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龍の箱庭  作者: 遠戸
14/19

14.現実

 犀慎がユエの想う相手が同族だと知ったのは、異種族間婚姻の現実を伝えた事を聖辰に報告した時だった。

「……それは、ユエにもか?」

 何かが聖辰には引っ掛かったらしく、眉根を寄せて問われた。

「はい。あの子は龍塞に来る事になった経緯が経緯なので、下界には下りずにこのまま龍塞に残りたいと言っておりますし。薬師としては勿論、当事者となる可能性を考えて伝えておくべきだと判断しました」

「あ~……知っておくべき事ではあると思うから伝える事自体は構わないのだが……元々控えめ過ぎて卑屈な位のユエには早過ぎたんじゃないか……?」

「そうですか?人間としては年頃でしょう?」

 まずい事になったというかのような幾分困り顔の聖辰に、ユエの想いを知らない犀慎は怪訝に返す。

 相手も進展具合についてもわからないのだが、ユエにも想う相手がいる事は知っている。年齢的にも結婚の話が出てもおかしくはない。だからこそ、犀慎はユエにも聞かせたのだ。

「いや、まあそうなんだが……あの子の性格的に、想いが通じてからの方が良かったんじゃないかと思ってな。きっと更に自重して、遠慮してしまうんじゃないかと……」

「もしかして……ユエの想う相手は龍なのですか?」

 そこまで言われれば流石に犀慎も気付いたようだ。

 確かに龍塞には龍ばかりでなく混血や人間を始めとした異種族も住んでいるし、他の神獣も時折訪れる。だが、犀慎は今の今まで龍だとは思っていなかったようだ。無意識にだろうが、その可能性を排除していたのは、やはり辛い現実を見続けて来たからなのだろうと聖辰は思う。

「……うん、そうだ」

 聖辰の肯定に、犀慎は案の定深刻な表情で押し黙る。

 犀慎もユエには想う相手と幸せになって欲しいと思っている。しかし、目にしてきた現実が素直に受け止める事を拒む。

 心は儘ならないものだと知っている。止めろと言われてどうにか出来るものではないのだという事も、言い含められていてもいざそうなった時に受け止められるものではない事もだ。

 自身の時間を持ちたがらずに大半の時間を犀慎と過ごし、薬師としての修行に勤しむユエは、おそらくまだ初心な恋をしているのだろう。そんなユエに夢を壊すような現実を突き付けてしまった事を申し訳なく思う反面、これで諦めてくれないだろうかと酷い事を思っている。

 幼い頃から龍に囲まれて過ごしたユエは龍と人間の違いもよくわかっている。琥珀と翡翠の母のように最期まで添い遂げる事も出来るかもしれない。だが、悩み苦しむ事はあるだろう。翡翠に対してと同じだ。覚悟の上で選ぶのならば、出来る全てで支えるつもりでいる。だが、出来る事ならば辛い思いはして欲しくない。

 犀慎はユエを慎家で育てると決めた時にユエを見送る覚悟はしている。貞慎も両親も祖父母も、伴侶ではないが家族となる人の子が瞬く間に短い生を終える事を承知の上で迎えた。ユエの想う相手が応えたとして、本当にその事を受け止められるのか。当事者ではない慎家の者達ですら酷く苦しい思いをするというのに、恋うた相手に残される事を黒鉄のように乗り越えられるのか。

 厳しいようだが、覚悟のない者は認められない。

「……ユエには申し訳ない事をしたのかもしれません。ですが私は……出来る限り、ユエに辛い思いはして欲しくない。酷い師ですが、出来る事ならば諦めて欲しいと思っています」

「まあ、それはわかる。素直に応援出来ない現実があるのは知っているし、今の私には色惚けしていた百年前の反省もある。翡翠に慎家との縁と信頼があって本当に良かったと思うよ」

「翡翠は賢い子ですから。ユエも相手についてはその内確かめねばなりませんが、あの子はきちんと考えた上で答えを出すでしょう。それだけでも違う筈です。ユエならば、最後まで添い遂げる事が出来るのではないかとは思っています。それでも……」

 相手云々の問題ではない。ただ、辛い、苦しい思いをして欲しくないというだけなのだ。

 その願いは聖辰も理解出来るし、気持ちは同じだ。だが、その想いがどうしようも出来ないものだという事を聖辰は犀慎よりもよく知っている。

「だが、想いは理屈でどうこう出来るものではない。ユエは今でさえ、考え、悩んで、落ち込んで……それでも想う事を止められないでいる。最後までずっと想い続ける事を止められないかもしれん」

「ユエの想いをどうこう出来るとは思っておりません。あの子の想いはあの子のもの。諦められないのなら見守る事しか出来ません」

 そう、犀慎にはどうする事も出来ないだろう事はわかっている。余程の相手であればともかく、真っ当な相手であれば、親でもない犀慎の介入は控えるべきだ。現実を知ったが故に、ユエが犀慎に許しを得るのは覚悟を決めた後になるだろう。犀慎は承知の上の事だろう形ばかりの苦言を呈して覚悟を問うて、その後を見守る事しか出来ない。

 心当たりのない相手を思えば、もやもやとした名状しがたい感情が沸き起こる。実際にその相手を目前にした時、苛立ちのような悲しみのような、この何とも言えないものを向けずに冷静に対応出来るだろうか。

「……私にも、心の準備が必要かもしれません。ただ、苦しい思いをして欲しくないというだけなのですが……難しいものですね」

 自嘲するかのような犀慎の様に、聖辰は何かを言おうとして、止めた。



「……はい。出来ましたよ、昭吉さん」

「悪いねえ、ユエちゃん」 

 見た目だけならば智慎と同じ年頃の、老年の男の腰に湿布を貼り終えたユエが声を掛けると、男がのろのろと身を起こして諸肌脱ぎの衣を直す。

「全く……年なんだからあんまり張り切り過ぎるなよ。孫だって心配するだろう、昭吉」

「わかってるよ、琥珀さん」

 見た目の年齢的には昭吉が祖父で琥珀が孫のようなものなのだが、実際には琥珀は昭吉の祖父位の年齢で倍近くを生きている。その為、琥珀は昭吉の年少の者として扱う。

 知ってはいても見た目に意識は左右されてしまう為、ユエが会話に感じる違和感はかなりのものだ。

「痛む部分の熱が引くまでは湿布を続けてください。痛みが引くまでは無理も禁物ですよ。後、痛みが酷い時は痛み止めを一包飲んでくださいね」

「ああ、わかった」

 自壊病の材料が揃おうとしている頃、琥珀は故郷の村に戻る準備も兼ねて、頻繁に下界に下りる様になった。手伝いも兼ねた修行の為、ユエも度々村に滞在する。そんなある日の事であった。

 昭吉は、琥珀の故郷の村の男である。平均寿命を越えても元気でそれが自慢なのであるが、やはり年齢を考えれば家族は心配なのだ。昭吉も常であれば話半分で受け流すのだが、心配もされ過ぎれば、癇に障る。自身に自信があれば尚の事だ。年寄扱いするなと中身の一杯に詰まった籠を背負おうとしたらしい。その時に腰を痛めたのだ。痛みに動けない昭吉を負ぶって孫達が慌てて琥珀の元へ駈け込んで来た。

 あの地震の時に、古くなっていた琥珀と翡翠が母と暮らしていた家は潰れてしまって今はない。あの時に建てられた救護所は村の寄合所になっているし、そもそも琥珀一人が住むには広過ぎる。かつて家があった場所に村の者達の協力も得て再び家を建て、一角に薬草園を作った。決して豊かではない村だ。その内に田畑も拓いて、自身の生活位は賄えるようになれば、琥珀は村に腰を落ち着けるつもりでいる。

 ちなみに犀慎が貯めた独立資金は小さな村の診療所には見合わな過ぎて、どうしても困った時にお願いしますと遠慮した。翡翠の方も同様である。

「さて、送っていくけど……負ぶされるか?」

「なあに、この程度なら歩いて帰れるよ。っと、あたたたた……」

「だから、無理するなって」

 結局、琥珀が昭吉を負ぶって行き、ユエも薬を持って行く為に付き添った。昭吉の家族も昭吉を窘めつつも安堵した様子で、二人は礼にと今日収穫したらしい野菜を貰って家へと戻る。

 そして家の前まで来た時だ。

「あれ?犀慎様?」

 琥珀の家の戸の前にいた犀慎が琥珀の声に振り返る。

 ユエも琥珀ももう暫くは村に滞在する予定だ。何かあれば水盤を通して連絡する事になっているのだが、念の為に様子を見に来たと言った所だろうか。

「ああ……留守にしていたのか」

「はい、村のご老人をご自宅までお送りしてきました」

「そうか……」

 いつものように穏やかに接する犀慎であるが、何処か違和感を感じる。気の所為だろうかと伺うように琥珀を見遣れば、琥珀も同じように感じたのだろう。蜂蜜色の瞳と視線がかち合う。

 問うよりも早く、犀慎が口を開いた。

「……これから、ハイランに行く。二人も付いて来なさい」

「……ハイラン……急ですね」

 ハイランは京華国の南に接する小さな国で、京華国の属国だ。

「……二人は見ておいた方が良い。すぐに帰すから支度は要らない」

 あまりの唐突さに何かあったのかと言葉にするより早く、言葉を返した犀慎に二人は違和感を禁じ得ない。

 常ならば、犀慎は琥珀やユエを何処かへ連れ出す時には目的を告げる。目的を告げられないような場所に二人を同行させることはない。

 焦りは感じられないし、地震が起きた時のような状況なのであれば、準備を整えて向かう筈だ。だが、犀慎は手ぶらであり、二人にも支度は要らないと言っている。

 静かな表情をしてはいるが、何処か張り詰めたような、僅かな深刻さを感じるような気もする。

「……頂き物を置いてきます」

 何があったのかはわからない。だが、二人が知るべき何かがあるのだろう。一先ずは犀慎に従おう。

 そう決めて、二人は貰った野菜を家の中へ置くと、犀慎と共にハイランへと向かった。


「……ここは?」

 水を通して移動してきた先はやはり水の中で、水底に建物が見える場所だった。

 目に入る魚の種類や水の流れ、広さ等から考えるに、淡水の湖であろう。ハイランの地図を脳内で広げて、王都の一角に接する湖だとユエは当たりを付ける。

 犀慎の術により空気が泡のようにしてユエ達を包み込んでいるのと同様に、建物の周囲は空気で覆われており、水底から湧き出る泡の中に建物があるかのように見える。建物の造りは龍塞の建物と同じく京華の様式に近いが、装飾等、諸所にハイランの文化が見える。

「ハイランに住む龍の住処だ」

「ハイランの龍……」

 ユエ達を包む泡が建物を包む泡と接触すると泡は一体化して、ユエ達は建物の一角、桟橋のようになっている部分に降り立った。

 そう言えば、龍塞以外の龍の住処は初めてだ。

 琥珀の父である黒鉄はどんなところに住んでいるのだろう。

「琥珀さん、黒鉄さんもこういった感じの所に住んでるんですか?」

「俺達もお袋も基本的に村にいたから、あまり行った事はないんだが……水中に家があるってのは同じだ。建屋が龍塞やこことは違うな。ちょっとだけ神社に似てる」

「神社……?」

 神社はそもそも神を祀る場所であり、生活の為の建物ではない。屋根の両脇、頂部から斜めに突き出した千木ちぎのある特徴的な高床式の建物という事なのだろうか?

 各地の龍達の様子を定期的に調べている五家の当主の犀慎だ。当然、黒鉄の住処の事も知っているだろう。

 常の犀慎ならば、数百年前の暁の上流階級の家の一部に神社が組み込まれている感じだと補足してくれただろうが、二人の遣り取りには反応を見せる事なく、勝手知ったる様子で建物へ入っていく。

 やはり様子がおかしい。更に、屋敷は静まり返っている。一体何の為にハイランの龍の住処までやって来たのか。

 あまりの静けさに二人が不安を覚え始めた時だ。ふと、犀慎が足を止め、振り返った。

「……琥珀、ユエ。龍にも関わる薬師となる者として、翡翠の家族として立ち会わせる。全てがこうなるという訳ではない。寧ろ今回はまだましな方だ。こういう現実もあるのだという事を受け止めなさい」

 龍の住処。そして、今の犀慎の言葉。龍の住処だと知った時から、無意識下では感じていたのだろう。驚きはなく、やはりと得心するように言葉が沁み込んだ。

 そこから二つ目の部屋の戸を犀慎が叩く。

 「青藍せいらん、入るぞ」

 まず、目に入ったのは天蓋付きの寝台。その脇には貞慎と藍色の髪に黒い瞳の犀慎と変わらぬ年齢に見える男性が一人。同じ色をした六、七歳の子供が一人。そして寝台に横たわるのは鳶色の髪の四十代位の女性だ。

 女性の首には赤い裂け目があり、紙のように白い顔には全く生気がない。

「……ああ、姉上。二人も連れて来たんですね」

 貞慎の声に釣られたように振り返った男性は憔悴している。

「犀慎様……」

「……久しぶりだな、青藍。確か、十六年ぶりか?」

「……そうですね。我等には瞬き程の時間ですが……」

 定期的に下界の龍達の様子を調査するのも五家の仕事であり、効率を考えれば人間を番として迎えた青藍の元には本来であれば犀慎が訪れるべきである。実際、他四家には他者と関わろうとしない青藍の番や子供の健康管理を兼ねてと言ってそうしていた。しかし、犀慎と青藍は異性である。調査とは別に犀慎が来訪する事は妻を刺激し、疑心や不安を招きかねない。事実、その兆候が見えた為に、犀慎は代わりに貞慎を青藍の元に向かわせていた。その事は聖辰も承知している事だ。

「死に方を心得ている者の死に方だな……」

 歩み寄り、間近で女性を見詰める犀慎が呟く。

 自身で胸を、心臓を貫くという事は存外難しい。大事な臓器を守る為の骨があるからだ。サルースで見掛けるような魔獣退治の女性ならばともかく、特別身体を鍛えるような事をしない非力な女性では、幾度もやり直して痛く苦しい思いを長く味わう事になる。喉を突くのも痛みに加えて呼吸が出来ない苦しみがある。痛い思いをする事は変わりなかろうが、首の血管を断ち切るやり方は、それよりは苦しむ時間も少なくて済む。

 元々は王族であったのだ。教えられていたのかもしれない。

 しかし、躊躇った痕もない。狂気の沙汰だと犀慎は眉を顰める。

「貴女が仰った言葉の意味を今になって理解しました。我々とて永遠を生きる訳ではありませんが……人からすれば永遠にも等しい程の命の違いが、これ程までにメイファの心を壊すなどとは、思いませんでした」

 メイファと青藍は想い合って共に暮らし始めた訳ではない。

 以前、偶然に王族を手助けした事になってから、青藍はハイランの守護龍と崇められるようになったのだが、二百年程経ったある日、住処の湖畔で呼ぶ声がして姿を見せると突然メイファが献上品として青藍に贈られたのだ。それが二十五年程前の事だ。

 メイファはハイランの現王の腹違いの妹で、当時は王女であった。 

 ハイランとしては京華国に対する切り札として青藍を完全なる味方として引き入れたかったのだろう。

 だが、青藍の方は別に嫁が欲しいと願った事もなければ、どちらかに味方する気もなかった。そもそも興味がない。だがメイファの縋るような目に感じるものがあり、承諾して連れ帰った。その後に理由を聞けば、妾腹のメイファは正妻やその子供達に敵視され、冷遇されているが、父王も正妻やその一族が怖いのか助けようとはせずに放置しているのだという。ままある話だ。

 確かにメイファは美しかった。だが、助力を願う割に厄介払いを兼ねて献上品として捧げるなど大概失礼な話である。

 本来の龍の姿しかハイランには伝わっていなかった為に、他の娘が嫌がったのも理由の一つであったのだが、人の姿をとった龍は、それぞれに系統は違えど総じて麗しい。嫌がった娘達は話が違うと随分悔しがったらしい。

 青藍はメイファに誰も知らない場所で暮らす事も提案してみたが、冷遇とは言っても利用価値がある事から最低限の衣食住の保証はされていた、そんなメイファに市井で暮らしていく逞しさはなかったし、何よりも人と関わる事を恐れる様になっていた。結局はこの水底の屋敷で養う内に心を通わせ夫婦となり、子も授かった。それが青藍の隣で思い詰めたような顔をしている子供だ。

 ちなみに現在、ハイランは京華に睨まれて難しい立場にあるのだが、メイファを不当に扱ったハイラン王家などに力を貸す気など青藍には欠片もない。

「……メイファは、ここに来るまでは碌な扱いを受けて来なかったのだろう?厄介払いのようにお前に贈られたのだと聞いた。おそらく、己に自信が持てなかったのだろう。それが不安に拍車を掛けたのではないか?お前もファランも、少なくともメイファよりは見目が年齢を重ねるのには時を要する。漸く得た居場所で己だけが変わっていく事は恐ろしい事だったのかもしれない」

 青藍の元には貞慎が訪れてはいても、貞慎は青藍と同じ龍である上に男性だ。不安や悩みがあっても話し辛かったのだろうし、仮に水底のこの屋敷を出てみても相談どころか話を出来る相手もいなかった。かといって今更犀慎と話したいと頼む事も出来ず、追い詰められていったのだ。そして、この結末を迎えた。

「人同士、龍同士でもそれぞれ違うのに種族まで違うんだ。その上、お前は人の輪の内で暮らしている訳ではないから、人というものをよく知らない。態度で伝わるという事もなくはなかろうが、それだけで差が埋まる訳がない。寧ろ誤解が生じるのが関の山だ。私もそちらの銀の髪の子……ユエを引き取ってから己の至らなさによく気付くようになった」

 そんな事はないと声を上げたくなるが、ゆるりと視線を向けた青藍にユエは軽く会釈をするにとどめた。犀慎には青藍に伝えたい何かがあるのだ。それを遮ってまで、今伝えるべき事ではない。

「ユエも己に自信の持てない子だ。その上、私は情の表し方が上手くないらしく、嫌われるのが怖いと言わせてしまった。ユエは本当に優しい良い子で、嫌いようがないのにな。それをわかってもらう為に私も腐心している所なんだ。思い違いを指摘してもらったりと周りに助けてもらう事もある。お前もファランも饒舌な訳ではないし、不安を取り除ける程にはお前達の想いは伝わらなかったのだろう……私が助けてもらったように、助けてやれなくてすまない」

「俺も……ごめんね、青藍、ファラン」

 犀慎と貞慎は深く首を垂れる。

 犀慎も貞慎もこの夫婦は危ういと初めから感じていた。

 青藍は元々人どころか龍ともあまり関わろうとしない龍だ。義務として、様子見に訪れる五家の当主達を避ける事はしていないが、基本的に他者に興味がないのだ。

 龍は人のように群れねば生きていけない生物ではない事も関係してか、そういう龍は珍しくはない。長命な上にそうそう命を脅かされる事もない強者である為に、父母といった血の繋がった家族相手でも数百年顔を見ていないという事も少なくない。

 だからこそ、人の伴侶、特にメイファのように愛情に飢えていた人間には向かない相手だと思っていた。

 メイファに絆され、多少変わりはするだろうが、淡白なその本質がそう変わるとは思えなかった。青藍にメイファの心の隙間を埋められるのだろうかと不安が先に立った。

 犀慎なり貞慎なりが常に傍にいられれば、メイファの変化に気付く事も出来たかもしれない。だが、当主ではない貞慎も青藍とメイファにばかり構っていられる訳ではない。その上、自ら他者に関わろうとしない事からもわかるだろうが、青藍は自身の領域に踏み込まれる事を好まない。琥珀達の母と出会う以前より度々人里を訪れ、人と関わって来た黒鉄とは違う。

 そんな青藍のたまの気紛れが婚姻に結びついてしまった。心配するなと言う方が無理な話であり、結局こういう結果となった。

 扱いの難しい青藍が反発して意固地にならないように遠回しに提案するに止めていたが、煙たがられて距離を置かれるようになったとしても積極的に介入すべきだったのか。同様の結果に立ち会う度に悔み、悩むが正解は判らない。

「……どうか、お顔を上げてください。反省すべきは私達の方です。犀慎様も貞慎様も出来る事はやってくださいました。それに、今気付きました……」

「ファラン……」

 青藍はファランと同じように感じていても、それを認める事が出来ず、だからと言って犀慎達の所為にする事も出来ずに複雑な表情でファランを見遣る。 

「犀慎様も貞慎様も、既に博識であられるのに今でも知ろう、理解しようと努め、学ばれている。だというのに私達は……家族だというのに、その努力が足りていなかった。犀慎様が度々貞慎様に持たせてくださったお菓子、私も母も大好きでした。でも、生菓子は持って来れないから皆で行ってみたらと貞慎様が仰った時、母は人が苦手だからと断り、父も私もならばとそれ以上勧めはしませんでした。弟子に私と同じ龍と人との間に生まれた女性がいらっしゃるから会ってみないかと仰った時、外へ出る事を母が不安がるからとお断りしました。でも……母がこうならないようにと考えて、仰ってくださっていたのですよね?」

「……何故、そう思う?」

「母が外を怖がるのをご存知の筈なのに、と少しだけ思ったんです。それが引っ掛かっていました。それに……私、生菓子にもお弟子さんにも本当は興味があったんです」

「俺も、もう一押しすべきだったね……」

「いえ、父も母も頑なですから。でも、それを伝えていたら、何か変わったのかなぁ……」

 泣きそうな顔のファランに、犀慎も貞慎も、今気付くのなら、気付かないままで良かったと思っている。

 メイファはこの水底に長く引きこもっっていたのだ。生まれた時からの事であればまた違ったのであろうが、そうではない。外に出れば、単純に気分が変わるだろうという事もあったし、ユエに犀慎達が教えたように悪意のある人間ばかりではない事を知って欲しかった。世界はこの水底を含めたハイランだけではないのだと知って欲しかった。この水底の屋敷から殆ど出た事もない為に友人もいないファランに、同じ様に龍と人との間に生まれた翡翠を紹介する事はファランにとってもメイファにとっても良い影響を与えるのではないかと思った。

 だが、今更その事に気付いても青藍とファランを追い詰めるだけだ。

「……私は」

 犀慎が口を開く。

「私はメイファを哀れに思うと同時に、腹を立ててもいるんだ」

「……えっ?」

 青藍とファランだけでなく、ユエと琥珀もその言葉に目を瞠る。

「違う事を悲しいと思うのは、人ばかりではない。そうだろう?」

「あ……」

 母の死よりファランの中で渦巻いていた形容しがたい感情が形をなした。

 母は、あなた達にはわからないと言った。

 母の孤独と不安の深さに気付かなかった、追い詰めた自分を責めた。

 だが、母だって同じだ。ファランの事も父の事もわかっていない。ファランと父の中で、母がどれだけ大事な存在だったのかわかっていないではないか。あっという間に母が老いていなくなる事には怖くて目を背けていた。同じように不安を抱えていた。

 理解しようとしなかったのも、伝えようとしなかったのも、お互い様だ。

 こんな風に追い詰められる位なら、死の直前ではなく、何故もっと早くにぶつけてくれなかったのか。

 そう思っている自分がいた。

「どちらかだけが悪いのではないのだと思う。正直なところ、青藍には、もう少しメイファの気持ちを汲み取って欲しかったが……臆病で遠慮がちなメイファと己が世界に籠って他者への関わり方のわからない青藍しかいない場所で殆どを過ごしてきたファランが、誰かの気持ちを察したり、己が気持ちを表したりする事が得意な筈がない。それでも、メイファの気持ちを優先しようとしてきたファランは優しい子だ」

「うん、反省はすべき所はあるけれど、自分を責めなくていい。賢いファランはきっと誰かに寄り添い支えられる、素敵な大人になれるよ」

「……でもっ、でも!私っ、気付いて、あげられなかったっ。なに、もっ、わかってなかっ……母様にっ、生きて、欲しかったっ……!なんで、こんなっ……!」」

 ぽろりと一つ、雫が落ちた。後はもう止まらなかった。

 受けた衝撃が大き過ぎたのだろう。ずっと泣けなかったファランは、漸く泣いた。

 そんなファランに青藍は狼狽える。助けを求めるように見遣った先で、貞慎があまりの不器用さに若干呆れつつ抱き締めてやれと言ってやる。たどたどしく抱き締める青藍にメイファは抱き付き、一層の声を上げる。泣かせてやれと声にはせずに口の動きだけで貞慎は伝えると背を向け、部屋を出る。倣うように、犀慎も琥珀とユエも後に続いた。


 迷う事なく貞慎が向かったのは、この屋敷を訪れた時にいつも迎えられる場所だ。

 メイファが嫁ぐ以前より、様子見に訪れる五家の者以外が訪れる様子はないが、どうやら来客をもてなす為の場所らしい庭には円卓と椅子が用意されている。

 水中の屋敷の庭には見慣れた花や庭木はなく、岩や石、砂利等で形作られており彩りには欠ける。だが、湖の中が見渡せるので泳ぐ魚の姿等が見えて新鮮ではある。

 勝手知ったる様子で椅子を引いて腰を下ろした貞慎は、一つ大きな息を吐くとユエと琥珀を促す。

「琥珀とユエも座るといい。堪えただろう?」

「ええと……では、失礼します」

 僅かに考えて、琥珀が椅子を引いた為、ユエもそれに倣う。

 二人共、翡翠が覚悟を問われたあの日に軽くではあるが話は聞いている。そして、直前にではあるがこれから目にするものを教えられた。

 おそらくメイファが命を絶ったのはあの場所ではない。首を掻き切ったのであれば勢いよく噴き出した血飛沫が辺りを赤く染めていただろうし、青藍やファランも血を浴びていただろう。おそらくはメイファの寝室だろうと思われるあの部屋は綺麗なものだったし、青藍とファランも肌にも衣にも血は見えなかった。

 直後の状況からすれば間違いなくずっと綺麗で、静かな場所だったというのに、鉛でも呑み込んだような重苦しさに身体が自然と緊張し、青藍達から溢れ出す悲しみや自責の念に何も知らない者からの空々しい慰めや気休めの言葉などは口には出来なかった。

 身を硬くし、膝の上で拳を握り締めている二人に、犀慎が詫びを口にする。

「ユエ、琥珀。有無を言わせぬ形で立ち会わせる形になってしまった事をまずは詫びよう。すまなかった」

「……いえ、言われてすぐに覚悟が出来たかと言われればわかりません。俺は翡翠よりも臆病な自覚はあります。知っておかなければならない事だったと思いますし、何かが違えば、お袋もああなっていた事、翡翠も同じ事になるかもしれない事を本当の意味で感じられたように思います」

「でも、今回はまだ良い方だよ。青藍もファランも動揺はしているけどきちんと事実を受け止めて考える事が出来ているし、青藍は父親である事を忘れていない。青藍までおかしくなってしまっていたら……ファランも危なかったかもしれないからね」

 悲しみに狂った龍など、最早天災だ。

 礼慎はトランの王城を一瞬で壊滅させ、犀慎の加護による術は最大威力でもないというのに余波で山の形を変えた。五家の当主でない玉蘭でさえ、人間が出来る限りの準備をした上で集団で臨む火吹き蜥蜴を素手で瞬殺出来る。礼慎は加減はしていたし、人的被害が出ないように配慮していた。犀慎も状況を確認した上でユエに術を使わせている。だが、加減も配慮もなく力を振るわれればどうなるか。

 青藍が悲しみに己を見失ってしまっていたら、間違いなくこの屋敷ばかりかハイラン王都は壊滅し、人よりは丈夫だとはいえ、龍より脆いファランも無事では済まなかっただろう。

 度々犀慎や貞慎の実力を目にしてきたユエと琥珀には簡単に想像が出来た。

「……そういう事態になった事もあるという事ですか……?」

「そうだな。そうなった者を力づくで止める事もある」

「……」

 どうやって止めるのか、その時に相手の命はあるのか。命があった場合、正気に戻った後に自らが起こした惨状をどう思うのか。大切な筈の存在を巻き込んでしまっていたら、耐えられるのか。

 ユエも琥珀も想像はするが、確かめる勇気はない。

 犀慎も貞慎も淡々とした声音で、表情も静かだ。だが、間違いなく悲惨な現実は慎家の者達を傷付けてきた筈だ。

 重い空気を犀慎の静かな声が揺らす。

「……翡翠は龍塞に来るまで人と共に生きて来た。私より余程に人を知っている。グレンと共に問題に向き合いもした。ちゃんと頼る事を知っているし、すぐ近くに父上と母上もいる。何より琥珀、誰より二人を気に掛けているお前がいる。お前なら支えてやれるよ。ユエもきっとグレンの良い相談相手になれる」

 真っ先に浮かぶだろう心配の対象を察して犀慎が掛けた言葉に僅かに緊張を解きながらも、何故自分がグレンの相談相手なのかユエには思い至らない。琥珀を見遣るが琥珀も思い当たらないらしく、怪訝な顔をしている。

「俺がグレンさんの相談相手、ですか……?」

 同じ人間としてという意味だろうかとも思ったが、継いだ言葉を聞いてユエの頭の中は真っ白になる。

「……ユエは龍に恋をしていると聖辰様から聞いた」

「え……?」

「私が相手を厳しい目で見てしまい、邪魔をしてしまう事を警戒されているのか、それ以上の事は教えていただけないのだが……自覚はある。仕方あるまい」

 何故、聖辰はそれを告げたのかという疑問よりも、仕方がないと言いつつも呑み込めていない様子の犀慎の様子が気になって、琥珀が切り込む。

「……翡翠の時は邪魔という感じではなかったですよね?」

「琥珀もそうだが、私達からすればまだまだ幼くとも、翡翠は人間ならば既に老境を越えているだろう?まだ甘い部分もあるが、酸いも甘いも経験して来ている。だが、ユエは人間としても若い。その上、ある程度の年齢までは関わる相手も選んで来た。考えがあっての事ではあったが……ユエは本当に良い子に育ったからな。性質が悪いのに引っ掛かるのではという心配がどうしても拭えない」

「……確かに。俺も、あの村に付いて行った時に思いました。どんだけ優しいんだこいつはって」

 琥珀の言葉に犀慎と貞慎も頷く。

「きちんと見定めたいと思うのだが……元から悩んでいたところに、私はあの話をしてしまったのだろう?本音を言えば、諦めて欲しい。苦しい思いはして欲しくないからな。だが、悩んで苦しい思いをしても諦められないのだろう?正直、現時点で相手に対して苛立っている。だが、真剣に考えているユエを思えば、邪魔はしたくない。相手を知りたいが、間違いなく査定は厳しくなる。複雑なんだ」

 組んだ手を額に当てて唸る犀慎は、的外れながらも心底ユエを思って苦悩している。

 そんな姿に琥珀は僅かばかりの希望を見る。

 以前から思っていたが、基本的に冷静な犀慎がユエが絡むと乱される。些細な事を受け流せずに考え過ぎて勘違いしたり、苛立ったりと見慣れない反応をする。まだ数十年、龍からすれば瞬き程の付き合いだが、犀慎らしくないように感じているのは琥珀だけではない。家族である玉蘭達や長い付き合いである聖辰達もなのだ。

 誰もが慎家は恋愛下手だと言うだけあって無自覚なのだろうが、本当にもしかするのだろうか。

「……犀慎様。参考までにお伺いしたいのですが……もし、ユエの想う相手が犀慎様だったとしたら、犀慎様はどうされるのですか?」

「!?」

 動揺も困惑も全てが吹き飛んだユエが目を剥いて琥珀を見遣る。

 だが、流石と言うべきなのかどうなのか、犀慎は参考までという琥珀の言葉を疑いもしない。

「成程……確かに偉そうにどうこう言っておいて、私ならばどうするかなど考えた事がなかったな」

 ふむ、と考え込む犀慎に皆が息を呑む。

「そうだな……父上は母上を妹のようなものだとずっと思っていたらしい。母上も頑張っていたらしいが気付かないまま千年程経って、周囲からいい加減身を固めろと急かされた時に母上以外の相手が浮かばなくて、その時初めて違うのかもしれないと気付いたのだと仰っていた。まあ、その先も長かったらしいが……」

「千年……」

 以前、秋霜がユエ達が思っているよりも慎家の恋愛下手は酷いのだと言われた事があるが、納得せざるを得ない。玉蘭もよく待ったものだ。責めたくなる気持ちもわからなくはない。そして、貞慎が寿命の短いユエには分が悪いと言った意味もだ。

「だから、私も貞慎も誰かに想いを告げられた時には、嫌悪感を抱いていたりしない限りは一旦考える様にと幾度も言われている。だが、その結論が出るのにどの位掛かるのか……」

 礼慎の時の事を聞いた今、誰もそれを否定する事は出来ない。

 難しい顔で唸るように絞り出した犀慎に、秋霜の言葉が現実味を帯びた。その相手がユエでなかったとしても、想っていた事に気付くのが相手を失った後だったとしたら、確かに悲劇だ。

「……それでなくとも、私は至らない所が多い。青藍達にはご高説を垂れておきながら、己の成す事には反省ばかりだ。ユエを幸せには出来ないだろうなぁ……」

「そんな事ありません!!」

 青藍達の前では話の腰を折るまいと止めたが、今度こそユエは否定した。その強さに犀慎が目を丸くする。

「さっきはお話の邪魔になると思って言えませんでしたが、犀慎様は俺に生きて行く為の知識と力を与えてくださいました。いつだって俺より俺の事を考えて、大事なものを大事にしてくださっています。犀慎様が至らないなんて事、絶対にありません!!」

「……だが、私はユエの母君を助けてやれなかった」

「……え?」

 話題が唐突で驚くが、犀慎にはずっと気に掛かっていた事であったのであろう。

 僅かに緊張した面持ちだ。

「どうして助けてくれなかったのかと思った事があるだろう?」

「ありませんよ……?」

 何を言っているんだとでも言いたげな、心底怪訝な様子で答えるユエに犀慎ばかりでなく貞慎も驚く。

「え?本当に?」

「一度もか?」

「はい。そんな八つ当たりみたいな事、考えた事もありません。だって、母さんの事はあの山で父さんや精霊達に会うまで犀慎様もご存知なかったんでしょう?ご存知だったなら、犀慎様は必ず母さんを助けようとしてくださった筈です」

「それはそうだが……」

 確かにユエの言う通りなのだが、疑いの欠片もない様子が盲目的な信頼にも感じられて、大丈夫なのだろうかと犀慎の頭を心配が過る。

 実際には信頼に足る姿を見せて来たというだけなのだが、犀慎にその自覚はない。

「それに……精霊に護られていた俺でさえああだったんです。そうではなかった母さんはきっと……」

「ユエ……」

「それに、確かに母さんが死んでしまった事は悲しくて寂しい事だったけど……必ず、誰かが傍にいてくれました。いつだって、俺を輪の中に迎え入れてくださいました。あの村では俺には父さんと母さんだけだった。でも、龍塞では誰も見た目だけで爪弾きにしたり蔑んだりなんてしなかった。慎家の皆様だけでなく、聖辰様や四家の方々さえ大事にしてくださいました。本当に最初は夢でも見ているのかと思っっていたんです。でも、夢なんかじゃなかった。俺は自分の気持ちも上手く整理出来なくて、御心配をお掛けしたり、困らせたりしてしまったのに、いつだって犀慎様は俺の事を考えてくださっていました。俺が下界に下りている間、父さんと母さんの墓を守ってくださっている事も知っています。俺に力を貸してくれる精霊達も皆、犀慎様が大好きです。とっくに犀慎様は俺を幸せにしてくださっているんです」

 ユエの言葉に犀慎も貞慎も呆然としている。

 八つ当たりなど、珍しい事ではない。今回も青藍にもファランにも八つ当たりされる心の準備は出来ていた。寧ろ、そうして少しでも感情を吐き出させる事で彼等の事もハイラン王国も護る事が出来るのならと思っていた。だが、思っていたよりも彼らが冷静に受け止めていて、逆に逃げずに向き合おうとしているからこそ、自分を責めているのはそれはそれで心配だ。

 ユエの時も、正直、犀慎は悲しみで一杯になっていたユエとまともな対話が出来るとも、その場で返事が返るとも思っていなかった。だがユエは一人では生きていけない事を知っていて、犀慎の手を取った。悲しみ、寂しがる事はあっても、ユエはきちんと母の死を受け止めていた。生活に慣れて落ち着いて来れば、色んな事に考えが及んで疑問や不満も出てくるだろう。溜め込ませずに吐き出させて受け止めなければと思っていた。だが、ユエはそんな素振りはみせなかった。どうする事も出来はしないが、駄々を捏ねても我儘を言ってもいいのにと、どうして母さんを助けてくれなかったんだ、出来ただろうと詰られても受け止めたのにと、逆に気を揉んだ。素直で優しく思い遣りのある少年はそのままで成長した。ずっとどこかで我慢しているんじゃないかと心配だった。

 だが、それは杞憂だったらしい。

 そんな不満さえ抱けない程に村での生活は酷いものだったのかと思えば怒りが湧いてくるが、予想外のユエの素直な感謝は心に沁みた。

「……困ったな。益々ユエが大事になってしまう……嫌な小姑になりそうだ……」

「姉上……まあ、わかりますけどね」 

 苦笑する貞慎も、内心では同じ事を思っている。うちの弟子は本当に可愛いと世界中に自慢して回りたい位だ。

「……正直、俺達も辛い時やどうしても呑み込めない事もある。でも、今のユエの言葉で少し救われた。ユエに会えて良かった。姉上と出会ってくれてありがとう」

「貞慎様……そんな、大袈裟です」

「大袈裟なんかじゃない。貞慎の言う通りだ。ユエには自覚がないのかもしれないが、度々ユエはこうして私達の気持ちを掬い上げてくれる。ユエも私達を幸せにしてくれているんだ。それを忘れないで欲しい」

「犀慎様……」

 以前言われた、癒しとはそういう意味なのだろうか。

 眩しいものでも見るかのような顔で微笑んでいる犀慎と貞慎に、そうであるならいいとユエは思う。

「……成程。確かに私達はこんな風に母様とお話しした事はなかったですね……」

「そうだな……もっと、メイファが大切だと伝えておけば良かった」

 ユエが突然の声に驚いて振り返れば、家主親子が屋敷から出て来た所だった。

 琥珀も気付いていなかったらしく、いつの間にと呟いている。

 ファランの目は赤く、瞳にはまだ悲しみが沈んでいる。だが、少しばかりの心の整理は出来たらしい。この屋敷の者として客人に向き合う態度になっている。

「……どこから聞いていたのかはわからないが、私達にも躊躇う時はある。メイファの事があったからこそ、切り出せた事もあるんだ」

 母の事だろうとユエにはわかった。

 ユエは本当に考えた事もない事だった。だが、犀慎も貞慎もユエは自身で考える事の出来る賢い子供だと思っているからこそ、自身を危うくするかもしれない疑問や不満を呑み込んでしまっているのかもしれないと危惧したのだ。有耶無耶になど出来なかったのはユエを想うからであろうが、本当にそう考えていた場合を考えれば口にするには勇気が必要だ。傷付く事さえ覚悟出来る程に想われている事がわかったからこそ、ユエも全力で否定した。

「俺も何度も失敗しています。最初の時は一番大切な事をお伝え出来ていなかった所為で犀慎様は誤解されて、随分お悩みになられて……。ついこの間もご心配をお掛けしました。認めていただきたいという気持ちもあって、なかなか上手くいかないんですけど……人間である俺の時間は短いからこそ、照れ臭いだとか恰好悪いだとかいう上辺の事に事に囚われて、本当に大事な事を見失ってはいけないと最初の時に秋霜様に教えていただいたんです」

 重ねて来た失敗。誰もが知っている訳ではないのだろう秋霜の後悔。はっきりとは口に出来ないものは何とか隠せるように言葉を選んで伝える。

 ユエが助けてもらったようには出来なくとも、何かの手掛かりになればいいと願って。

「……あなたは凄いのね」

「え?」

「私、大切なものを大切にするのは難しい事なんだってわかったの。その為に言ってくれた相手の気持ちをきちんと受け止めて、変わろうと努力する。私には出来なかった事が出来るあなたは凄いわ」

 ファランの真っ直ぐな言葉には称賛だけではなく、決意が滲む。

「そう、なんでしょうか……」

「ええ。自信を持っていいと思う。私ね、母様ともそうだったけれど、父様ともあなたや犀慎様のように自分の気持ちを伝え合った事はなかったの。上手く言葉には出来なくて、結局少しだけだったけれど、さっき母様の事を父様とお話しして……きちんと言葉にしなければ解り合う事なんて出来ないんだと思った。同じ母様を亡くして悲しい、なのに私と父様では少し違うから」

「……そうだな。確かに違う。同じではなかった」

 そもそも夫と娘だ。立場が違えば向ける情も違う。何に、どんな言葉に衝撃を受けたのかも違うだろう。

「……また後悔するのは嫌。私も変わらなきゃ……」

 ファランは犀慎と貞慎に向き直る。

「犀慎様、貞慎様お願いがございます。母の喪が明けたら、沢山の方と関わって、私に足りていない事を学びたいのです。その為にも、まずは以前仰っていたお弟子さんにお会いしてみたいです」

「うん、伝えておくよ。あと、お菓子の方も姉上が色々食べさせてくれると思う」

 茶目っ気を含んだ笑みを浮かべる貞慎の言葉に犀慎も頷く。

「……はい!」

 さっきの今だ、決してファランは悲しみから立ち直った訳ではない。悔いる気持ちとこの結末を選んだ母への反発がファランに前を向かせているだけだ。

 ファランや青藍にとっての己の価値に気付けなかったが故にメイファは心を壊した。そして、自ら命を絶つ事で、ファランや青藍の中に傷として己の存在を刻んだ。そんな事をしなくとも、心から消える事のない存在だったのに。

 傷に目を向ければ苦い想いを思い出すだろう。だが、傷を見ずとも忘れない。それが母に価値があった事の証だ。

 娘の踏み出そうとする姿を青藍は眩げに見詰めた。

 

前回の更新から大分間が空いてしまい、お待ちいただいた方には大変申し訳ございません。

現在、持病の薬の副作用が悪化しており、思うように書く時間が取れずにおります。

次もまた時間が掛かってしまうかもしれませんが、宜しければ最後までお付き合いいただけますと嬉しいです。

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