1.はじまり
数日前から降り続ける雨が、山の麓に位置する村に緊迫感を齎していた。
傍を流れる川は轟々と鳴り、茶色く濁った水は激しく波打ちながら川縁を打ち付け、時折飛沫が越えてくる。もう間もなく溢れようとしているのは、誰の目にも明らかだ。
川辺には村の男衆が集まっていた。
「……村長」
「……うむ。それしかあるまい……」
川が溢れれば、高台にある訳でもない村は水に浸かる。田畑も家屋も泥水に侵され、下手をすれば流される。ここ数年は収穫量が少々多かったとはいえ、貯えが然程ある訳でもない、決して豊かではない村だ。間もなく収穫を迎えようとする作物が駄目になってしまえば、厳しい冬をどれだけの者が越えられるだろうか。
――川を鎮めるしかない。
川が荒れるのは、川の神の怒りだという。川の神に贄を捧げ、怒りを解いて貰うのだ。
「……誰を?」
「そりゃ、ユエだろ?」
問いに答えたのは、長ではなくその息子だ。
それなりに村の事を考えている長とは違い、息子の方は軽薄な道楽者だ。女癖も良くない。
「一郎」
「あいつしかいねえだろ?あいつはよそ者の子だ。それにあの色……気味が悪い……」
「……」
ユエは、村の一角に母子二人で暮らす、五歳になる幼子だ。父は元は旅の者で、母であるサヨと恋に落ち、村に落ち着いた。しかし、昨冬に村の者達と狩りに出かけた山の事故で帰らぬ者となった。
この付近に住まう者は、大概黒から茶くらいの色合いの髪と瞳をしているのだが、ユエの父は銀の髪と淡く光を溶かし込んだような金の瞳を持っていた。ユエもまた、その父の色を受け継いでいる。
人は群れで生活する生き物だ。群れを形成し結び付く事によって、充分な食料を獲得し、身を守ってきた。一方で、結び付きの強さにより排他的になり、異物を敬遠する事がある。身を守ろうとするところから来ているのではあるが、それは時に狂気を産む。
「あの色はきっとその為の印だ」
「そうだな……あいつがいい。あいつしかいない」
「きっと川の神様もお喜びになる」
次々と賛同の声が上がる。
誰しも、己が身や大切な家族を差し出したくはない。我が身可愛さが村人を凶行へと走らせる。
そして村人達は、抵抗する母親からユエを奪い、川へ捧げたのだ。
「嫌だ……怖い……苦しい……助けて!!」
張り詰めて恐ろしい顔をした村人達に、何が起こっているのかわからないながらにユエは恐れを感じていた。
彼らに声を荒げる母に庇われ、しがみ付きながら震えていた。無情にも村人達は、そんなユエを母親から引き剥がし連れ去った。恐慌状態に陥ったユエはただ母を呼び、泣き叫んだ。しかし、村人達は止まらない。降りしきる雨の中を川辺まで運ばれ、狂気を取り繕えていない、表層だけの申し訳なさの浮かんだ気持ちの悪い顔の大人達に口先だけで謝られ、ユエは川へ投げ落とされた。
水の流れにもみくちゃにされ、口から鼻から入り込む泥臭い水に、ただ恐怖と苦しさしかなかった。
だから、目覚めた時のあまりの違いに呆然とするしかなかった。
育った村しか知らないユエには、とにかく見た事もない凄い場所だという事しかわからない。
初めは夢でも見ているのかと思った。しかし、身動きすると皮膚や身体に痛みを覚えた。そういえば、流された時に何かにぶつかったりしたような気もする。痛みを覚えた場所を見遣れば、白い布が巻かれており、少々薬臭い。手当てしてあるのだろう。
周囲を見回せば、これまでの生活とは雲泥の、ふかふかで綺麗な布団に天蓋付きの寝台。装飾の施された扉や柱のある広くて立派な部屋には、置き物や花が飾られている。幾何学的な模様の飾り窓から覗く外の景色は、花や木々、池、橋などが計算の上で配置されている庭だ。父母と暮らしていた家どころか、立派だと思っていた村長の家でさえ比べ物にならない場所に、ユエは口を開けて呆けていた。
そこに不意に声が掛かる。
「おや、起きたのか」
涼やかな声に振り返れば、これ程の美しい存在にはそうそう巡り合えないだろう事が、片手の指の数しか生きていないユエでさえわかる程に美しい娘がいた。愛らしいというよりは凛として涼やかで、やもすれば冷たい印象を受けそうなのだが、穏やかに細められた目元がそれを取り除いている。歳の頃は十八、九。腰の辺りまである、艶やかに濡れた光を返す射干玉色の髪。整った白皙には髪と同じ色の長い睫毛に縁取られた神秘的な青みがかった紫色の瞳と淡く色付く唇が載っている。装いには華やかさはなく、仕立ても飾り気がない。しかし、品が良い。ユエがこれまで着ていた物と似ている部分もあるが、ユエの知らぬ、海を越えた先にある大陸の東に位置する国の男の高官が着る物が一番近い。生地には艶やかな上質の絹が使われており、一目見て格の高さがわかるそれを違和感なく着こなしている。佇まいさえもが美しい、この邸宅に相応しいと感じられる高貴さ湛えた娘だ。
思わず見惚れて反応出来ないユエに、体調が悪いのだと勘違いをしたらしい。
「……大丈夫か?気分が悪いのか?」
間近で顔を覗き込まれて、ユエの鼓動が跳ねた。顔が熱くなり、どくどくと脈打つのが感じられる。
これはなんだろう?幼いユエには経験のない状態である。
「……顔が赤いな……また熱が上がってきたのか……?」
額に当てられた手は、ひやりとして心地良い。その心地良さに目を閉じると、鼓動が少し落ち着いてくる気がする。ほう、と息を吐いて目を開けると、娘は己が額とユエの額の熱を比べながら思案している様子だ。
「……少しばかり熱い気もするが……子供は元々体温が高いしな……」
僅かな逡巡の後、娘が問う。
「食欲は……腹は減っていないか?」
「お腹……?」
幼いユエに気遣っての嚙み砕いた言葉に反応したのか、ユエの腹の虫が絶妙な間で反応した。ぐう、と鳴った音に娘が小さく笑む。
「うん。粥を用意しよう。食べられるのなら回復も早い筈だ。少し待っておいで」
優しく頭を一撫ですると、美しい娘は再び去る。その背中を見送りながら、ユエはぼんやりと考える。
見知らぬ場所への動揺と若干の興奮で考えが及ばなかったが、そもそもここはどこなのだろう。この立派な部屋にしても、一部屋だけでユエが父母と暮らした家くらいの広さがある。ユエのこれまでとは生活格差がありすぎる。
勝手知ったる様子の娘は間違いなくこの家の者なのだろうが、そういえば名前も聞いていない。
何とはなしに感じる場違いさに段々と落ち着かなくなり、不安が首を擡げてくる。
「……待たせたな」
ユエの心情を察していたのかどうなのか。娘はさほど間を開けずに戻ってきた。そもそもが食事の出来上がる頃合いで様子を見に来ていたのかもしれない。
娘の手にある盆の上には、湯気の上がる椀と匙が載っている。
「自分で食べられるか?」
「うん……えっ?これ、全部お米?」
差し出された椀を覗いたユエは、驚きに目を見張る。
「そうだ。お前は丸三日寝ていた。いきなり具の入った物を食べては身体に負担が掛かる。だから、様子を見て変えてい……」
「違う。お米だけのご飯はね、お米が出来た後のお祭りの時しか食べられないんだよ?」
「……そうなのか?」
「うん。お祭りじゃないのに食べていいの?」
米だけの粥など、ユエには贅沢品だ。
ユエの生まれ育った村は、決して豊かなところではなかった。普段は米に麦や粟や稗を混ぜて嵩増しして食べていた。米だけの飯を炊くのは、実りに感謝する秋祭りの時だけだったのだ。
「勿論だ。数日は食べ過ぎないように気を付けなければならないが、身体の調子が戻ったら食べたいだけ食べていい。さあ、熱いから慌てずにゆっくりお食べ」
「うん!」
柔らかに促され、ユエは匙を手に取る。息を吹きかけて少し冷まし、口に運ぶと米のほんのりとした甘みが口に広がる。
「……おいしい」
自然と零れた言葉には力みがない。表情も緩んでいる。
心も身体もどこか緊張していたのだろう。緩んだところに本能が反応する。やはり身体が求めていたのか、一口食べると止まらない。徐々に急かされるように掻き込みだす。
「こらこら、慌てると火傷するぞ」
娘はユエを窘めつつも、その姿を穏やかに見詰めていた。
腹が落ち着いてくると、先程考えていた事が再びユエの頭の中に戻ってきた。
ここはどこで、娘は何者なのか。何故、ここにいるのか。問おうとして、ユエは失敗した。
「……あのっ、お姉さん。ここは誰?」
「んっ?」
間違えた。いや、混ざった。
忘れない内にと気が急いた為だろう。羞恥が湧き上がってくる。
しかし、娘に気にした様子はない。
「そうだな……まず、ここは龍塞にある慎家の屋敷だ。龍塞とは龍の住む里の事だな」
「えっ!?龍の住む?お姉さんも龍なの?龍ってすごく大きくて、蛇みたいにニョロっとしてて、角があって、あと、空を飛ぶんでしょう?」
川の神様の小さなお社にあった彫り物を見ながら、死んだ父が話してくれた事がある。
娘の驚きの発言に、ユエの羞恥などどこかへと行ってしまった。
どう見ても美しい人間の娘にしか見えないのだ。ユエの知る龍の姿とは違い過ぎて困惑する。
「そうだ。お前の言うような姿にもなれるよ。だが、普段はこちらの姿の方が都合が良くてな。あちらの姿は場所を取るし、こちらの方が細かい事をやるには向いている。こちらの方が暮らしやすいんだ」
「そうなんだ……」
確かにあの彫り物を思い出すと、身体に対して手足がかなり短かった。頭も大きかったし、角もぶつけたり引っ掛けたりしてしまいそうだ。人の姿の方が暮らしやすいというのも納得だ。
「それから慎家の事だが……慎家はこの龍塞を治める塞主様……人で言えば、国を治める王のようなものか?その塞主様を補佐する五つの家の一つだ。龍には人のように姓というものはないのだが、五家の者は以前の塞主様から頂戴した一字を名に入れて受け継いでいる。我が家は慎という字を受け継いでいるから、周囲は我が家の事を慎家と纏めて称するんだ。そして、私はその慎家の現当主で犀慎だ」
「犀慎、さん……?」
「ああ。お前の名は?」
「僕は、ユエ。お日様の沈む山の向こうの、海の向こうの国の言葉でお月様って意味なんだってお父さんが言ってた」
「ああ……確かにお月様の色だな」
優しく髪を撫で、瞳を覗き込む犀慎に、再びユエの顔に熱が集まっていく。胸がどくどくと音を立てて少し苦しい。どうやら犀慎の顔を近くで見るとこうなるらしい。
「……犀慎さん。ここがどくどくするのはどうして?」
胸を両手で押さえて上目遣いで問うユエに、犀慎は少し考えて答える。
「……そうだな。色々と理由はある。例えば、身体を動かした時。走ったりした後もそうなるだろう?」
「うん」
しかし、今回は当てはまらない。
「これは、経験があるかはわからないが……とても辛い物を食べた時や酒を飲んだ時」
これも違う。
「それから病気の時。熱があったり、心臓……そのどくどくの元になる臓器が身体の中の胸のところ……ユエが手で押さえている辺りにあるんだが、それの具合が悪い時。これは命に関わるから危険だ」
ユエは思わず不安になるが、犀慎は穏やかな表情のままだ。
「後は……感情が大きく動いた時。とても怒っていたり、とても嬉しかったり、そういった事でもどくどくする。目覚めた時から食後までの様子を見た感じだと、興奮したから、というのが一番考えられると思う。最初は物珍し気に辺りを見回していたし、今のも食前に米に興奮していたのに加えて温かいものを食べたからだろう。だから、胸の病ではない。あと、ユエは肌が白いから、色も上りやすいんだろうな。顔も熱いだろう?だが、心配はいらないよ」
「そう、なの?」
ユエの見解と犀慎の見解は違うらしい。首を傾げたユエであったが、ユエから見れば大人で、更には博識である様子の犀慎のいう事の方が正しいのだろうという気がする。そこから、興奮の理由に犀慎が思い当たっていないだけで、犀慎の顔を見て興奮するのだろうと結論付ける。ちなみに、何故興奮するのかはよくわからない。
最後にここにいる理由を尋ねようとした時だ。
――コン、コン。
扉を叩く音に視線を向ければ、犀慎より二、三歳ほど年下かと思われる少年少女がいた。多少の違いはあれど、よく似た二人からは血の繋がりを感じる。二人おそろいの鳶色の髪。快活な印象の少年は濃い蜂蜜のような色の瞳、清楚で可愛らしい印象の少女は夏の木々を思わせる深緑の瞳をしており、やはり顔立ちは整っている。
「犀慎様、薬湯をお持ちしました!」
少女の持つ小さな盆の上には、湯気の上る茶杯と小皿が載っている。薬湯と口にしただけあり、茶杯からは多少の青臭さが漂っている。
「ああ、ありがとう」
先程の犀慎の説明は聞いてはいたものの、幼い上に村の中しか知らなかったユエにはわかったようなわからないような感じで、何となくという程度の理解であった。しかし、少年の犀慎様という呼称に、村人や村長が村長以上の立場の者を様付けで呼んでいたのを思い出した。このユエのいる部屋からしても、間違いなく犀慎の方が村長よりも偉い。
犀慎は何も言わなかったが、本当はいけない事だったのではと考え、おずおずと犀慎の袖を引く。
「あの……犀慎、様……?」
「ん?……ああ、気にしなくていい。まだお前は身の振り方も決まっていないし、この子達は私の弟子だからな」
「でも、犀慎様がもの凄く偉い方だという事は変わらないぞ」
「こら、琥珀」
弟子の少年の方は琥珀というらしい。
琥珀の言葉にユエが反応したのに気付いて、犀慎が琥珀を窘める。しかし、今度は少女の方が口を開く。
「礼儀は私達の身を守るものだと、そう教えてくださったのは犀慎様でしょう?もしもがある以上、癖になる前に教えておいた方が良いと思います。この子、頭は良いみたいですし、ちゃんと理解出来ますよ」
「……お前達はしっかり者だな。確かにそうかもしれない。だが……まずは薬湯だ。それから、話を聞きたい。さあ、ユエ。この薬湯を飲みなさい。まだ、あちこち痛む筈だ。完全にとはいかないが軽減出来る。飲みにくいだろうが、きちんと飲めたら、蜂蜜を口直しにやろう」
「蜂蜜?」
その言葉に、ユエの瞳が期待に輝く。甘いそれを思い出し、口の中に唾液が湧く。
「好きか?」
「うん!」
ユエは蜂蜜に釣られ、再度促されるのを待たずに自ら差し出された茶杯を手に取った。
痛み止めだろう薬湯は、犀慎の言う通り飲みにくい。青臭さはユエには気にならない程度だが、苦い。
しかし、蜂蜜の為とユエは頑張った。
「うぅ~……苦いぃ……」
「よく頑張ったな」
最後の一口を飲み下すなり差し出された水を口に含み飲み込むと、口内に残る苦味は多少はましになる。だが、完全になくなった訳ではない。確かに蜂蜜は口直しである。
「さあ、お待ちかねの蜂蜜だ」
希少な蜂蜜は米以上に贅沢品だ。栄養があり、薬のように考えられてさえいる。
ユエの小さな人差し指で一掬いでも贅沢なそれが、小匙二、三杯分は小皿に入っていた。
「うわぁ……」
添えられた匙で少量を掬って口に入れると、粘度の高いそれが唾液で薄まり、独特の風味と甘みが口中に広がる。じっくりと口内で楽しんだ後でユエは漸く飲み下す。
幸せそうな顔でそれを繰り返すユエを皆が微笑ましげに見ている。
「……ユエ」
匙で掬えなくなるまで蜂蜜が減り、行儀が悪いとはわかっているが指で最後の最後まで撫で取ろうかと悩んでいると、小皿を渡すようにと犀慎が手を差し出した。
残念な気持ちでユエが皿を差し出すと、受け取った犀慎はそれに少量の水を注いで返す。
「!!」
意を汲み取って、ユエは匙を使って蜂蜜を水に溶かして飲んだ。全ての蜂蜜を食べきったユエは満足そうに笑む。
「ごちそうさまでした!」
「蜂蜜は、また次の薬の時にな」
「本当!?」
「ああ、約束しよう」
ご機嫌な様子のユエに小さく笑みを返すと、犀慎は面を改める。
「さて……では少し話をしたい。ユエ、お前は何故あんな状態の川で溺れていたんだ?足を踏み外したのか?」
犀慎の問いに、ユエの顔がさっと強張った。ここで目を覚ます前の出来事を思い出したのだ。
「……村の、人達が……いきなり家に来て……僕、怖かったからお母さんにぎゅってして、お母さんもぎゅってしてくれてたのに……。無理矢理お母さんから引っ張って……お母さんはやめてって言ったのに。僕も嫌だって言ったのに。川まで、連れて行かれてっ……」
思い出すと寒くもないのに身体が震えてくる。ユエは己が身を抱くが、震えが止まらない。
ユエの言葉は端的であったが、それでも何が起こったのかは充分察せられる。そして、ユエの様を見れば、それがユエにとってどれほど恐ろしい事であったのかがわかる。
犀慎はそっとユエに手を伸ばし、触れた。
「……わかった。もういいよ、ユエ。怖かったな……」
優しくユエの身体を犀慎が抱き締める。だが、まだ震えは止まらない。
「……犀慎様……僕、どうしてここにいるの?死んじゃったの……?」
ここはユエの知るどんな場所とも違う。幼子が狭い世界しか知らないのは当然と言えば当然の事ではあるが、あまりにも違う。
ユエの住んでいた村で死後に行くと言われていた理想郷、極楽だと言われて納得出来る程に恵まれているようにユエには感じられるのだ。
涙の混じった声で問うユエの背中を擦りながら、犀慎は優しく答える。
「死んではいないよ。ここは、生きる者の世界だ。ユエのこれまでとは大分違うようだからそう感じるのかもしれないが、ユエはちゃんと生きているよ」
「じゃあ、どうしてこんな見た事ない所にいるの?」
「助けを呼んだだろう?それが聞こえたんだ。人里近くで生きる龍ならば、住処の水場で人の声を聞く事もあるだろうが……ここで人里の声が聞こえるなど滅多な事ではない。だが、水が私に伝えてきた。きっとユエとは縁があるのだろうな……」
「犀慎様が助けてくれたの……?」
「そうなる」
じわりと犀慎の体温が染みてきて、少しずつユエの緊張が解れていく。
「僕、すごく怖かった……息が出来なくて苦しくて、痛くて……」
「ああ、怖かったな……でも、もう大丈夫だ。もう二度と、そんな目には遭わせない」
「うん……」
力強い犀慎の言葉に、ユエは犀慎に身を預ける。もう震えは止まっている。
犀慎は温かくて、どこか甘い、良い匂いがする。心地良くて、身体の力が抜けてくる。瞼も下がってきた。
そしてユエは、安心出来る場所で再び意識を手放した。
「……犀慎様、この子……」
眠ったユエを寝台に寝かせ、上掛けを掛けてやる犀慎に少女が問うた。
「予想はしていたが……贄とされたのだろうな……」
「酷い……どうして、こんな小さな子を……!」
「糞野郎が……!」
「翡翠も琥珀も優しいな……」
少年が琥珀ならば、少女が翡翠なのだろう。ユエを慮って声は押さえながらも、隠し切れない怒りを滲ませる翡翠の目には涙が滲んでおり、隣の琥珀は今にも噛みつきそうな顔をしている。
「……龍もそれぞれ色々な考え方をする。人もそうだろう。だが……私も許容は出来んな」
犀慎の顔からは表情が消えている。整い過ぎた顔から感情が消えると酷く冷たく見える。その見た目のまま、犀慎は静かに怒りを湛えていた。
「……ユエが元居た場所で生きるのは、もう無理だろう。どんな目に遭うかわからない。ユエの家族が納得していなかったのは救いだが、ユエを返すにしてもこれまでの生活は捨てる事になるだろうな……」
生贄にされた人間に、もう帰る場所などない。
神に捧げられたのだ。餌となるのか、傍に侍るのかはそれぞれの解釈であろうが、帰って来る事など想定していないのだ。そんな者が帰って来た所で、気に入られなかったと解釈されて碌な扱いをされる筈がない。
沈痛な面持ちで語る犀慎に、琥珀と翡翠も何かを堪えるような顔をする。
「ユエがもう少し回復したら、一度ユエの家族と話をしなければならないな。どうしようもなければ、龍塞で家族で暮らせるように整えてやらねば……。その時は、お前達も良き兄、良き姉として面倒を見てあげなさい」
「はい!」
「勿論です!」
辛い思いをしたユエが、せめてこれからは安心して暮らせるように。
師弟は優しい顔で、ユエの眠りを見守った。