7 悪役令嬢の歪
ノア・オルコットは愛を嫌う。
触られたり、抱き締められたり、口付けされたり、愛の言葉を囁かれたり、そういう『普通の愛』を嫌悪する。
だって、彼女にとっての愛の形は、暴力でしかない。
虐めて、殴って、蹴って、それが彼女の中での正しい人の愛し方だ。
それが唯一の正解で、それ以外は、あっていい筈がない。
普通の愛は、彼女の中では異様なモノ。
そんな得体の知れない感情を向けられるなんて耐えられない。
例えて言うなら、普通の愛し方をする人間に向かって、ドMが「踏んで!!」と呼びかけるとする。大抵の人間は、気持ち悪いと思うだろう。きっと、自分と違う愛の形を持つ存在を受け入れることはできない。人間とはそういうものだ。
そしてそれはノアも同じだ。
異常な愛を見て周囲の人間が嫌な顔をするように、所謂『普通の愛』というやつを受ければ、彼女も不快感を覚える。
彼女にとって、その愛の存在は異常だ。
自分の根幹を否定するものでもある。
しかし、彼女も馬鹿ではない。周りの人間が、どういう風に愛を表現するかなんて勿論知っている。だから彼女はこう捉えて逃げるのだ。
『世の中にはいろんな変態がいるなぁ』と。
好きな人に優しくされたいだなんて、撫でられたいだなんて、口付けをされたいだなんて、とんでもない変態だと思うけれど、でも愛の形は色々だ。公爵令嬢たるもの、公に差別をしてはならない。たとえ心の内で侮蔑していようと、彼女の言葉には多くの責任が伴う。軽率にそういうことは言えない。
しかし頭では分かっていても、体はまだ納得してくれていないらしい。
刻まれた愛を否定する、周囲の説く『愛』を、体は受け入れない。
普段は、その拒否反応は理性で押さえつけている。しかし、ふとした瞬間……例えば、直接そういう愛を、大量に注がれたりなんてすれば、その理性は決壊する。
すると、体が拒否反応を起こすのだ。
猛烈な吐き気と、心臓が爆発してしまいそうな程の動悸。ぶっ倒れたことも少なくない。
歳を重ねるに連れ、過去から離れるに連れ、その頻度は少なくなっていたが……今回は、セドリックと長時間一緒にいたのがまずかったらしい。彼の注ぐ愛は、ノアには重すぎる。
「っは、はー……」
人混みを切り裂くように突っ走り、ノアが駆け込んだのは、誰もいない路地裏だった。一般庶民ごった返すあの通りで、ノアの身なりは目立つ。
なにより、今は一人になりたかった。
誰の視線も感じたくは無かった。
ばくばくと、がなる鼓動を抑えつけ、壁に持たれてそのまま地面にへたりこむ。
「……っ」
──── やってしまった。
自己嫌悪がひしひしと心を蝕んでいく。どうしてこうも、自制出来ないのだろうか。情けない姿を兄に、従者にまた見せてしまった。公爵令嬢失格だ。
……それに、何よりもあの顔。
セドリックが一瞬浮かべた、あの悲しそうな表情。
ノアが発作を起こす度、彼はああいう顔をする。痛いところも苦しいところも無いはずなのに、まるで自分自身が傷つけられたみたいな顔をする。
ノアはその顔を見るのが、本当に嫌いだった。
自分の抱える愛は間違っていない筈なのに、まるで憐れまれているような気分になるから。
悪いことをしている気分に、なってしまうから。
「……っ本当に嫌いですわ、あの男」
掠れた声で、小さくそう舌打ちを打つ。ぐちゃぐちゃに渦巻く感情の行き場が分からなくて、ノアはぎゅう、ときつく拳を握った。
一体どれだけの時間、そうしていたのだろう。ようやく、周りを見る余裕が出来た頃には、青空は色を変えて茜色に染まり、路地裏に影を落とし始めていた。
「……どうしましょう」
このままここにいる訳にもいかない。
冷え込んできたし、夜までに帰らなければ屋敷は大騒ぎになるだろう。自分を慕ってくれる使用人達に迷惑をかけるのは、本意では無い。
だけど、帰りたくなかった。
セドリックに会いたく無い。怖い。
ノアが戻れば、きっと彼は、逃げた事を怒りもせずににこりと笑うのだろう。そして、あの腕でノアをひしと抱きしめるのだ。「可愛い妹が無事でよかった」なんて。
そんな事をされれば、今度こそ卒倒する自信がある。再び襲ってきた吐き気に、ノアは小さくうめき声をあげた。
二つの影がノアの前にぬっと現れたのは、そんな時だった。
感じた気配に、顔を上げたノアの視界に入ったのは、自分の目の前で下卑た笑みを浮かべる、貧相な身なりをした太っちょの男と、ガリガリの男だった。
「よぉう嬢ちゃん。こんな時間に何してんだい?」
「ゲッゲッゲッ。ここらの市民にしちゃ、随分いい身なりじゃないでヤンスか。アンタ、貴族サマざんしょ?ちぃと恵んでくれでヤンス!」
「……うわぁ」
どこからどう見ても、悪党だった。
12時代に、またもう一話投稿します。