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龍の箱庭  作者: 遠戸
17/19

17.実感

 犀慎は身体のあちこちに残っている大きな傷痕を本当に気にしていないらしい。

 犀慎が貞慎の薬を試し始めて二月ふたつき余りが過ぎている。

 傷の大きさに比例して薬の消費も早い。既に何度か追加で作り、ユエも要領を得て来た感がある。

「……犀慎様。ここ数日、気の所為なのかどうか考えていたのですが、傷痕の皮膚が少し柔らかくなって、滑らかになって来た気がします」

「ああ、私も触れてみた時にそう感じた。見た目はどうだ?」

「見た目は……気持ち薄くなってきたかもしれません。ですが、はっきりと感じられる程ではありません」

「うん。だが、二月程で変化を感じられるとは思わなかった。間違いなく貞慎や父上が試した傷よりも大きさも深さも酷いし、百年経っている。正直、実感するのはもう少し先だと思っていた。予想よりも随分早い。……人間の感覚で、諦めていた傷に変化が表れるのに二月というのはどう思う?」

 寿命の違いか、時間の体感も龍と人間では随分異なる。そういう意味でユエの感覚は非常に参考になると慎家では重宝されている。

「……諦めていたものが二月で変化するというのならば良いのではないでしょうか?しかも、犀慎様のこの傷に対してです。もっと小さな、浅い傷ならば、更に早いかもしれませんし……」

「それもそうだな。私の傷で確かめたいのは、どの位掛かるかよりもどこまで癒えるかという部分だろうしな。無論、早く効果が表れるに越した事はないが」

「犀慎様はどの位でわからなくなれば良いと思われますか?」

「私の感覚か?私の感覚ならば……二、三十年位かな?毎日塗る、というのが面倒になりそうだ。気になっているというのならば、それでも励むだろうが、効果を試しているだけだからな……」

「それでも二、三十年続けられそうなんですね……というのが、俺の感覚です」

 人間にとっての限界まで生きても百年程度だ。人間が二、三十年続けるとなれば、面倒を通り越して最早意識して行うものではない日常生活の一部となっている事だろう。

 対して龍にとっては月単位、下手をすれば数週間、数日程度なのかもしれない。

「人は待てないか……」

「……はい。特に年頃の女性達は一刻も早くという気持ちだと思います」

「成程、そういうものか」

 性差による身体能力の違いだろうが、争い事となった場合に駆り出されるのはほぼ男性だ。その為か、傷を負えば男性よりも女性の方が気にする傾向にあるし、周囲もそうだ。男性であれば気にしないどころか褒め称す事さえある癖に、女性であれば傷物と称して貶める。ただでさえ気にしている所にそんな扱いをされ、敏感になって心を擦り減らす。

 無論、男性にも傷を気にする者はいるが、圧倒的に女性の方が気に病む者が多い。

 更に婚期がどうのと当人も周囲も気にする年頃の娘達は、間違いなく何十年など待てはしないだろう。

 龍程ではなくとも人間よりは数倍長生きする混血であっても、人の中で数十年を生きて来た琥珀と翡翠のお陰もあって、ユエは人間の感覚を忘れずにいられた。それが役に立ってはいるのだが、時々こうして違いを思い知らされる。

 それにしても、同じく年頃の女性の筈の犀慎の反応である。

「……犀慎様はこの傷について、どう思われているのですか?」

「どう思っているか?そうだな……もう少し上手くやるべきだったとは思っている」

 予想とは少し違う返答にユエは戸惑う。

「どういう意味でしょうか?」

「今にして思えば、あの場には他に誰かがいた訳でもなかったんだ。父上達の言う通り、周囲へ被害が及ぶ前に制圧すべきだったのかもしれないと反省している」

「いえ、そうではなくてですね……傷痕が残ってしまった事をどう思われているのかを伺いたいのです」

 確かに傷を負う事になった理由ではあるが、ユエが聞きたいのは残る傷を負ってしまったその心情である。

 傷痕を見て醜い等の卑下するような劣等感のような感情を犀慎は抱かないのだろうか。

 改めて問えば、不思議そうな顔をされた。

「傷痕が残った事?私の自業自得だろう?短気を起こした結果だと受け止めている」

 誰もがそう割り切れるものではない、という感想は違う気がする。

 おそらく、犀慎は本当に気にしていない。ついでに二百年頑張った犀慎は短気ではない。

 貞慎もそうだが、自身の痛みに無頓着な犀慎は少々感覚が麻痺しているのではないだろうか?

「おそらく傷痕を気にする方々がそれに対して抱いているのだろう、醜いだとかそういった感情はないのですか?」

「……貞慎が薬を持ってきた日に少し言っていたが、新たな薬を作る時はまず己で試すものだ。傷があったのだろう場所を見せられただろう?」

「はい」

「今回は傷痕に対するものだから、元々あるもので試しているが、自ら新たに傷を作る事もある。だというのに気にしてもな。聖辰様と母上とお婆様が気になさるから男物を着て隠すようにはしたが、私自身はどうでもいい。今、こうして役に立ってもいるしな」

 新しい薬が出来れば助かる者が増える。だが、いきなり患者で試す訳にはいかない。まずは自らの身体で試す、という理由は理解出来る。

 どうやら犀慎は年頃の娘という意識よりも薬師としての意識の方が強いらしい。それはそれでいいし、当の犀慎が傷痕を気にしないというのならば、ユエが口出しする事ではないと思う。

 しかし、傷を負う事を躊躇わなくなっているのではないか。

 薬を試す為ならば、加減はするだろう。だが、それを繰り返してきた事で感覚が麻痺してしまってはいないだろうか?冬歓との一件の時も傷が残る事など考慮せず、ただ命に関わるか否かで判断し、この程度なら大丈夫を繰り返して命を落としかけたのではないかという考えが頭を過った。

 死んでも塞主になりたくないという気持ちも勿論あるのだろうが、流石に一撃で命に関わるような傷を負うのであれば、加減するという思考には至らないのではないか。龍の頑丈さなどユエには測れないので、致命傷がどの程度のものなのかわからない。だが、犀慎の身体に残るの傷の多さにそう感じた。

 最早、気が気ではない。

「……俺、ちょっとだけ、礼慎様や智慎様も交えてお話ししたくなりました」

「どうしたんだ、突然……」

 心と同じだ。痛みに慣れ過ぎて感覚が麻痺してしまっているのだろう。

 そしてそれは、犀慎と貞慎だけでなく礼慎と智慎もなのだろうと思う。

 ユエの心情には思い至っていないらしい驚いたような顔に、切実な思いを言葉にする。

「犀慎様、二度とこんな傷を負うような事はなさらないでください。俺は、最後は犀慎様に看取っていただきたいです」

「……いずれ訪れる日の覚悟はしている。だが、まだあまり考えたくない事を言わないでくれ」

 幾分かの非難の宿る真剣な表情と声。

 軽々しく口にした言葉ではない事は犀慎にも伝わっている。真剣な言葉だからこそ、非難は含んでいても叱りはしない。

「……すみません。でも俺は、最後の時まで犀慎様と一緒にいたいと思っているんです。俺が生きている間にそんな事になる事はないだろうとは思っていますが、もし犀慎様が礼慎様や智慎様のように龍塞を離れる事があるとしたら、俺も付いて行きたい」

「ユエは龍塞にいたいのではなかったか?」

「それは、そこに犀慎様がいらっしゃる事が前提です。犀慎様がいらっしゃるのなら、下界でも構いません。ずっと一緒にいたいんです」

 貞慎に言われた事を意識した訳ではない。気付くと同じ言葉を重ねていた。恋を告げるというよりは、ユエの一番根っこにある言葉だ。

 以前、秋霜が犀慎に気持ちを伝えるべきだ、そういう時が来ると言っていた。その時思っていたものよりかなり遠回しで、目的も恋心を伝えるというよりは約束をしがらみにこの世に繋ぎとめたいという感じだ。だが、今がその時なのかもしれない。

「……本当だったのか」

「……?何か仰いましたか?」

 犀慎ならば、話の流れ的にも自分よりも長生きして欲しいと受け止めるだろうと、ユエの想いには気付かないだろうと思うから言えた言葉だったが、犀慎には何か感じる所があったらしい。

 だが、小さな呟きはユエには聞き取れなかった。

冬歓の言葉とそうであれば腑に落ちるこれまでを思い返す事でユエの想いを知ったつもりであったが、どこか半信半疑であった。しかし、龍塞で暮らす事になった経緯もあって、下界で暮らす事に抵抗のあるユエが、犀慎が行くのなら下界でも付いて行くと言い切った。表情にも躊躇いなどは窺えない。

 ――ああ、どうやらユエは本当に己に焦がれているらしい。

 しかし、己が心も掴めない今はユエの想いを知った事はまだ胸に止めておくべきだ。

「……私もユエのいない生活は寂しい。修行で下りているだけで戻って来るとわかっていても寂しいからな。ユエが龍塞での生活を望んでくれたからいいが、下界に下りる事を選んでいたら、心配で何も手に付かなくなって、他四家と同じ事になっていたかもしれん」

「……聖辰様の悩みが増えそうですね……」

「そうだな。朱夏にも同じ事を言われたし、朱夏から話を聞いたらしい聖辰様からも、それは困るからユエには龍塞に残る様に言って欲しいと言われた。まあ、残るのならばそれはユエの意思でなければならないと言って断ったが」

「……聖辰様にご心労をお掛けしてしまいましたね」

「ユエの師としてそこは譲れない。それは聖辰様もわかっておられる。それに結局、残る事を選んだんだ。気にしなくて良い」

 ユエを安心させるように笑むと、犀慎は数日前の事に思いを馳せる。


 約束の一月ひとつきが過ぎ、聖辰が機会を与えたかったらしい深春との話も済んだ。

 いつ聖辰に話を聞こうかと思っていたが、犀慎から会いに行けば独占欲の塊である冬歓が面倒臭い。そろそろ評議も近いし、どうせ他四家を待つ事になる。その時で良いだろう。

 犀慎はそう考えていたが、聖辰の方が待ちかねていた。

 深春と話した翌日にはやって来て、こうして場を設ける事になっていた。

「どうだ、犀慎?得るものはあったか?」

 妙に気合が入っている聖辰に、一月前に問うたのはこちらではなかったかと思いながら口を開く。

「そうですね……とりあえず、龍として冬歓や深春の在り方が一般的だというのならば、私には龍と番う事は無理です。誰かを想うという事に対して、考え方が根本的に違う。父からは嫌悪感がなければ即答は控える様に言われておりましたが……嫌悪はなくとも無理だと感じました。理解出来ない。母も祖母も、愚痴も我儘も言いますが、譲れない部分では引きます。きちんと父や祖父を尊重出来る。何が違うのか私にはよくわかりません」

「冬歓は馬鹿だから何とも言えん部分があるが……深春は己の欲が強い時点で所詮はその程度だったという事だ。まあ、龍は己が欲に正直だという事は否定出来んがな」

「……まあ、冬歓は壊れていますからね。聖辰様が本気で手綱を握ろうとしてくださっているので今は大分良いですが。それでも私からすると、よくあれを選んだなと思います」

「……私も馬鹿なんだろう。困りもするが、それでもどこかで嬉しいと感じているからな」

「それ、絶対に言わないでくださいね」

「言わん。誓おう」

 真顔の犀慎に聖辰も真顔で頷く。同じ事を繰り返されては困るのは聖辰も同じである。

「……それはさておきだ。私も他の者達も、その冬歓と同じものの片鱗を犀慎に見た。犀慎にとってユエは特別だと皆が思っている」

「冬歓と同じもの……?」

 確かに、ユエが下界に下りれば心配で何も手に付かなくなりそうだという自覚はある。だが、それに関しては未遂であるし、これまでを思い返してみても冬歓程の馬鹿は仕出かしていないと思う。片鱗とはどの辺りの行動の片鱗なのか。

 あの狂気の片鱗を見たと言われているのだ、眉間に谷も刻まれるというものだ。

「お前が慎家でユエを引き取ると決めた時の一件だ。お前が精霊達に執り成す事もなく龍塞に連れて来た事に、皆が疑問を感じたんだ。お前らしくないと。元凶はともかく、他の連中にさえやり直す機会を与えないなんて、普段のお前ならばそこまで思い切れない。幾ら長い付き合いだとはいえ、あの大馬鹿の冬歓に二百年も付き合い、死に掛けて尚、未だに切り捨てない犀慎がと、私や他四家、先代達までもが驚いた。ちなみに礼慎殿達も同意見だったぞ。少なくともユエは犀慎の逆鱗相当と言うのが皆の共通認識だ」

「私だって頭に血が上る事はありますが……」

「ああ、皆知ってる。冬歓の時に思い知った。だが、それでもお前は冷静さを失っていなかった。お前、一度も術を使わなかっただろう?」

「気付いておられましたか……」

「気付いてたよ。そもそも、黄龍であるお前が冬歓と相討ちな訳がないだろう」

 ユエには、得手不得手はあるが今では大して力の差はないと言ったが、実際には違う。黄龍はあくまで黄龍なのだ。

 だが、犀慎に限らず慎家は力比べには興味がない。寧ろ、力を持つ事をあまり知られたくはない。

 完全に正気でなかった冬歓は気付かないだろうと思っていたし、実際にそうであった。そして、見ていた者達も三日三晩である。塞主家と五家は防衛に回り、民達は巻き込まれないように避難させられたので、誰も最初から最後まで見ていた者はいない。聖辰があの時の犀慎と冬歓を如何に気に掛けていたかという事だ。

「我慢の限界を迎えたのだろうあの時でさえ、冬歓や龍塞の事を考えていたのだろうお前が、ユエの村の者達に対しては未だに血が上ったままだ」

「……確かにそうですね。先日の事もあって、間違っていたとも思っておりません。言われてみれば、命をたっとぶ薬師としてはあるまじき事でしょう」

「誤解しないで欲しいのだが、いつもの犀慎ならば違う行動をしていただろうというだけで、私は別に犀慎を責めている訳ではないし、あの村に関しては因果応報だと思っている。先日の話を聞いて、あんな良い子にと、ますますそう思うようになった。私はお前にとってのユエがどんな存在なのかを自覚して欲しいだけで、どうでもいい事で悩んで欲しい訳ではない。寧ろ腹が立つから悩む事を禁じる。捨ておけ」

 心底そう思っているのだろう渋面に犀慎も苦笑するしかない。

 聖辰も犀慎ならば、知覚すれば己を責めるだろう事を失念していた。だからこそ、本心ではあっても常ならばしない塞主としての命で縛る。

「おそらくお前には、これまでの経験や冬歓の愚行の所為で恋愛に対して強い忌避感があるのだろう。それに加えて他四家に起因するのだろう責任感。それらが傍から見れば明らかな執着を否定し、師としての感情にすり替えているように、いやそう思い込もうとしているように思える。幼い頃からユエはお前にべったりだ。選べる選択肢はいくらでもあるのにな。もっと広い世界を知って欲しいというのも本心なのだろうと思う。だが、お前は冬歓とは違って立ち止まって考える事が出来る。だからこそ、ユエを縛り付ける事を恐れて、そうではないと否定しようとしているように見えるんだ。執着を無意識では知覚しながらもユエの為にそれでいいのかと手放そうとしているように感じる。そして、ユエを大事にしようとするあまり、お前自身を考えに入れていないような気もする。ユエの幸せにお前の存在は不可欠なのだというのにな」

「……確かにこうあろうと考えている己とは反対と言っていいような事をしているのに、その自覚さえないのは明らかに異常です。その原因として根差しているものが執着と呼ぶものなのかどうかはまだ判断が付きませんが、逆鱗相当という言葉は否定出来ません。聖辰様の仰る通り、未だに頭に血が上ったままですから。色恋に対する忌避感や他四家に流されてはいけないという意識が本心の知覚を妨げているという事もあり得るだろうと思っています。ただ……」

「ただ?」

「お気を悪くされないで欲しいのですが……冬歓と同じという言葉も否定出来ないのが、正直堪こたえます」

「ああ、うん。それはあいつが悪いんだから気にしなくて良い」

 苦虫を噛み潰したような苦渋の表情の犀慎に聖辰はあっさりと同意する。

 散々苦労させられた上に死に掛けた原因と同じと言われて、同意したくないのも尤もだ。

「それにお前の場合はお前だから違和感を感じるだけで、他であれば気にもならない事だ。冬歓程の馬鹿を仕出かしている訳ではない。あまり気に病むな」

 そう、これが他四家ならば疑問すら感じない。わかる、同じ事をするかもしれないと同意するだけだろう。

 苦笑する聖辰に犀慎は問う。

「聖辰様、私はユエをどうしたいのでしょう?幸せになって欲しいと思っている事は確かなのですが、私の思い描いていたユエの幸せとユエの考える幸せは違うのでしょう。聖辰様のお言葉で己が不明を恥じました。でも、同じ想いではないのであれば、応えるべきではないという考えは間違ってはいない。そして、こんな私ではユエを幸せには出来ないとやはり思ってしまう」

「……お前と冬歓を足して割れば丁度いいのかもな。冬歓は感情に素直過ぎるし、お前は自制して考え過ぎる。極端過ぎる」

 慎家の『慎』は初め『真』だったのだと聞く。本来塞主となるのは慎家の初代だった、真の塞主は慎家なのだという意味で先祖が贈ったらしい。だが、慎家の初代はそれに『心』を加えて、真の心、赤心を持って塞主に仕えるとした。

 慎家の初代もこうだったのだろうか?誰かの幸せを考えて尽くし、己が事は考えに入れない。龍塞は豊かになるだろうが、塞主となった初代が幸せになれただろうか。

 だからこそ、幸いにして同じ塞主の色を持って生まれた弟である先祖は、おそらくなりたくもなかった塞主となり、兄が臣籍に下る事を許したのだろうか?

 聖辰はそんな事を考えた。あながち間違ってはいないだろう。

「……お前、まだそんな事を言っているのか?いい加減、逃げるのは止めたらどうだ?」

 聖辰の思考を遮ったのはさっきの今である冬歓だ。

「冬歓!?」

「……逃げている、とは?」

「思考が逃げている」

 先日は冬歓が先走った。それで動いた部分は確かにあるが、繊細な事柄だけに慎重にいきたい聖辰としては、邪魔をされたくない。

 その為に置いて出たのだが、追って来たらしい。追って来る暇があるなら、評議の準備をして欲しい。

 だが、犀慎の方は違うらしい。

「起こってもいない事に気を取られて大事な事を見失うのは馬鹿のする事だ。ユエの想いとお前の心にきちんと向き合え。理由を付けて逃げるな」

「私の心……」

 聖辰が犀慎の事情も把握して慎重な態度を取るのとは違い、冬歓には遠慮がない。

 冬歓は聖辰への狂気を飼っている。犀慎の知らないものを知っている。正反対だからこそ、足りない何かを得られるかもしれないと犀慎は耳を傾ける。

「……ユエの事は可愛い。だが、私はお前のように他の何もかもを捨ててでも欲するような執着はおそらく持っていないし、これからも持てない」

「個体差がある。翡翠とその相手は俺とは違ったんだろう?」

「お前程ではなかった。だが、周りが見えなくなっている部分は少なからずあった」

 犀慎が間近で見て来た恋愛がそうであった為か、恋情とは周囲が見えなくなる程の執着だと認識しているらしい。

 ユエに何かあればその片鱗を見せるだろうとの村の一件の話で感じてはいるが、そのような状況は皆が避けたいと思っている。それに、そういった特殊な状況の話ではない事はわかる。

 犀慎は冷静だ。冷静に己を見詰めている。だが、肝心な部分で目を逸らしている。

 自身が当事者となっているというのにその意識の薄い犀慎に冬歓は苛立ちを感じる。

 確かに客観視が必要な時はあるだろう。自身がその典型だ。だが、今、犀慎に必要なのは主観だ。当事者としての意識だ。

 犀慎にとって瞬き程の時間でユエは一生を終える。今、何とかしなければユエがあまりに哀れだ。

「……想いを知って、嫌悪を感じたか?」

「それはない。驚きはあったが……」

「ユエと夫婦めおとになった姿を想像してみろ。嫌悪や違和感は?」

「……今までとあまり変わらないような気がするが……」

 おそらく父母の姿を想像しているのだろう。だが、犀慎の知っている父母と冬歓が想像してみろという姿には差がある。

「想像が足りていない。恋人ないし夫婦には男女の接触があるだろう」

「あっ」

 言われて漸く思い当たったらしい。真面目に考える犀慎には照れなどは窺えない。ただ、次第に難しい顔になる。

「……ユエはいつまで経っても可愛いままだから、そういう姿が正直想像出来ない」

 確かにユエは当人が思っている程には擦れていない。純粋だ。寧ろ、犀慎を貴ぶあまりに潔癖な部分があるように周囲には感じられる。残っている傷痕を考えれば怯むのもわからなくはないが、犀慎の無防備に晒した肌を前に欲より傷の事を考えているのだろうと感じさせる、傷を見て泣いたという話に、犀慎のこの暢気さだ。色を感じさせる事なく、ただ傷に薬を塗っているのだろう。

 正直、冬歓も自身で口にしておきながら、その言葉に違和感を感じ始めてしまった。心が通じても、関係は進むのだろうかという考えが頭を過る。

 だが、潔癖さは己の内にある欲の裏返しの筈だ。おそらく間違っていないし、ここで冬歓が惑えば犀慎はまた答えから遠ざかる。

 そもそも成人して数年、見た目は犀慎と同じ位の年齢に見えるし、とうに身長は犀慎を越えている。頭一つ分は違うし、かなりの長身である冬歓に迫る勢いだ。声も幼い高さはとうに失われている。 中身の可愛らしさは確かに残っているが、もう可愛いという区分ではないだろう。

 それを可愛いと言ってのけるのは、犀慎の方に幼い子供という意識が残っている事の証左だ。なかなか深層意識は変わらないものらしい。

 幼い頃から見守って来たという仕方がない部分もあるのだが、父が礼慎に苦労させられたと言っていたのを思い出して納得する。これは血だ。

「面倒臭いな、慎家……」

「お前が言うな」

 冬歓の呟きには聖辰から即座に反応が返った。

 内容に差はあれど、その面倒に犀慎は二百年付き合ったのだ。冬歓が言って良い台詞ではない。

「まあ、冬歓は直截過ぎるが……わかりやすくはあるかもな。例えば……ユエに抱き締められたとしよう。嫌悪を感じるか?」

「幼い頃は抱き付いてくれた事もありましたし、今はあまりさせてくれませんが、私が抱き締めた事は何度もあります。嫌悪など感じる筈がありません」

「……ああ、そうか。確かにそうだな……」

 自信満々な犀慎に例えを誤ったと聖辰は自省する。

 冬歓に同じく、聖辰も犀慎とユエの心が通じたと仮定したとしても結局今まで以上の接触が想像出来なかった。ユエの繊細な想いを汲み取れない犀慎、そんな犀慎に自制するユエという図しか浮かばない。

 そんな中でもこれ位ならあり得るかもしれないと思った行為だったのだが、ユエは幼い頃から慎家にいるのだ。何度も繰り返した行為から恋愛というものへ繋げるのは、犀慎には難易度が高過ぎる。

 聖辰はそう考えるが、冬歓は諦めない。

「以前はともかく、ユエの想いを知った今で想像しろ。ユエはおそらく死ぬ程緊張している。体温や鼓動の速さを感じるだろう。震えてさえいるかもしれない。そんなユエに何を思う?俺が抱いたところで何をしているんだだろうが、ユエならば違う筈だ」

「……何故私なのか、が一番だな。そもそも私は誰かを恋うた事がない。個体差と言われれば更にわからない。お前や聖辰様の言葉でこれまでの違和感に一応納得出来はしたが、当のユエの態度からそういった感情を感じていない。本当はまだ半信半疑なんだ」

 そこに根差したものが何なのかはさておき、犀慎にとってユエが特別なのだろう事は聖辰に言われて認識した。感情に流され、在るべき己を見失っている自覚もなく十年以上を過ごしてきた事に気付かされた。

 だが、ユエの気持ちでさえ実感が伴わないままなのだ。

「お前が鈍過ぎるだけだ。寧ろ、俺の方が何故お前なのかとユエに問いたくなってきた……」

「……ユエの気持ちを実感出来ないと犀慎の情緒も育たないのか……?根が深い……」

「ユエの時間は短い事は承知しております。意見を求めたのも私です。ですが、今までが今までです。急かされても整理も精査も追い付かない。頭で理解しても心が追い付かない」

 言い訳がましくもあるが、それが犀慎の本音だ。

「……頭で考えるものではなく、感じるものだぞ」

「お前はそれが過ぎるんだ。しかし、犀慎も考え過ぎて迷走する。本当に犀慎と足して割れれば程良くなりそうなんだがな……」

 しかもユエもユエで謙虚が過ぎて卑屈になりがちだ。過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったものである。

 とりあえず、犀慎にはもう少し時間が必要なのかもしれない。そして、ユエにも行動を促さなければなるまい。

 己が事だけやっていたいという龍の性は聖辰にも無論ある。玉蘭や芙蓉のように他の恋路に盛り上がる性質ではない聖辰には、本来は勝手にやってくれという案件だ。冬歓を諫めはするものの、正直面倒だと思いもする。

 本当に犀慎はよく二百年も付き合えたものだ。

 慎家の面倒見の良さがあって、龍塞は成り立っている。


「さあ、もう遅い。そろそろ休みなさい。今日もありがとう、ユエ」

「はい。おやすみなさい、犀慎様」

「ああ、おやすみ」

 犀慎はユエの気持ちを感じ、本当の意味でそれを知った。

 己はユエのように、出来れば避けたい生活を選んででも、ユエと共に在りたいか。何が何でもという情熱があるのか。

 確かめなければならない。だが、それを怖いとも感じている。

 答えを出せば関係が変わる。己も同じようにユエを求めているのならまだ良い。だが、そうでない場合は、ユエを手放す事になるだろう。知らない振りをするには情を移し過ぎている。

 今を失うのが怖い。

 本当に、己には向かない。

 犀慎は笑顔の下で自嘲した。

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