~エキストラは突然に~
唐突な逃亡は、バックドアの白い世界を目の当たりにすると同時に、唐突に終わりを告げた。はづきの用意した裏口は、俺とまどかをその内部に残して跡形もなく消えてしまった。いくらもがいても引き返すことは――絶対に出来ない。
「うっ……ううっ」
堪えても止まってくれない涙をそれでも押し留めようと、まどかは白色の床に膝を突いた。
何分が、何時間が経ったのだろう。俺は言葉もなく、彼女の丸くなった背中を見ていた。逃げる寸前、グングニルに破かれた彼女のコートがどこか痛々しかった。
「……八神」
声を掛ける。子供のように泣きじゃくる彼女をこのままにしてはおけなかった。だが、
「……」
返答はない。音を飲まれた白色の世界に響くのは、ただ彼女のすすり泣く声だけだった。反響もせず、感動もせず、白色の世界は物言わず俺たちを見下ろしていた。
やがて――
「わ、私が、ルーインに侵入した最大の……理由は、うっ、捕まった、ただ一人の姉を助けること……で、そのために厳しい訓練をしました……やっと、やっとここまで来たのに――」
失敗してしまった、と彼女は嗚咽を片手で止めながら言った。
そんなこと聞かなくても、はづきに会った時の嬉しそうな態度で察しはついていた。
「他に方法はないのか? はづきを助ける方法は」
「現状は……ありません。私たちがお姉さまと、接触してしまった以上、お姉さまに……対する警戒レベルは引き上げられた、はずです……そも、そも、あれほど簡単に出会えたこと自体が奇跡だった……もう先ほどの、ようには、行きません。それに……生きているかどうか」
「……おい」
打ちのめされ、悄然とした彼女の態度に黙っていられなかった。
「お前、なんで諦めんだ。そんなの全然お前らしくねえよ。いつもみたいに堂々としろって」
柄にもない俺の言葉は、それさえこの世界では反響しなかった。
だが、目の前のまどかに伝えるには充分だった。俯けていた顔を上げ、彼女は涙に濡れた瞳を俺に向けた。くしゃくしゃに歪んだ顔を俺に向けた。
「俺、お前のことすごいって思ってたんだ。俺と大して歳変わらないのに、いつだって冷静で、俺の質問はすぐに答えられる。あのロボットにだって負けない。それって全部姉を助けるために努力した結果なんだろ! それ、すげえよ!」
俺みたいに感情的になって親友に銃を向けてしまう馬鹿な人間には、到底マネのできない芸当だ。温室で育てられた俺に、彼女のストイックな精神は持てない。
正直、はづきのことは『ミストラル』創設の件もあって、好きにはなれないし捕まったままでいろとさえ思う。だけど、その感情を妹のまどかに向けるのは筋違いで、こうして頑張る彼女を目の当たりにしていたら、このくだらない私怨をほっぽり投げたって構わない。ここまで来たらヤケクソだ。もはや世話好きも真っ青のお節介焼きだ。
「誰でもない! これは八神まどかにしか出来ないことなんだよ!」
そう叫んで、唐突に耳が熱くなるのを感じた。まるで告白でもしている気分になって、急に恥ずかしさが込み上げてきた。今のはやっぱなしだ。
「……あ、あ」
悶々と格好の悪い男を見上げた少女は、きつくと唇を噛みしめた。一滴の涙がこぼれた。
やがて、手を突き悠然と立ち上がると、彼女は濡れた顔をコートの袖で拭き付ける。美しい柳眉をかざし、口は真一文字に引き結ぶ。いつものように、いつもの八神まどかのように。
「……あるには……あります。ただし、成功する保証はありません」
「それでもいい。聞かせてくれ」
「このルーインを完全に破壊してください」
「……破壊って……ま、また大きく出たな」
即座に冷める。ノア――海馬沙耶を殺すのも大概だが、この世界ごと壊せと言うのは、これまた凄まじい。
「この世界を根本的に破壊すれば、収監されている人間は皆、現実で目が覚めるはずです。囚人の場所は、ノアとは違って我々の知るところ。全員が目覚めたことにより発生するであろう混乱に乗じてお姉さまの身体を奪取します」
「その作戦、上手く行くのか? いや、今はそれしかねえんだよな」
「すみません。現状はこの策しか……」
「やってみよう……きっとなんとかなるさ」
俺は、バックドアの出口を目指そうとまどかの背を押した。
その背から小さく、ありがとう、と声がしたのを、俺はあえて聞き流した。
バックドアの仕組みは、いまだはっきりとはわからない。許可のある者以外は不可侵であったり、入り口と出口は必ず一方通行だったり。最終的にある程度歩くとスチールや木、鋼鉄、大小様々な種類の扉の群れが現れ、適したドア以外は開くことがない。
まどかは同時に複数現れたドアのノブを片端から回し、すぐに一つの答えを引き当てた。
「お姉さまの用意したこの扉がどこに繋がっているのか、私にもわかりません。敵の本陣のど真ん中に出てしまうことも万が一にもあるかもしれません。心の準備はいいですか?」
「盛大にやってくれ」
その返答に彼女は苦笑した。そして握るノブを慎重に押した。
「――――ッ!」
風が吹き込む。身も飛ばされそうな強い突風に二人のコートが激しくはためいた。
「どこだ、ここ?」
どこか寂しい空気が漂う場所にいた。足元が固い。少し前まで、しこたま自然物を踏んで慣れていたせいか、その固さが妙に居心地悪かった。
見渡せば、視線の先に夜空が見えた。そこに浮かぶ綺麗な満月が漆黒の中でアクセントとなり、俺達を照らしている。
しかし、外にいるわけじゃない。足元も天井も冷たい灰色のコンクリートが覆っている。数メートル先に鉄骨のむき出しになった数本の柱があり、よくよく見ると、月が浮かぶのはガラスのない窓の向こう。なるほど、ようやくどこにいるのかがわかってきた。
「ビルですね……それも工事途中の」
同じ結論に至ったまどかがいた。窓際まで移動し、俺はそこから下の景色を窺った。
吹き上げた風が頬を撫でる。ビルは相当高く、眼下に広がる都市部は穴の底ように暗い。
「どうやら街に戻ってきたようです。見てください」
隣に並んだまどかが片手を上げる。指を立て、とある一点を示す。
彼女の示した方向には、俺の街でシンボルになっている一本の塔が立っていた。
この街には不釣り合いに大きく、世界のすべてを反射しそうな無数の鏡に覆われた銀色の塔が、闇の街の中でも、まるで魔城の異彩を放って屹立していた。天を突く塔は、上に行くにつれて細く矢じり状に姿を変えていく。
ああ、間違いない。あれは俺の街にあるたった一つのシンボル――エアラインだ。
ところが、そう得心する俺に、まどかは奇妙なことを言い出した。
「あれが私たちの最終目的地、ターミナルです」
「は? 何言ってんだよ、お前」
「いえ、間違いありません。あれがターミナルです」
再度強く言い放たれた言葉に俺は言葉を失った。
だってそうだろう。あれは街を一望するために建てられた、いわゆる娯楽施設なんだ。実際、卒業式の前日、俺と鞍馬と雫の三人でここを訪れた時は、ゲーセンとか、グッズショップなんかがあって、ターミナルなんて呼ばれるに値するような施設には見えなかった。それが政府の重要な場所なわけがない。
「し、信じられねえ。あれが……ターミナルって、ありえねえよ」
「あなたはあれがターミナルではないと言い切れるほど、あの建物を隅々まで調べたことがあるのですか?」
「……え」
口ごもる。その指摘はごもっとも。すべての階の、すべてのフロアを見てきたことはない。そもそも、一度しか行ったことがない場所なのだから、それも無理はないだろう。
だが、奇妙な建物だとは思っていた。
あの日――卒業式の前日、中層展望室を目指すエレベーターの中で、停止ボタンがない階層をいくつも通過した。従業員用の何かだろうとその時は思ったもんだが、それは一つや二つではなく、かなりの数にのぼる。凄まじくアホみたいな高さのほんの一部しか触れておらず、はるか天を貫く建物の上層に何があるのかなんて見当もつかない。
言われるまで気にも留めなかった。仕組まれたように考えが浮かばなかった。
「あれが……ターミナル?」
本当に何も知らないんだな、俺は。八神に聞かされたたくさんの真実なんて、まだごく一部に過ぎなくて、知らないことは山のようにたくさんあるんだな。
不気味にそびえる塔を遠望し、俺は立ちすくんだ。
――その直後、声は聞こえた。
「何も知らない。何も教えない。それがゼロワンに用意されたシナリオだからな」
咄嗟に振り返り声の方向を睨んだ。暗がりになった柱の隅から軍服をまとった男性が姿を現す。がっしりとした身体つきに若々しい顔を載せた男性は、それに似合わない剣呑とした表情を顔面に貼り付けていた。
全身が堰を切って熱くなる。その顔に俺は衝撃を受けずにはいられない。まさかここでまた会うことになるとは思わなかった。まったく、スーツよりもさまになってるな、その軍服……。
「……親父」
「また会えるとは思ってなかったよ、颯くん」
親父はその険しさを顔に残したまま口の端を吊り上げた。
「八神まどかくん、だったかな。遊びも飽きただろう? そろそろそいつを返してくれないか。こっちも上がご立腹でね。気が気じゃないんだ」
「どうしてこの場所がわかったのですか」
親父の要求を端から聞き入れず、まどかは彼を細く睨み噛み付いた。
「キミにしては愚問だな」
そう言って親父は軍服の胸ポケットから何かを取り出し床に滑らせた。ひらひらと木の葉のように落下したそれは、一辺十センチ程度のいびつな黒い布だった。それには見覚えがあった。
途端にまどかの瞳は丸々と広がり、破けたコートの裾を掴んだ。忌々しげに歯軋りが鳴る。
「慎重派のキミには考えられないミスだな。これを回収されて、すぐにこちらが解析を始めるとは思わなかったかな?」
得意満面な親父の表情に、まどかの表情はさらに歪む。握り拳が固くなる。
「ここは私が引き受けます。先にターミナルへ」
小声で耳打ちされる。譲らない意志がそこにあるような気がして、何も言うことが出来なかった。俺は、彼女を残してその場を離れようとした。
そこへ――軋みを上げる駆動音が辺り一面にけたたましく鳴り響いた。
途端、まだ窓のハマっていない枠の外から、一斉にグングニルが飛び込んできた。
数は五。一直線にこちらに向かうロボットは……いや、違う。あれは――なんだ。
「ロ、ロンギヌス!」
割れんばかりのまどかの叫びがコンクリートを揺らした。
それは俺たちの前に幾度となく立ちはだかり、邪魔をしたあの青いロボットではなかった。
全身を覆う流線型の形状はそのままに、だがあの特徴的だった青いフォルムは一新され、鮮やかな赤色に統一されている。丸い頭部にはグングニルの一角とは違い、まるで王の冠を思わせる五本の角が放射状に伸びている。両手にびっしりと揃い、研ぎ澄まされた鉤爪はなくなり、代わりにその手にはその二メートル近い体躯に並ぶ、長い薙刀が握られていた。
「グングニルの改良型、ロンギヌスです」
「改良型?」
「はい、世界最大のロボット軍需企業ゼネラル・ハーネス社が巨額の資金を投入して、開発、設計した最新鋭機です。……あれが持つ性能は、もはやグングニルのそれとは比べ物になりません。あの数は……」
末尾を言い終わるか終らないかで彼女の頬を汗が伝った。俺は唾を吞み込んだ。
五体のロンギヌスが近づくさまは死の足音となって心を圧迫する。
あれは完全に人を殺すための機械だ。機械の握る薙刀の先端には中国刀のように幅の広い刃が長々と輝き、薄く青白い電界を帯びている。
「大人しくゼロワンをこちらに引き渡すなら、身の安全は保証しよう。まあルーイン送りは免れないだろうがね」
ふっ、と親父は鼻で笑う。悔しそうに沈黙するまどかに優越感でも浸っているんだろう。言い返そうにもこの状況がいかに絶望的か、彼女には否応なしに理解出来てしまうに違いない。
「か弱い女の子相手に、ちょっとやり過ぎなんじゃねえのか」
ならば、と俺はまどかをかばうように親父の前に立った。
「ふむ……少し黙っててくれないか、ゼロワン。私は彼女と話をしているんだ」
高圧的な態度で睥睨した親父は、俺を識別番号で蔑視した。
それは俺の怒りを買うには充分の悪罵であり、脊髄反射で俺は叫んでいた。
「ふざけんなッ!」
爆発した怒りはあっさりと喉を通った。
「さっきからゼロワンゼロワンってうるせえよ! 俺の名前は――東雲颯だッ!!」
乗った勢いをそのままに、背後に立つ少女に呼び掛ける。
「まどか! こいつの言うことを聞く必要なんかねえよッ! 俺がお前を守ってやるッ!」
「なっ……どうやって……」
まどかの声が震える。その質問は至極当然で、あいにく大見栄を切れる良案を持ち合わせちゃいない。
でも――やってみなけりゃわからねえんだよ。
「きっとなんとかなる! 諦めんなって言っただろ、俺を信じろッ!」
その後数秒間、俺の顔を丸く黒い瞳で見つめたまどかは、はあ、と一度長い溜息を洩らした。そして思いっきり自らの頬を叩くと、瞬く間に出現させた鮮やかな刀を毅然と振った。
「あなたといたら命がいくつあっても足りそうにありませんね……」
彼女は自嘲気味の笑みを浮かべ、鋭い眼光を機械の群れにそそぐ。
「いいでしょう……ロンギヌスは私が引き受けます。ですから、あなたはあいつを頼みます」
五体の機械に挑み掛かる彼女を向け、親父は駄々をこねる子供を諭すように声を上げた。
「やめておけ。もう終わったんだよ、キミたちはよくやった」
「お前の相手は俺なんだよ!」
左手を伸ばし、親父の胸倉を掴んだ。込み上げる怒りで全身が熱くなる。
「お前は、少し年上に対する口の利き方を学ぶべきだろう」
「悪いが、くそ野郎に使う敬語は切らしててね」
「愚かだな……」
俺の腕を振り払い、乱れた軍服の襟を正しいながら、親父は首の骨を二度三度鳴らした。次いで拳を顔の前に持ち上げる。
「防衛局特殊実戦隊隊長、東藤泰孝。武勲をたてさせてもらおう」