第二話 滲み出る混沌
所狭しと立ち並ぶ美術的な建造物の狭い路地裏。男は息も絶え絶えに何かから逃げていた。
男の風貌はホームレスと言って差し支えないみすぼらしく、洗濯もまともにしてない汚い装いだった。50代そこそこのその男は怯え切っていた。
後ろを振り向いても誰もいない。だがそんなことお構いなしに無我夢中で走る。何も信じられないといった顔で、とにかく謎の恐怖から離れようと試みる。暗い夜道、前が良く見えない中躓くことも許されず、神経をすり減らしながらも前に進む。
突き当りを左に曲がった直後、目の前に明かりが射しこむ通路を見つけた。あれはこの迷宮の出口。表通りに続く安全地帯。人が行き交う大通りはこの恐怖からの解放を意味している。
(あそこに行けば助かる)
根拠はないが人混みに紛れたい衝動は心を浮つかせ、路地の出口を目指す。明かりが射しこむ路地を確認すると男の思った通り路地の出口だ。予想通り人が多く表通りを歩いている。
だが男はその浮つく足を止めてしまう。そこに行ければ助かるのだ。紛れ込めれば逃げられるのだ。そんな男の願いはその出口で待つ大柄な人影を見た時打ち砕かれる。男は踵を返しまた暗い路地へと入っていく。男の希望を真っ向から打ち砕いたこの大柄な人影は、その男を追ってのんびりと路地裏に足を踏み入れる。
身の丈180cmはある体躯は鍛え上げられ、服の下に隠しても隠し切れない筋肉が盛り上がる。何人か殺した事があるような鋭い眼光は一目睨まれたらゴロツキですら裸足で逃げ出すだろう。
不思議なジッパーが付いたニット帽を深く被って入るものの、彼の髪の毛の癖が強い為後ろ髪は反発するように跳ね上がってその存在を主張する。厚手のコートに黒いインナーを着込み、カーキ色のパンツにミリタリーブーツの軍人をイメージさせる。雰囲気だけで人を威圧する男がゴツリ、ゴツリとブーツを鳴らしながら男を追う。
「ひいぃぃぃぃぃ!」
男は情けない声を上げながらへっぴり腰で逃げていく。間抜けな様子だがかなり早い。急いで追いかけないと見失いそうだが軍人風の男は特に慌てる様子はない。
「遊びすぎじゃない?」
何処からともなく聞こえる声。それはこのニット帽の男に対して問われた言葉だろうが、男はそれを無視してそのまま歩を進める。
「無視しないでよ!聞こえてんでしょ?」
その声は女性の声で男に語り掛ける。その声は男から最も近く、すぐ傍から発されているが女性などいない。
「はっ!もしや私は消えているのかしら?この声は外に響いてないのよ!きっと!今ならどんな事でも言いたい放題だわ!じゃ早速……うんこー!うんこー!」
「黙れ……」
男は聞くに堪えかねて反応する。
「よりによってなんでそのチョイスなんだよ……」
「やっぱり聞こえているじゃない!!無視するなんて酷いわ!あんたのせいであんなお下品な事まで……あぁー!!恥ずかしい!」
その声は男の頭上から発せられていた。よく見るとジッパーの開閉部分が文字通りの口となり、パカパカと忙しなく開いては閉まり声を出している。本来あるべき頭部は空洞となり、口の中は暗く、舌はあるが喉などは見えない。歯は牙という形で生え揃い猛獣のように鋭い。虎ばさみの罠のように均等に牙が並んでいた。
「黙らないとその口閉じるぞ?」
「もう……分かったわよ……」
それを聞くなりブーたれて一瞬黙る頭。
「で?どうなの?さっさと仕留めたら?」
その状態は二秒持たない。ポケットに忍ばせた手を取り出し、左の掌に右拳を合わせてバンッという音を出す。その手は×字の紋章と、×の真ん中に目の様な模様のついた黒いグローブを嵌めている。そのまま指の骨をボギッと鳴らし、肩を回したりして体をほぐす。最後にグローブをギュッと嵌め直した。
「そんなに早く終わらせたいのか?……いいだろう……」
男は身を屈めるとその身を一気に伸ばす。その反動はあり得ない膂力を持って男の身長の何倍も飛び上がる。壁を蹴り上げ、三角飛びの応用でどんどん登っていく。
猫のように身軽だが、どう見てもその見た目、その重量には似つかわしくない。屋上から屋上を飛び、あり得ない速度でみすぼらしい男を追いかける。それは追いかけっこなどという生易しいものではなく、猛禽類が小動物を追いかける狩りに近い。
男との距離はみるみる近づき、その男を追い越す。屋上から軽やかに地面に降り立つ。六、七階上から飛んだというのに意に返すことなく着地してしまう。またもや男の進行方向を塞ぎ、男は逃げ道を失った。
もう止まれない。
男はニット帽の軍人に突っ込んでいく。どう見てもひ弱なこの男に筋骨隆々の軍人が負けるはずない。
だが事態は急変する。
男の体が膨らみ始め浮浪者のようなみすぼらしい体が一転、黒く染まり化け物のようにでかくなる。その爪は鋭利に尖り、口には牙が生え、怪物の様相を呈す。
「ゴロジデヤル!!」
その声は低く加工されたような声になり軍人に襲い掛かる。狭い路地一杯になったその体は、壁を豆腐のように難なく削り取り、その威力を見せつける。
そんな中にあって冷静に冷ややかにその様子を見つめる。ニット帽の口は今にもやって来る怪物を見て言い放つ。
「今日は豚の角煮が食べたいわ」
軍人風の男は拳を握り締めて立ち向かう。先程見せたその実力をこの化け物にぶつけるために、腰を落とし、重心を低く、まるで弓を引き絞るように拳を後ろに引く。
「贅沢言うな……」
男と3mに膨れ上がった化け物は狭い路地裏で誰にも見られることなくぶつかった。