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てのひら

 笑い方を忘れた。





 真っ白な雲が悠々と泳いでいく空を眺めながら、私はひとり、寝転がっていた。

熱を帯びたアスファルトは体をこれでもかと焼くけれど、今の私にとっては毛布に包まれているような暖かさに感じられた。

 耳障りな予鈴の音が、時を知らせる。そんなもの知ったことかと、寝返りをうった。

 風に吹かれて、金網がかさかさと音を立てる。どこからか香ってくる雨の匂いが、この晴れが長く続かないことを予感させた。

 学校の屋上は、私の憩いの場。授業をサボってはこの場所でのんびりと一日を過ごす。

 時折、見回りの教師が来るけれど、隠れる場所なんていくらでもある。階段を叩くスリッパの音なんて、ちょっと耳を立てていればすぐに気付くことが出来る。


「またサボってる」


 目の前が急に暗くなって、ふと目線をあげた。

私の顔を覆いつくす影。長い髪が風に揺れてふわふわと波打っていた。

「利奈」

 西川利奈。小学生の頃からの親友。中学も一緒、高校も一緒。ずっと一緒に歩いてきた無二の親友は、その優しげな大きい目を細めて、私の顔をのぞきこんでいた。

「最近、教室にいないらしいね」

「……息苦しいんだもん」

 利奈は長いため息をついて、私の隣に腰かけた。私は仕方なく起き上がり、利奈と同じように膝を抱える。

「どうして?」

「利奈がいないから」

 高校に入ってから、利奈とは別のクラスだ。

 小学校からの付き合いだ。別々のクラスだったことなんて何度もあるけど、小さな町に住んでいた私達が通う小さな学校では、離れたクラスになることなどなかった。

 私達が進学したこの高校はマンモス校と言われるほどの規模で、当然ながらクラスの数も多い。そのため、お互いの教室は遠く、階数まで違ってしまった。本当の離れ離れ。


「私がいなくたって、やってけるでしょ」

 利奈は甲高く笑って、私の戯言をあっさりと退ける。

「でも、寂しいんだよ」

 膝に顔をうずめて、泣き言を吐いた。

 利奈が近くにいない日々は、苦しいだけだった。自分の周りだけ空気が希薄になってしまったかのような、焦燥感。

 ふとした瞬間に考え込んでしまう。私はどんな風にまばたきをして、どんな風に息をしていたのか。

 そんなことを考えると、自然に出来るはずのことを気持ち悪いくらいに意識してしまって、体が震えてしまう。


「笑ってればいいんだよ」

 利奈の目は空の色を映して、ゆらゆらと揺らいでいた。

「笑えばいいんだよ。辛いことなんて吹き飛ぶよ」

「吹き飛ばないよ」

「吹き飛ぶよ」

 強く、利奈は叫ぶようにそう言って、髪を左手でカシカシと掻いた。


「忘れた方がいい」

「どうして」

「あんたは何も悪くない。私が、選んだことなんだよ。私が、そう望んだことなんだよ。あんたは悪くないんだ。だから、ここに来ないでよ。懺悔みたいなまねをしないで」


 利奈の手に長い髪が何本も絡みつく。黒ずんだ液体が手にこびりついて、その手を汚していた。

「利奈がいじめられてるの、気付いてた……」

「知ってる」

「何も出来なかった」

 教室の片隅で行われる、残虐な行為。それを想像するたび、私は怖くなって、震え上がる。私が笑っている時、利奈は泣いていた。私が笑っている時、利奈は、ここにいた。

 ここで、利奈は――


「笑い方なんて、忘れちゃったよ」

 どうやってまばたきをしていたのか。どうやって息をしていたのか。どうやって手を動かすのか。どうやって足を動かすのか。どうやって笑うのか。

 私には、思い出せない。


「ねえ、手の平、見せてよ」

 利奈の手が、私の手に伸ばされる。赤黒く変色したその手はすっかり冷え切っていて、熱に浮かされた私の手に心地良さを与える。

「生きてるの、わかる?」

 利奈の手に導かれ、丸く広がる大空に手をかざす。「てのひらを太陽に」なんて歌があったことをふと思い出した。

「あんたの手の平にはさ、いっぱい明日が詰まってるの。脈打ってるの。わかる? 生きてるの、わかる?」

 どく、どく、と血が流れる音がする。

 脈打ち、熱を発し、巡る。私の音。


「私がいなくても大丈夫なの、あんたが一番わかってるはずだよ」

「でも」

「でももすともない!」

 利奈は少し低めの声を張り上げて、すっくと立ち上がった。短いスカートから伸びた細い足が、ぎこちなくわなないた。

「思い出せるよ。笑い方なんて、すぐに。あんたなら」

 まっすぐに歩み始める。ひきずる足が重そうだけど。利奈の目線はいつだって遠い場所に向かう。


 金網が揺れる音がする。かさかさと蠢いて、その先の空虚な場所と、確かにある地面を隔てる。

 行ってはいけない場所。越えてはならない境界線。

 あの先に、利奈は行ってしまった。


「また会えるかな?」


 私の問いかけに、利奈は振り返ることは無い。


「会いたくないね。あんたがババアになるまでは」





 目が覚めると、そこは病院だった。いつの間に寝てしまったのだろう。

 ここに運び込まれたのは、夕べのことだった。町内会の集まりとかで、親がいない隙を突いて、私は前々からやろうとしていたことを実行した。

 手首に巻きついた白い包帯をなでながら手を動かすと、きりきりと鋭い痛みが走った。

 馬鹿なことをした。勝手に流れる涙を包帯ににじませながら、私は体をひねった。

 足も動く。手も動く。息を吸うことも吐くことも、まばたきだって出来る。

 唯一出来ないのは――




 笑い方を忘れた。

 でも、わずかに残る。

 それはいつか芽吹き、受け止める日が来るだろう。

 確かな熱は、まだここにある。


 その日が来るまで、ずっと。


 このてのひらに。




この作品のみ最近書いたものです。



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