15.困惑
「……あれはもう、そういう事だと思うんだがなぁ……」
「どうされました?」
何事かを考えながら茶を口にした最愛の伴侶の呟きに、冬歓は問う。
正直、共に在る時に他の事は考えて欲しくない。否、いついかなる時でも己以外の事になど思考を割いて欲しくない。それが本音だ。
だが冬歓も百年前の失敗で学んでいる。感情のままに振る舞った結果、犀慎を殺し掛け、聖辰に絶縁され掛けた。やり直す条件として聖辰が許可する時以外は、五家の当主として在る事を言い渡されたのだ。うっかり表出させてしまう事も度々あるが、現在の所は許容範囲内であるらしく、叱責は受けても絶縁はされていない。
「……犀慎だ。相変わらず、ユエの想う相手が己だとは気付いていないが、相手は龍だと教えたんだ。そうしたら……己にも心の準備が必要かもしれないと言っていた。まあ、人間と龍では寿命も違うし、人間はあまりに脆い。確かに心配ではあるだろう。だが、心の準備とは何だ?ユエが誰かを選ぶ事に対する心の準備?相手もわからないのに受け入れられるかの心配なんて、もうそれは嫉妬じゃないのか?他に託せないのならば、それはもう独占欲だ」
「俺はその場に居た訳ではないので、断言出来ませんが……少なくとも、ユエと他の者相手では犀慎の様子が違うのは確かです。聖辰様がそう仰るという事はそういう感情が滲んでいたのでしょう?」
皆、犀慎がユエを慎家に迎え入れた時からユエは犀慎の運命だと思っている。でなければ薬師として命を貴ぶ犀慎が、理不尽な目に遭って殺されかけた子供に幾ら情を移したからといって、やり直す機会も与えずに村一つを見捨てる事など有り得ない。
犀慎はユエを手放したくないと思っているし、それを自覚している。だが犀慎は、それはユエの未来を狭める事になると決して口にしない。あくまで保護者としての感情であるならば、それでいい。だが、おそらくそうではない。
「……少し前にユエが生まれた村の様子を見に行ったのは知っているな?」
「はい。あの時は犀慎がかなり神経質になっていましたから」
「もしユエに何かあれば、彼の村を滅ぼしてしまうかもしれないと犀慎には言われていた。まあ、今のユエに只の人間が何か出来るとは思わないし、犀慎が我を失うような事にはならないだろう。確かに幼い頃からユエを見て来たんだ、保護者としての感情も否定はしない。だが、今のユエに手出し出来ない事などわかっている筈なのに、冷静に判断出来ていない。私の言葉に同意は返していたが、あれは表面だけだった。お前も知っているだろう?慎家が綺麗に笑う時は絶対に逆らってはならないと」
「……よく知っております」
犀慎を殺しかけた後、冬歓は礼慎と智慎からそれはもう綺麗に微笑まれたのだ。その後を思い出すと、冷や汗が背を伝う。
きちんと治療はされた。だが、化膿止めや痛み止めは悶絶する程に酷い味だった。現在、基本的に処方されている改良された飲み易いものではなく、効果は確かだが、その味を知っている者は大の大人でも躊躇うものだ。しかも、それは口に残り、暫くは何を食べても飲んでもその味がする。漸く抜けてきたと思えば、再び飲む時間だ。
聖辰からの絶縁宣言に加えての味覚が破壊されるのではないかという薬は拷問に等しいものだった。
その時、冬歓は初めて知ったのだ。龍塞の者は全て、慎家に命を握られているのに等しいのだと。
無論、慎家の者はそんな事はしないだろうとも思っている。
「犀慎もあの時のように我慢の限界を超える事がある事は知っている。それでも、犀慎は冷静さを残していた。あの時、犀慎が最後まで術を使わなかった事には気付いているか?」
「言われてみれば、確かに……」
人と同じ姿の時は拳や足が飛んできた。龍の姿の時は逃がさぬように爪を引っ掛けて締め上げたり、噛んだりされた。だが、術を浴びた覚えはない。冬歓は周囲や犀慎の事も構わず術を使っていたのだというのにだ。
その状態でのあの結果。犀慎が本気であれば、冬歓は死んでいたのかもしれない。
「犀慎は、本気に見せかけてきちんと加減していたんだよ。薬師としての意識が働いているんだろうが、あいつは一度だって本気で戦った事はない。本当にユエが犀慎の運命だとすれば、お前のように理性をなくした犀慎が、もし何かの切っ掛けで暴れでもしてみろ。手加減してあれの犀慎を止められる自信はない」
そもそもが戦闘能力も高い種族だ。下界や一般的な龍達は興味のない者は学ばないが、有事の際の為に塞主家と五家は戦う術を学ぶ。犀慎も当然、幼い頃から武術も術も訓練はしている。だからユエに教える事も出来ているし、確率的には慎家が最も力を振るう事は多いのだが、犀慎は力比べには興味がない。龍の中でも能力の高い五家の、しかも当主である為に一般的な龍を制圧する事は容易く、最低限それが出来れば良いと考えている節がある。
そんな犀慎が暴走した時の事など、誰にも想像がつかない。
「そういう犀慎だからこそ思う。感情に呑まれている犀慎など、正直犀慎らしくない。付き合いが長いからこそ、そう思う」
「玉蘭殿も仰っておられましたが……逆鱗相当、でしょうね。だというのに、それ程に感情を傾けている事に自覚がないというのが不思議でなりませんが……」
「傍目には明らかに犀慎らしくないというのに、犀慎自身がそれに気付いていない。元々慎家は色恋沙汰は不得手だが、犀慎に至っては忌避感を抱いている可能性さえあるしな」
「忌避感?何故です?」
あの事については冬歓には言えない。
だが、他にも一因となっているだろう事がある。
「私達の所為に決まっているだろう。あの時のお前の姿は、ああなる訳にはいかないと犀慎の意識に刻み込むのに充分な醜態だった。それで無意識に否定し、益々犀慎が縁遠くなってしまっている可能性が否定出来ない」
それを言われると、冬歓は何も言えない。
犀慎は真面目だ。責任感もある。評議の時の様子からして、己が何とかしなければと常に己を律している。事実、犀慎が冬歓達のように仕事を放り出してしまえば、以前聖辰が危惧したように龍塞は荒廃するだろう。
「だからこそ、私達が犀慎の想いを見極め、自覚を促してやらねばならん。罪滅ぼしにもならんがな」
犀慎は命を取り留めたし、後遺症のようなものもない。だが、大きな傷が残った。犀慎自身は然程気にしていないのだが、聖辰の方が堪えた。その様子を見て、回復して以降の犀慎は傷を隠すように男物を身に纏うようになり、聖辰も違和感を薄める為にそれに倣った。
「……わかりました」
冬歓も多少の反省と感謝はしている。
犀慎のお陰で、今こうして聖辰の傍にいられるのだ。借りは返すべきだ。
だからと言って、無闇に踏み込めば悪手となろう。ただ今は機を待つしかない。
その日、ユエは犀慎と共に畑仕事をしていた。畑と言っても薬草園ではなく、一般的な畑の方だ。
慎家の土は薬草園は勿論、庭や普通の畑の土も良い。精霊が宿っているからだ。
竈に火の精霊が住んでいるように、龍塞の各所に色んな精霊が存在している。ユエが最初の方に契約した精霊達は皆、龍塞に住む精霊達だ。土にも勿論精霊達が宿っているのだが、慎家の土にはかなりの数の精霊達がいる。元より住み心地がいいのか、手入れの良さに集まって来たのかは定かではないが、他の龍塞の田畑よりも多くの精霊達がいる。
そもそも精霊の宿る土は非常に良い上に地力の回復も早い。だが、何かを育てれば、その分地力は消費される。薬草で言えば、効能の高い物はやはり多くの養分を土から吸い上げる。自壊病の薬にも用いる蘇人参の畑などは、特にそうだ。下界では数年掛けて育て、収穫した後は、それ以上の年月を地力の回復に費やすという。
精霊が宿っているだけでなく、薬師として薬草を育てる事に心血を注いでいる慎家は土を育てる事にも長けていて、更に地力の回復も早くなっている。
「堅牛、よろしく」
ユエの頼みに、上半身が牛で下半身が人間の土の精霊が力を振るう。撒いた肥料と共に畑の土が耕されていき、固くなっていた土が解されていく。
犀慎が術を他者への攻撃に使わないように、実はユエも土を耕したり、火を熾したりと便利に使う事の方が多い。
戦う事以外に術を使う者は下界ではかなり少ない為、下界で出会った精霊達には最初は戸惑う者も少なくなかった。だが、今ではその利用方法を悪くないと感じている。だからこそ、自ら水遣りに協力したり、病害虫対策に風を吹かせたりという精霊達もいるのだ。
「ユエと堅牛のお陰で捗るな。手作業とは比べ物にならない。本当にいつもありがとう」
その後の作業の為に鍬を手にした犀慎が素直な賞賛を贈る。
堅牛は見た目こそ西の魔獣ミノタウロスに似ているが、穏やかで争いを好まない精霊だ。
農作業は自身に向いていると思っている事もあり、今回の畑仕事も楽しんでいる。その上褒められて喜色満面である。
そんな堅牛の様子にユエも嬉しくなる。
犀慎を初め、慎家の者は皆、ユエばかりでなく精霊達にも感謝を忘れない。だからこそ、慎家には精霊が集まる。土地の相性の問題で住みにくい筈の火の精霊である火花でさえも、ユエが慎家を離れるというのならば付いて行くが、そうでなければ離れる気はないと言っていた。
言葉だけでなく、日頃の行動でも犀慎はユエに精霊達との付き合い方を教えて来た。犀慎が精霊達に好かれるのも当然なのだ。
「姉上~!」
昨日連絡があり、朝から礼慎の元へと行っていた貞慎が帰って来た。
「任せてしまってすみません。ユエと堅牛もありがとう」
「ところで、父上は何の用だったんだ?」
「姉上、この薬を試してみてください!」
いつになく興奮気味の貞慎に犀慎もユエも目を瞬かせる。
貞慎が差し出してきたのは小さな壺だ。薬草の匂いに混じって、微かに油のような匂いもする。おそらくは膏薬だろう。
辺りを付けながら犀慎が問う。
「……何の薬だ?」
「皮膚を柔らかくして、傷痕を薄くする薬です。父上にも試していただいて、お墨付きをいただいてきました!」
薬効からして、即効性のあるものではなかろう。今日は結果を聞きに行っていたという事か。
同じ事を考えながら、犀慎とユエは聞いている。
「本当はあの膏薬を改良出来たらそれが一番ですが、なかなか上手くいきませんからね。少し目線を変えてみたんです。小さな痕位なら、殆どわからなくなりましたよ。ほら」
龍は頑丈な為、そうそう怪我をする事もない。
だが、薬師は新しい薬を作る際には自身の身体で試すのだ。傷薬であるならば、自らの身体を傷付けて試す。その為、貞慎の身体にも小さな傷痕は幾つもある。その一つがあったのだろう左腕の一点を貞慎は指差しているが、傍目にはよくわからない。
「姉上の傷痕に効果があるのであれば、あの薬の改良に拘らずとも良い。一先ずは命を救う事だけを考えれば良くなります。そして、既に傷痕を抱えてしまっている者達にとっても救いとなります。聖辰様も少しは気が楽になるでしょうし……」
「確かにな」
納得している犀慎の隣でユエが眉間に皺を寄せた。
「犀慎様の傷痕?聖辰様が気にしている……?どういう事ですか?」
「……あれ?ユエには話してなかったんだっけ?」
「そういえばそうだな。機会もなかった」
そして、ユエは初めて百年前の話を聞いた。
「百年程前に私と冬歓は互いに死に掛ける大喧嘩をした」
「死に掛けるって……!!原因は……」
「あまりに馬鹿な冬歓に私が限界を迎えた」
ユエの犀慎への認識は穏やかで優しいだ。
その犀慎が限界を迎えての大喧嘩など、一体冬歓は何をしたのか。
信じられない気持ちでユエは耳を傾ける。
「龍塞ではどうあっても惹かれ合うという運命の番というものの存在が信じられていてな。まあ、冬歓と聖辰様がそうであったようなんだが……冬歓は今でも馬鹿だが、あの頃は大馬鹿も極まっていた。今でも仕事をしないが、当時は聖辰様の仕事の邪魔までしていた。誰が何を言っても聞かない。冬歓の両親や先代の塞主様が言っても聞かない。その所為でどんどん己の立場も危うくしていってな……。あんな馬鹿でも幼い頃から一緒にいたんだ。私も諭したり宥めすかしたりと頑張ったつもりだったんだが、聞き入れなくてな。二百年程粘ったが、ついに限界を迎えたんだ」
「二百年……」
人間が生きられるのは、どんなに頑張っても百年程度、その倍だ。
寧ろ、よくそんなに根気強く頑張れたものだとユエは思う。
「最初はこの姿で殴る蹴るという程度だったんだが、冬歓が周囲の状況も考えずにあちらの姿を取ってな。塞主様の宮の一部が崩れてしまった。この姿で抑え込むのは難しいし、私もあちらの姿を取って、上空で応戦したんだが……本当にあいつは馬鹿でな。術まで使い始めて、被害が広がった。何とか止めなければならないが、冬歓を殺す訳にもいかない。その内に互いに傷だらけの血塗れだ。私が先に倒れて……その後、冬歓は聖辰様に蹴り飛ばされて止まったらしい」
おそらく冬歓は完全に理性を失っていたのだろう。だが、犀慎は周囲の状況を見て場を移したり、冬歓を殺さないようにと気を配ったりしていたようだ。それでは遅れも取るだろう。
しかし、それにしてもだ。
「限界を迎えたと仰る割には冷静だったんですね、犀慎様……」
「一発殴ったらすっきりしたからな」
「え?」
二百年の我慢を一発で水に流したのかと考えると、あっさりしすぎのではないかと思える。
対して、好き放題やって来た冬歓がその一撃で殺し合う程に激したというのは、あまりに理不尽ではないだろうか。無論、冬歓も同じ期間諫められてきたのではあろうが、それでも納得は出来ない。
成程、貞慎を始めとした慎家の冬歓に対する態度が冷ややかなのも当然だろう。
ユエが飲み下せない感情に眉根を寄せていると、犀慎が聞き流せない言葉を発した。
「……だが、父上と爺様には最初の一撃で沈めるべきだったと言われた。上がいる事を教えるべきだったとな。だが……塞主になどという話が出ないように、身内との稽古の時以外はわからないように手を抜けと教えたのも父上達なんだがな……」
今、とんでもない事を聞いたのではないだろうか。
犀慎の方が実は強いのだという事は、先程までの話で何となく感じていた。しかし、それを悟られないようにして手を抜けという事は相当に実力の差があるという事ではないだろうか?
以前、犀慎は血が混じり合う事で力の差もなくなって来たと話していた。本当は違うのか、単純に犀慎がとんでもなく強いのかユエには判断がつかない。
ユエが混乱している所にさらに貞慎が追い打ちを掛ける、
「死に掛けても塞主になりたくない……よくわかります、姉上!」
「ええっ!?」
そこは諫めるべきところだろう。
互いに頷き合う犀慎と貞慎に、思わず突っ込みを入れたくなるが、そういえば龍はそういう生き物だったと思い出す。
他四家とは違い、きちんと勤めを果たしてはいるが、犀慎も出来る事ならばやりたい事だけやっていたいのだという事を知っている。
だが、命を懸ける事なのか。
年齢の半分以上を慎家で過ごしてきたユエだが、それでもまだ龍という生き物を理解出来てはいないのだと感じる。
「……あの火傷用の薬が傷薬としては使えない理由は知っているな?」
「あ、はい。塗った場所の血流が良くなる為に血が止まらなくなるんでしたよね?」
「そうだ。浅い、小さな傷ならば良いが、深い大きな傷に使えば、失血死の恐れがある。死に掛けているような状態の相手に使えるものではない。つまり、それで私と冬歓にはその時の傷が残っているという訳だ」
犀慎の傷痕についても、聖辰がそれを気にしている理由についてもわかった。
困惑しながらも頷いたユエを確認し、犀慎は貞慎と話を詰める。
「それで、どの傷で試そうか?大きなものの方が良いだろう?」
「そうですね……一番酷い、肩から背中に掛けてのものが良いかと」
「同意したいところだが……それだと私では手が届かない」
「俺が作った薬ですので、基本的には俺がやりますよ。でも、暫くは追加の材料集めと調薬があるので、その間はユエに頼もうかな」
「そうだな。新しい薬を作ろうとしても、なかなか他の誰かに試してもらう段階まで辿り着けないからな。良い経験になる」
「そういう訳で、ユエに頼んでもいいかな?」
「あ、はい。犀慎様に薬を塗って、経過をご報告すればいいですか?」
「うん。お願いするよ」
犀慎も貞慎も薬師としての意識しかない。ユエも同様だ。
だが、この数時間後にとある事実に気付いて、ユエは取り乱す事になる。
一日の仕事を終えて身体を清め、後は寝るばかりとなった頃、犀慎がユエの部屋を訪れた。
白い夜着に身を包んだ犀慎は、温かい地域の月明かりの下で匂い立つ白い花を思い起こさせる。動揺を押し隠しながら招き入れると、犀慎は苦笑を浮かべた。
「すまないな、こんな時間に……貞慎の薬の事を忘れていてな」
「あ、そうでした……」
犀慎ばかりでなく、ユエもすっかりと忘れていた。
あの後、貞慎は薬の材料集めに再び出掛けて行ったので、犀慎とユエと堅牛とで一日畑仕事をしたのだが、ユエも犀慎も心地良い充実感と疲労感に今日の仕事は全て終えた気になっていたのだ。
「もう休んでいたら明日からにしようと思ったんだが、まだ灯りが付いていたものだから……」
「お気になさらないでください。俺の勉強にもなります」
「では、頼む」
薬を手渡すと、犀慎は背中を向けて襟元を寛げる。
「あっ……」
そうなのだ。ユエは完全に失念していた。
薬を塗るのであれば、肌を見せてもらわなければならない。背中であれば、背中を露わにしてもらわなければならないのだ。
顔に熱が集まった。鼓動が胸を叩く。おかしな汗が出る。
だが、衣を寛げた犀慎が背中に掛かる髪を避けた瞬間、ユエの動揺はその種類を変えた。
熱は冷水を浴びせられたかのように一気に冷め、言葉を失くして立ち尽くす。
背中の半分程の面積を占める凄惨な傷痕は、死に掛けたという言葉が真実である事を告げていた。
左肩から斜めに走る三本の線はおそらく爪の痕。右腹に半円を描くように並んだ小さめの楕円は噛み千切ろうとした痕で、左腹の大きな楕円は逃すまいと突き立てた爪痕か。おそらくは背中ばかりでなく、前面にも大きな傷が残っているのではないだろうか。
思わず、身体が震えた。
犀慎の言葉にも貞慎の言葉にも、死に掛けたという言葉の割に深刻さはなかった。その為に甘く見ていた。
龍は頑丈だ。滅多な事では傷を負わないというばかりでなく、何千年も生きる程に生命力も強い。その龍が死に掛けたのだ。生半可な傷である筈がない。
薬を抱える手が震える。
ユエは間違いなく自分の方が先に死ぬだろうと思っていた。実際、何事かが起こらない限りはそうなるだろう。
だが、絶対など存在しない。
事実として、犀慎は一度死に掛けている。しかも冬歓を殺さないように、周囲を巻き込まないようにと気遣ったが故にだ。誰かを力づくで止める、その時に同じ事にならない保証はない。
ユエはあの時秋霜が話してくれた後悔に本当の意味で触れたような気がした。
先に逝く者の後悔よりも、残される者の方の後悔の方が長く続くのだ。
「犀慎様……」
ユエは震える手を伸ばし、犀慎の傷に触れた。抉れた肉とは裏腹に盛り上がった傷の縁。指先に伝わる生々しい感触は、死が突然降りかかるものだという事を思い出させる。
「うん?」
「痛みは……もうないんですか?」
「雪や氷に覆われたような場所に行けば多少疼くが、普段は少しばかり皮膚が引き攣れる位だな」
じわりと目が熱く滲む。
そんな何でもない事のように言わないで欲しい。敢えてなのか無意識なのか、淡泊な口調がユエの心を強く揺さぶる。
「……犀慎様。犀慎様はもう少しご自分を大切になさってください。犀慎様に何かあったら、俺は生きていけません」
「ユエ……?」
犀慎がユエの涙声に気付かない筈もない。
振り返った犀慎の目に映ったのは、必死に泣くのを堪える青年の姿だった。
「俺、犀慎様が大好きです。とても、とても大事です。だからっ……俺を置いて死なないでください……!!」
「ユエ、大丈夫だ。余程の事がない限り、そんな事にはならない」
冬歓も今は落ち着いているし、同じような事になる程の力を持つ聖辰や残り三家の当主達とああなる可能性は現時点では低い。そして万一、同等の力を持つ他種族が攻め寄せた場合は容赦するつもりはない。
だから安心しなさいと告げるが、一度起こってしまっているという事実がユエを不安にさせている。
「その余程の事があったんでしょう!?加減して、周囲を気遣って死に掛けて……でもまた同じ事をするんでしょう!?力づくで誰かを止める時に、同じ事が起こらないとは限らないじゃないですか!!他の誰かより、犀慎様は犀慎様を大事にしてください!!」
青藍の屋敷で話を聞いた時は、相手の命を奪う事もあるのかもしれないと思った。だが、百年前の話を聞いた今、それはないだろうと思う。冬歓を殺さないようにと立ち回った時のように、生かしたまま制圧しようとするだろう。
知らない誰かよりも、ユエは犀慎が大事だ。犀慎にとっては気に掛けて来た相手だったとしても、犀慎には自身の身を優先して欲しい。相手を手に掛ける事が犀慎の心を傷付けるとしてもだ。
涙を湛えながら懇願するユエは、加護が欲しいと言った時のような、否、それ以上の気持ちをぶつけて来る。いつにない様子のユエに犀慎は気圧された。
「ユ、ユエ、落ち着きなさい……」
「落ち着ける事じゃありません!!犀慎様からご自分を一番に大事にするとお約束いただかない限り、落ち着けません!!」
「……それは無理だ」
静かな声だが、確かな意志が込めらている言葉にユエの胸は張り裂けそうになる。
「どうしてっ……!!」
「ユエを預かると決めた時、全てに替えても護ると決めた。そして、琥珀と翡翠も大切な弟子だ」
「っ……!!」
確かにユエも琥珀と翡翠も犀慎よりも遥かに脆い。
ユエ自身の事はともかく、二人の事を言われたら何も言えない。ユエも二人に何かがあれば、間違いなく思考よりも身体が動くに違いないからだ。
「だが……三人を護る為にも、死ぬ訳にはいかないな。何かあれば、誰が相手であろうと一撃で沈めよう。それでは駄目か?」
犀慎の提案に、ユエは幾分の冷静さを取り戻した。
若干ずれているというか、ユエの求める答えとは正直違うような気がする。
だが、おそらく結果は同じであろうという事はわかる。何より、きっとその誰かを見捨てられない犀慎の譲歩である事は確かだ。
「……でも、死に掛けても塞主にはなりたくないんですよね……?」
「それは大丈夫だ。百年前の事は冬歓だけでなく、聖辰様に対しても貸しだ。心配は要らない。それに……ユエをこんな風に泣かせるよりいい」
「泣いてません……」
涙を零す事は何とか堪えたものの、涙目でぐすぐすと鼻を啜っている状態で説得力はないが、そう言い張るユエに犀慎は苦笑している。
ユエはそんな犀慎をずるいと思いながら見詰める。
おそらく大丈夫だという前提はあれど、死に掛けても塞主にはなりたくないと言いながら、ユエを泣かせるよりはいいだなど、無自覚に性質が悪い。
そんな事を言われたら、希望を抱いてしまう。この想いが叶うのではないかと期待してしまう。
不相応だとは思いながらも諦められる気はしないのだ。きっと困らせてしまうだけなのに。
「犀慎様はずるいです」
「そうかな」
了承するしかない状況以外にも意味はあるが、わかって欲しいとも思えない。
「……約束ですよ?」
「約束する。ユエより先には死なないよ」
拗ねた顔で誤魔化しながら、ユエは本心を呑み込んだ。
その数日後、犀慎は蜂用の巣箱作りに勤しんでいた。
蜂からは今でもユエが好きな蜂蜜ばかりでなく、膏薬や蠟燭の原料となる蜜蝋や王乳など有用なものが採取出来る。その為、慎家では養蜂にも取り組んでいるのだ。
ちなみにユエは貞慎の手伝いも兼ねて、今回開発された薬の作り方を教わっている。
貞慎や礼慎が試した傷痕とは違い、犀慎の場合は傷痕が大きい上に状態も悪いのでその分の時間が掛かる事が見込まれる。何かが起こり、貞慎が手の離せない時に薬が切れる可能性も否めない。そこで、追加の薬を作るこの機会にユエにも仕込む事にしたらしい。
「犀慎!」
犀慎が慣れた手付きで巣箱を作り上げていく、そこに聞こえて来た声に振り返れば、冬歓を伴い息急き切って駆けて来る聖辰がいる。
何事かと思わず身構えるが、その表情に切迫感はない。ならば、あの薬の事だろう。そう思いながら問う。
「何かありましたか?」
「貞慎から薬の事を聞いた」
「ああ、やはり。効果が見られれば冬歓の分も用意しますよ」
予想通りの言葉に、犀慎はいつもの様で言葉を返す。
だが、聖辰は納得がいかないといった風情だ。
「そうではなくて!……本当に気にしてないんだな」
「ですから、何度も申し上げた筈です。そもそも薬師というのは薬の効果を己が身で試す連中ですよ?自ら傷付ける事もあるものを気にしていたら薬師などやっていられません」
「あの傷で気にするなと言う方が無理だ。それに……これが貞慎ならば気にする癖に」
「それが薬師です」
「言うだけ無駄ですよ、こいつはそういう奴です」
渋面を滲ませる聖辰に、後を追ってきた冬歓が口を挟むが、ますます聖辰の眉間の谷が深くなる。
本当に聖辰とそれ以外への差が激し過ぎる。
そんな聖辰に犀慎が苦笑する。
「聖辰様といい、ユエといい、当事者よりも気に病まれるのは居心地が悪いんですよ?」
「ユエ?」
「新しい薬を作るのにも、失敗はつきものです。まず己が身で試して、効果があれば他の者に試してもらうのですが、その段階まで辿り着くものはそう多くはない。私では見えない、手の届かない所ですし、ユエに経験を積ませる為にも、薬を塗るのと経過報告を頼んでいます。その最初の日に……ユエがあの時の傷を見て泣いたんです」
正確にはべそをかいた程度だが、泣いたと同義だろう。
「私に何かあれば生きていけない。他より己が身を優先してくれと。先に百年前の話はしていたのですが……死んでもおかしくない状態だった事を本当の意味で感じて動揺したのでしょう。両親の事もあって身近な者の死に敏感になっていてもおかしくない。余程の事がない限りはそんな事にはならないと言っても、その余程の事があったんだろうと言い募って来て……思わず気圧されました。何とか落ち着いてはくれましたが、納得してくれたのかどうか……」
「まあ……シルバ達の事もあるんだろうが……」
否定はしない。だが、そればかりではないどころか、それ以上にユエの心を占めるのは犀慎を失う恐怖だ。
あまりにわかっていない犀慎に、冬歓が苛立つ。
「ユエのそれはお前に対する執着だろう?」
「執着……?」
慕われている事は流石にもうわかっている。だが、執着という程のものだろうか?
だが、冬歓は犀慎の違和感を否定する
「妙に大袈裟な奴もいるが、ユエはそうではないだろう?あの遠慮がちなユエが、図太いお前が気圧される程に言うのならば、それは紛う事なき本心であり、それだけの傾ける情があるという事だ。お前を失いたくなくて必死なんだ。言葉通り、お前に何かあれば死ぬぞ、あいつは。執着も執着、まるで番だ」
「え?」
思いもよらぬ言葉に、犀慎は言葉の意味を呑み込めない。
「……いい加減、気付いてやれ」
あまりにも真摯な冬歓に、犀慎は言葉を失った。




