国では魔法と呼ぶ為、暁国と京華国の間にある海の上空にある龍塞でも術と呼ぶのだが、精霊の力を借りて、その精霊の司るものを事象として発現させる事が出来る。

 例えば、道具を使わずに火を起こしたり、水のない場所で水を調達したりという平和的な使い方も出来るが、戦いの際に攻撃手段として用いる事も出来る。精霊の愛し子であるユエは、その適性は高い。

 しかし、身体が未熟では精霊の力に耐えられない。精神が未熟では使いこなすどころか暴走して危険だ。適性が高いからこそ、きちんと状態を見極めて学ばせなくては、ユエを壊してしまいかねない。その為、犀慎も慎重に様子見していたのだ。

「ああ。勿論、いきなり大きな術をなんていうのは無理だぞ?簡単なものから少しずつ、な」

「わかってます!」

 身体能力にしても術にしても、人間は龍にとても及ばない。それは精霊の愛し子であってもだ。龍塞においては人間は龍に護られる側であり、五家の慎家など龍塞でも最上級の護り手だ。下界で戦いを生業にするのでなければ、そもそも大きな術など必要はない。

 武術を学ぶ段階でそれを思い知っているユエに、身の程知らずの考えはない。努力でどうにかなる格差ではないからだ。寧ろ、慎家の面々が人間が龍より優れている部分であると評価してくれる、細やかさを生かしていきたいと思っている。長い時間を生きる為の趣味を兼ねて慎家が代々研究し、研鑽を重ねている薬学は学んでいて楽しいと思えるし、合っていると感じている。成り行きで学び始めたものではあるが、琥珀や翡翠に同じく、生業としていく事も考えている。

 無論、ユエも実力を試したいという気持ちない訳ではなく、武術の方で既に感じているので、きっと術に関しても感じるのだろう。だが、その機会は犀慎や貞慎が時折与えてくれているし、これからもそうだろう。

 龍塞で育てられない薬草や手に入らない材料を下界で採取する際や、下界での滞在費や食事代稼ぎなどで、人を襲う妖や魔獣と呼ばれる生物と戦う事があるのだ。

 流石に、西の国でドラゴンと呼ばれる巨大な火吹き蜥蜴などとは今後もユエは戦わないだろうが、犀慎は素手で瞬殺していた。人間として最上級の強さを持つ者達が束になってもそうそう勝てない相手をだ。ユエが身の程を知るには充分過ぎる出来事であった。ちなみに随分な金額になったのだが、犀慎は琥珀や翡翠が独り立ちした際に下界で暮らす事を視野に入れ、様々な通貨で貯蓄しているらしい。師としての甲斐性ではあろうが、一体どれだけ大きな薬屋を作る気なのかと二人は呆れていた。礼慎が管理しているトラン王国の薬草園はかなり大規模なのだが、同じようにして礼慎が稼いだ金で作ったらしいので、犀慎の中ではそれが基準なのかもしれない。

「楽しみだなぁ……!」

 調子にのったりする事はないが、新しい事を学ぶのは楽しいし、適性があるのなら出来るところまではやってみたい。ユエは心躍らせながら、食事を楽しんだ。


 その日の昼前である。

「……貞慎、ユエ!」

 当番の屋敷の一角にある薬草園の手入れを終え、貞慎に武術の稽古を付けてもらっていた時である。

 掛けられた声に振り返ると、見知った男女の姿があった。犀慎にどこか似ているが、落ち着いた犀慎とは違って快活な印象の女性とかなり長身のどこか威圧感のある男性だ。

 犀慎もそうだが、女性の方はこの龍塞に住む他の女性達のように、天女のような諸所にうっすらと透けるうすものの使われている衣服ではなく、身分の高い男性が着る衣服を身に纏っており、長い紺青の髪をすっきりと纏め上げている。覇気に溢れた紫水晶のような瞳も相まって、女性というより少年のようにさえ感じられる。

 一方の男性の方は、背の中ほどまでの黒髪を一つに束ねている。服装は連れの女性と色合いが違うだけだ。寡黙というよりは若干不機嫌そうな、身長だけではない威圧感と鬱蒼とした森を思わせるような暗さを感じさせる深緑の瞳も相まって、正直怖い。ユエが初めて会った時は、思わず怯えてしまった程だ。

聖辰せいしん様!……と冬歓とうかん様。いらっしゃいませ」

 この龍塞の現塞主の聖辰とその夫で五家の一つ、冬家の現当主である冬歓である。

 犀慎とも貞慎とも付き合いの長い両者は、主君や同僚である以前に幼馴染のようなものである為、こうして気軽に慎家を訪ねてくる事も少なくない。しかし、百年程前にあったとある出来事の所為で、聖辰はともかく、冬歓に対しては慎家の態度は少々厳しい。今日も貞慎は冬歓に対して冷ややかな眼差しを向けている。

「お久しぶりです、聖辰様、冬歓様」

 宮殿以外では仰々しい挨拶は止めてくれと直々に言われているので、ユエは簡易的な礼を取って挨拶をする。冬歓は軽く頷くだけだが、聖辰は笑みを浮かべ、気さくに話し掛けてくる。

「ああ、久しぶり。ユエは今日も頑張ってるな!犀慎もいつも褒めている」

「本当ですか?」

「ああ。頑張り屋で覚えもいいから、教えるのも楽しいと言っていたぞ」

「へへっ……」

 犀慎は直接褒めてもくれるが、聖辰にまでそんな話をしているとは思っていなかった。照れ臭くも嬉しい。

 はにかんだ笑みを浮かべるユエを微笑まし気に見ていた聖辰だったが、表情を改めると貞慎に言葉を投げる。

「ところで……犀慎は帰っているか?」

「……?今朝方帰ってきましたが……」

 犀慎が帰ってきているからには、評議は終わっている。犀慎はいつも真っ直ぐ帰って来るし、常ならば起きているかとでも問うだろう。不穏な事が起こったが故の問い掛けならば、まず犀慎の無事を確認しただろう。何があったのかはわからないが、今回犀慎は評議の後に何処かへ出向いたようである。

「そうか……」

「……何かあったのですか?」

 考えるような素振りの聖辰に、貞慎が問う。

深春しんしゅんの報告で、暁の……丁度、琥珀と翡翠の故郷の辺りの土の精がざわついているとあってな」

 深春は五家の一つ、春家の現当主だ。残る二家の当主は秋霜しゅうそう朱夏しゅかと言う。

見目は貞慎と同じくらいの年齢に見えるが、七十歳程年上らしい。純粋な龍にしても、琥珀達のような混血にしても、成長が遅い上にそれぞれに歳の取り方が違う為、外見から年齢を計るには幅が広くて難しい。ちなみに混血はまた違うが、純粋な龍は五歳くらいまでは人間と同じ速度で成長するが、その後急激に成長が遅くなり、千年程掛けて人間でいう十五歳くらいの姿になる。その後は百年で一歳くらいだ。聖辰と冬歓と犀慎は見目の年齢は同じくらいだが、聖辰は犀慎より百歳程年下、冬歓は犀慎より二十歳程年上らしい。

「……犀慎ならともかく、他四家の報告だという事を考えると、かなりの状況だと思うんだよな……」

 几帳面な犀慎であれば、小さな異変でも報告し、その後の経過も報告するだろうが、他はそうではない。その辺りを鑑みて、犀慎は自身で確かめに行ったのだろう。

「琥珀と翡翠だけでなく、姉上もあの村の人間達とは関わっていますし、子や孫だけでなく、当時の者達の中にもまだ生きている者がいるかもしれませんしね……。ああ、もう!本当にあんた等何やってんの?どんだけ姉上に負担掛けてんの?死なないけど一月くらい寝込む薬飲ませてやろうか?」

「……許可しよう」

「っ……!!」

 貞慎はユエには決して見せないような顔を冬歓に向けている。そして、決まり悪そうに視線を逸らしている冬歓の様に、聖辰が冷たい視線を投げ掛け、許可を出す。

 愛想のない不機嫌そうな顔が基本の冬歓が珍しく動揺を面に出しているが、聖辰の態度は変わらない。

「……私はお前と結婚はしたが、あの時の事はまだ許していないし、お前達のさぼり癖もいい加減腹に据えかねている。深春を放置しているのもそれが理由だ。いいか、冬歓。手前勝手なお前といつも気遣ってくれる犀慎なら、私は犀慎を取る。全てお前の身から出た錆だ。反省する気がないなら、離縁だからな」

 聖辰に惚れ抜いている冬歓は僅かに蒼褪めている。

 

 あの時というのは百年程前の事件で、犀慎が死に掛けたという一件だ。

 犀慎によると、冬歓は恋をして狂い、壊れたらしい。

 生まれて間もない聖辰を見て己の運命の番だと感じた冬歓は、聖辰が幼い頃から顔を合わせる度に愛を告げ、想いを乞い、他を考える隙を与えずに篭絡した。そこまではまだ良かった。

 塞主となる事が生まれた時から決まっていた聖辰は、君主たるべく育てられた。龍塞に住まう者、そして下界で暮らす龍達を気に掛け、導き、彼等の幸福の為に生きるよう教育を施され、成長した。だが、その事を冬歓は歓迎しなかった。他の者に心を砕かないで欲しい。己だけ見て欲しい。あまりにも強すぎる独占欲に、周囲が難色を示したのだ。

 周囲の者達も、立派に育ちつつあった聖辰が望むのならば、その想いを叶えてやりたいという気持ちはあった。だが、冬歓の行動は目に余るものだったのだ。公務にさえ口を挟み、時には割り込む。誰の諫言にも耳を貸さず、五家の次期当主としても相応しくないと、どんどん立場を悪くしていく幼馴染に、犀慎も気を揉んでいた。想い合う二人には結ばれて欲しいと思っていた犀慎は、随分と冬歓を諫めたり、宥め賺したり、周囲に執り成したりしていた。それを二百年は繰り返していた。ある時、それでも気に留めない冬歓に突き飛ばされ、流石にぷつりと犀慎の中で何かが切れたらしい。

 先に冬歓が突き飛ばしているので、先に手を出したのは犀慎だとは言い難いのだが、いい加減にしろと全力で殴り掛かったのだ。そこからは三日三晩の大喧嘩だった。人型で殴り合ったかと思えば、龍の姿で締め上げ、噛み付き、爪を立てる。それの繰り返しで龍塞の一部は破壊され、互いに血みどろのボロボロになっていたが、冬歓の方が身体が大きい分、龍の姿になった時の牙や爪も大きく、犀慎の傷は大きく、深かった。大凡の生き物は雌の方が生命力が強く、龍もそうなのではあるが、出血量の多かった犀慎の方が先に倒れた。それに止めを刺そうとした冬歓を全力で蹴り飛ばしたのは、聖辰だ。

 龍塞で一番強いのは、塞主という訳ではない。だが、聖辰は歴代でも一、二を争う強さを誇っており、当時は塞主ではなかったが、既に最強だった。つまり、冬歓より強かった。

 その聖辰が、まさに逆鱗に触れた怒りを見せたのだ。既にボロボロだった冬歓は、当然の如く一撃で沈んだ。

 龍はかなり頑丈な生き物だが、犀慎も冬歓も数日間は意識不明の重体で、犀慎に至ってはかなり危険な状態にもなったし、大きな傷も残った。その傷が犀慎と聖辰が男物を着ている理由でもある。聖辰は、意識が戻っても絶対安静の状態の冬歓に、目が覚めたと絶縁を言い渡し、その後回復して縋るのを徹底的に無視し、排除した。それを取り成したのは犀慎だ。聖辰は目が覚めたとは言いつつも、最早刷り込みのようにして冬歓を選んでいるからか完全に情がなくなった訳ではなかったし、追い詰められた冬歓を犀慎が危惧したのもある。

 そして、犀慎の助言を受け入れ、本心を何とか抑え込んで態度を改めた冬歓は、次期当主としても聖辰の相手としても認められ、今に至る。

 犀慎と聖辰に言わせれば大馬鹿が馬鹿になった程度だが、龍は基本的に大雑把なので何とかなったのだ。

 

 深春については、報告が遅れた上にこんな事態になっていた為、もし既に事が起こっていたらどうするつもりだったのだと叱責されると思っていたらしい。実際は、犀慎は深春を見て眉を顰めただけで、評議を優先させ、終わるなり暁へ向かった。

 皆、同じ事を繰り返してはいるが、自身が悪い事は知覚しており、その時ばかりだが反省もする。それでも繰り返すのは、結局甘えなのだ。面倒臭いとは思いつつも、面倒見が良く、いつも最後まで付き合ってくれる犀慎の事を慕っている。

 だが今回、犀慎は深春を叱りもしなかった。犀慎としては、一刻も早く詳細を知る為に叱る時間を惜しんだだけの事だ。聖辰が言ったように、自身が調査したのならともかく、他四家の報告であれば状況が差し迫っている可能性がある。しかし、深春はそう受け取らなかった。ついに愛想を尽かされたと落ち込んでいるのだ。

 ちなみに聖辰は放置していると言ったが、実際には「いつも迷惑を掛け通しのお前達より、志を持って学び、素直に犀慎を慕う琥珀と翡翠の方が可愛いに決まっている」と寧ろ追い打ちを掛けている。そもそもきちんと仕事をこなしていれば良かったというだけの事で、忍耐強い犀慎でも限界を超える事があるという事は、冬歓との一件もあって深春も知っている事である筈だ。たまには本当に反省しろという話である。


「……冬歓?」

「今後は……きちんと職務をこなします。離縁だけは……」

「いいだろう。二言は許さん」

「……はい」

 聖辰の本気を感じた冬歓は、死にそうな顔で懇願し、誓う。

 その様に貞慎は漸く溜飲を下げる。まだ冬歓と犀慎の一件について聞かされていないユエだけが不安げにしているが、知ればおそらく貞慎と同じような感情を抱くのだろう。

「……すまないな。話が逸れてしまった」

「いえ、躾は大事な事ですから」

 互いに多少の気が晴れた聖辰と貞慎は笑みを交わすと、表情を改める。

「……騒いでいるのは土の精だけですか?あの辺りは火山もあったかと思うのですが……」

「深春の報告では、な。その辺りも犀慎が調べて来ているだろうが……とりあえず、そちらは差し迫った状態ではないだろう。まあ、事が起こる事によって連動する可能性は否定出来んが……」

「あの……」

「うん?どうした、ユエ?」

 大事な話をしているのはわかっている。だが、この場にいる事を許されているという事は、知る事を許されているという事だ。

 ならば、きちんと理解するべきだと、ユエは気後れしながらも問う。やはり聖辰も貞慎も気にした様子はなく、聖辰が促してくる。

「その、土の精が騒ぐとどうなるんですか?」

「ああ……ユエ、俺が説明するよ。まず、怒っている場合と違い、騒いでいるという状態だから、精霊自らが何かをしようという訳じゃない。異変を感じ取って騒いでいる状態なんだ。そういう時は、山が崩れたり、地震――大地が揺れたりする」

「大地が揺れる……?」

 物心ついてそうならない年齢で龍塞に来たユエに、地震の記憶はない。想像がつかず、怪訝な顔をしている。

「そう。小さな揺れなら大した問題にはならないけれど、大きなものだと……家や木が倒れたり、大地が割れたり、山が崩れたりする」

「えっ……!?大変じゃないですか!!」

 想像しか出来ないが、危険だし、恐ろしい事だという事は感じられる。怪我人や死人も出るだろう。

 早く何とかしないとと焦るユエに、聖辰が穏やかに声を掛ける。

「ユエ、心配はわかるが落ち着きなさい。犀慎がひとまず睡眠を取っているという事は、まだ事が起こった訳ではない。そして、今日明日の事ではないという事だ。勿論、間もなくである可能性はあるが、準備をする時間はある筈だ」

「……前もって防ぐ事は出来ないんですか?」

「精霊が怒っているという事であれば、働きかける事も出来なくはない。だが、今回は違う。防ぐ事は出来ない。代わりに、事が起こった後に出来る事の為に、これから犀慎も貞慎も準備をするんだ」

「っ……!俺も!俺も、出来る事はありますか?」

 琥珀と翡翠の故郷の近くだという事は、二人の大事な人達も巻き込まれるかもしれないという事だ。琥珀も翡翠もいつもユエを気に掛けてくれる。龍塞に来てからずっと一緒に遊んでくれたり、色んな事を教えてくれたりしてくれている。犀慎と貞慎もそうだが、少し違う。犀慎達の扱いもあって、年齢差はあれどもユエの中では同じ子供の括りなのだ。ユエに兄弟はいなかったが、いたらきっとこんな感じなのだろうと思う。

 二人の大事な人達の為に、己にも出来る事があるのならと真剣な眼差しで訴える。

 そんなユエに、聖辰が片手で目元を覆い、唸った。

「心が洗われる……本っ当に、良い子だな……!!」

「でしょう?琥珀と翡翠もですが、うちにくる子はみんな良い子だと今朝も母と話していたんです」

「わかる、わかるぞ!全くもって同感だ。四家に爪の垢を煎じて飲ませたい……!!」

「だから姉上は、癒されたいと評議が終わると三人を連れて下界に下りて、美味しい物を食べさせるんです……」

「何だそれ!?私も分別のないさぼり魔の扱いに悩むより、素直な可愛い子達とお茶したい……!!」

「えっ?あの……」

 話がまた逸れている事を指摘すべきなのか、聖辰がそれほど疲れている事を心配すべきなのか。困惑するユエに、聖辰が微笑む。

「……大丈夫だよ、ユエ。まだ、こんな事を言っていられる程度には余裕がある」

「そう、今からそれでは持たないぞ。大雑把な龍より、お前の方が余程頼りに出来る。忙しくなるからな。手伝ってもらうぞ」

 聖辰の愚痴はおそらく半分くらいは本心だが、張り詰めているユエの緊張を解す意味もあったらしい。

「はい……!」

 意気込みは衰えないが、少しばかり落ち着きを取り戻したユエは、一つ頷いた。


 犀慎が起き出してきた来たのは、太陽が中天に差し掛かろうという時だった。

「……聖辰様、お待たせして申し訳ございません」

 聖辰の来訪を知らされていたのだろう。髪は作業する時のように一つに束ねられているが、服装は宮殿に上がる時と同じく高官の正装だ。

「確認せずに押し掛けたこちらが悪い。気にしないでくれ」

 聖辰達は、芙蓉が造り玉蘭が引き継いだ花で溢れた庭の一角の東屋あずまやに場所を移し、花の香りのする茶を味わっていた。こちらは茶が趣味の玉蘭の手製である。

「それで、どうだった?」

「……二月以内、かと思います。地震の影響を受けないとは限りませんが、火山の火の精は落ち着いております。気に掛けるには至らないかと。一応、黒鉄くろがねには異変があればすぐに知らせるように伝えております」

 黒鉄とは、琥珀と翡翠の父である龍だ。琥珀と翡翠の故郷である村の近くにある湖に近い大きな池に住んでいる。村に住んでいた二人の母と恋に落ち、二人が生まれたのだ。

「自然の事だから、あの地に住まう黒鉄はともかく、お前が関わるべき事ではないのだがな……。琥珀と翡翠の故郷であれば、放っておく訳にもいかないか」

「……ありがとうございます」

 縄張りがあったりする訳ではない。単純に、一つ一つを気に留める事もないありふれた事であるというだけなのだ。災害が起こり、人が死んだとしてもそれはそういうもので、自然な出来事だ。

 基本的に龍は自然の流れには逆らわない。番であったりという、特別な執着を傾ける者であれば違うが、それ以外がそのような事になっても受け流す。ありふれた出来事をいちいち気に掛けていては身が持たないからだ。

 得た知識を人の為にも役立てたり、ユエのような子供を哀れみ、情を傾ける慎家の者達方が珍しい。だからこそ、その優しさ故に傷付く事を聖辰は心配している。

 だが、関わった者を見捨てろとも聖辰は言わない。そうすればそうしたで気に病む事もわかっているし、何よりそれも犀慎を形作る要素である事を知っているからだ。

 だからこそ、本来関わるべき事ではないのだという苦言のような免罪符のような言葉を告げるのだ。

「深春に言っておくからあいつを使え。犀慎に愛想を尽かされたと思って落ち込んでいるからな。お前に言われれば働くぞ?」

「深春が落ち込む……?どういう事です?」

「いつもなら叱るところを、今回は放置しただろう?それで、愛想を尽かされたと思っているらしい」

「えっ……?単純にどちらを優先させるべきかを考えただけだったのですが……まさか、叱らない方が堪えるとは……」

 予想外の事だったのだろう。今までの事は何だったのかと、犀慎の方が落ち込んでいる。

「これまでがあってこそ、だろう?無駄じゃなかったという事だ。まあ……落ち込むくらいなら初めからきちんとやれという話だがな」

「ぐっ……」

 冷ややかな聖辰に、再び冬歓が傷を抉られている。気付きながらも聖辰はそれを黙殺し、再び茶に口を付ける。

 淹れられた茶を飲み干すと、聖辰と冬歓は帰っていった。

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