~キミに興味があったから~
「たっかーい! ねえ、二人ともこっち来てよ! 学校あんな小さく見えるよ!」
雫が手すりに飛び付き、窓ガラスに額を押し付けた。
下校した俺たちは、この街にたった一つのシンボルである超高層建築物――《エアライン》の中層展望室に来ていた。凄まじくバカ高いこのタワーは、足の先からその天辺まで――天辺は見えないほど上にあるのだが――銀色に輝くガラスで敷き詰められ、さながら巨大な氷柱を思わせる外観をしている。
この建物の最大のウリは、展望室から一望出来る絶景にあるだろう。三六〇度全方位の大パノラマは、世界の果ての果てまで見渡せそうな景色を有し、まるでこの世を支配したかのような気分にさせてくれる。
鞍馬と雫の二人は、過去に何度か訪れたことがあるようだが、恥ずかしながら俺はこれが初めての観覧だった。いつでも行けるだろうと先延ばしにした結果、チャンスを逃していた。
「こわッ……でもすげえ!」
雫にならって外を、世界を見下ろす。洒落にならない高さだったが、その代わりに望める景色は恐怖をはるかに凌駕する。
普段冴えない我が街は、その沈み掛けた真っ赤な夕日に照らされて、まるで深紅の絨毯を敷いたように美しかった。所々に生まれる濃淡が模様のようにグラデーションし、遠く地平線まで隙間なく広がっていた。
「来てよかったでしょ?」
「ああ! おい、鞍馬もこっち来いよ」
喜色満面の雫に笑んで返した俺は、ふと気がついて後ろを振り返った。
「え、あ、ああうん」
どこか歯切れ悪く頷いた鞍馬は、そそとタワーの手すりに並び、大空に目を凝らす。
「あー、あたしたち明日卒業だよー。なんか高校生あっという間に終わっちゃったね」
「後半は特に早かったよな」
「受験もあったし。毎日息つく暇もなかったよ」
「ソウちゃんと颯はそうよね。特に颯は馬鹿だし」
「ぬぐっ」
否定したいところだが、雫の言うとおり受験勉強は苦労した。鞍馬も苦労しているが、それは志望校のレベルが高すぎるせいで、俺の場合はそういう話ではない。
「僕もっと色んな所に見たいよ。みんな行きたいところ、まだまだたくさんあるだろ?」
「あるある! あたし数えたらキリないよ。大学生って夏休み長いらしいし、いっぱい旅行しようよ!」
「これからも連絡、徹底しないとな」
鞍馬の言葉に雫が同意し、そこへすかさず俺が付け足す。
「うん、いっぱい連絡する」
他愛もない会話だった。言いたいことを言いたいだけ言う。途切れないように継ぎ足していく。まるで会話が途切れたらすべてが終わってしまうんじゃないかって、俺はそう思っていた。きっと二人も同じ気持ちなんじゃないか、って思った。
「あ、そうそう! さっきの奴、忘れないうちに渡しとくね」
「さっきの?」
やにわに鞄を漁り始める雫。彼女は花柄の手帳を取り出すと、数回をめくりそこに挟んでいた紙片を取り出した。
「はい、卒業式イヴ高校生最後の思い出」
手の平には一枚の紙片が乗っていた。ここに昇る前、一階のゲーセンで撮ったプリクラだった。
受け取ったそれに俺は目を落として、そして二人を見やった。
どこか胸が痛かった。強がったって内心は俺も鞍馬と一緒なのかもしれない。明日の卒業式で俺たちは別々の進路に進む。きっと会う機会も減る。親友と親友の幼馴染と、共有する時間がなくなる。
それはきっと必然だろう。もちろん鞍馬に話した通り、卒業したからって俺たちが一生会えなくなるわけじゃないとは思っている。ちゃんとお互いに連絡を取り合って、上手く時間を作っていけば、寂しくなることもないはずだ。
そう思う反面、しかしそれは言うまでもなく確証がなかった。やはりそれは大学生になってみなければわからないことで、漠然とした不安は拭えない。
でも、そう、それだって――きっとなんとかなるはずなんだ。
「じゃあ、俺こっちだから」
エアラインを降り、商店街を抜けて差し掛かった丁字路で、俺は片手を上げた。
幼馴染の鞍馬や雫と違って、俺はここで別れることになる。信号はちょうど我が家の方角に青く光っていた。
「じゃあまた明日」
じゃあねえ、と二人は手を振り、俺を見送る。
薄く微笑んで返し、点滅を始めた信号を小走りで渡った。とはいえ、今日ばっかりはその足も重たい。
行き交う車たちを横目に、肩に掛けていた学生鞄を脇で締め、左折してきた車を避ける。だが、まもなく信号を渡り切った先で、俺は不意に足を止めた。
「……ああ、なんだかなぁ!」
どうやらおまじないの言葉も今日ばかりは効果が薄いらしい。
片手で頭をひとしきり掻き毟り、俺は宮廷歌人もかくやと言わんばかりの後ろ髪を引かれる思いで、ゆっくりと後ろを向いた。いや、本当に何の脈絡もない行動だったんだよ、これ。
だけど――
――それは前触れもなく訪れた。
「え……?」
空気が止まった。音が止まった。
いつの間にか――
街が死んだように静止していた。
走っていた車は一つ残らずいなくなり、人の足さえついと途絶えた。
たちまち静寂が辺りを呑み込む。どこか周りの景色が色褪せて見える。それはセピア調というよりもモノクロ調で、一面に広がる灰色の空に我が目を疑った。無尽蔵に林立するビルはより鉛色に姿を強め、重く圧し掛からんばかりの威圧感を漂わせる。
無人の世界。無音の世界。俺だけの世界。
何も出来ず、そこに呆然と立ち尽くしてしまった。周囲を見回し、阿呆のように口を開けて景色を眺めることしか出来なかった。
やがて俺はあることに気が付いた。
横断歩道の向こう。さっきまで手を振っていたはずの親友とその幼馴染までもが神隠しのように消え失せていた。
「おい……勘弁しろよ……」
二人が消えたという事実を認識したことで、ようやくこの異常事態に恐怖が芽生え始めた。誰もいない世界が嫌でも終末を思い起こさせ、急な閉塞感が胸を打つ。そのひどい息苦しさに、俺はシャツのボタンを外した。
「誰か! 誰かいませんかッ!!」
声を張り上げる。だが、どこからも返答はない。どこにも音はない。
走り出したい気分だった。走って、走り回って誰かを見つけたかった。誰でもいいから見つけ出したかった。
とその瞬間、視界の隅で何かが動いた。咄嗟に俺は首を向けた。
「……あ」
女の子だ。商店街の入り口に女の子が立っている。
歳の頃は小学生くらいだろうか。無垢な白いワンピースに、霞むようなブロンドの髪が地面を撫でそうなほど長く伸びている。今にも折れてしまいそうな細い腕と脚。低いヒールの付いたこれまた白のパンプスを履いて、じっとこちらを見つめている。少女のすぼめられた小さな口は、両サイドに大きく吊り、不気味な笑みを形作っている。
この空間がモノクロ調なせいか、少女の全体像がどこかぼやけて見え、まるで霧の向こうを覗いている気分になる。
なのに――その長い髪に隠れた瞳は、隠れてもなおしっかりと俺を見据えているのがわかる。
「な、なあ」
今の俺にとって、少女に声を掛けることは必然だっただろう。すると――
ハ ヤ テ
「……え!?」
衝撃が走る。全身の毛が波を打って逆立つ。疑問がウィルスのように脳内を侵食する。
――なんで俺の名前を……。
見ず知らずの子供。話したこともなければ、ましてや出会ったこともない子供が、何故俺の名前を知っているのか。
俺が忘れているだけ? 違う、そんなはずはない。絶対に知らない。
疑問に呑まれ、わけもわからず俺はその場に立ち尽くした。たくさんの可能性を考えて、だけど一つもまともな答えは出て来ず……、
「さっきからなにをぼーっとしてるの? 颯」
「どわッ!」
突然肩に手を掛けられ、びくりと跳ね上がってしまった。見れば、不思議そうな顔をした雫が俺を見つめており、その隣には怪訝な顔の鞍馬が立っていた。
「様子おかしかったから信号渡って来ちゃったよ。大丈夫?」
珍獣でも見るかのように目をすがめる雫に、俺は説明せんと女の子を指差した。
「あ、いや、ほらあの子。あの子が俺の名前を呼んだから……あ、あれ?」
そこに女の子はいなかった。
いつの間にか、止まっていた音も、空気も、世界も息を吹き返していた。いなくなっていた車も人の足も褪せていた色も、すべてが元の知っている景色に戻っていた。
「誰もいないけど……」
鞍馬が雫と顔を合わせ、示し合わせたかのように首を捻った。
「……あ、ああ悪い。ちょっと今日はハメを外し過ぎたみたいだ」
そんな生返事をしながら、俺は再度少女のいた方向を眺めた。
――なんだったんだ? 今の……。