埼玉 喜多院
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埼玉にも有名なお寺があるのか、と尋ねられれば、実は沢山あるのだ。ただ京都の寺みたいにでっかい寺というわけにはいかない。ただ歴史から言えば、川越の喜多院は天台宗の有力な寺院だったといえる。
ちなみに、埼玉の他の霊場というと、秩父三十四箇所観音霊場などがある。ここまでは、このシリーズでは触れられないと思うので、一応、名前だけ触れておく。
喜多院の話に戻るが、江戸時代の始めの頃、天台宗のこの寺は、比叡山延暦寺を末寺として、その支配下に置いていた。これは家康の仏教統制のひとつであった。あの泣く子も黙る比叡山延暦寺に、再び軍事力が備わらぬよう、家康は慎重だったわけである。比叡山延暦寺を喜多院の配下とすることで、これを抑圧したのである。
また西国に対して、東国の地位を高くすることも仏教統制策として必要であった。
江戸時代には、本末制度と檀家制度と言われるふたつの制度が整えられて、これが江戸仏教の特色となった。本末制度は、本寺と末寺という寺院間の主従関係を生み出し、檀家制度は、菩提寺と檀家という寺院と庶民間の密接な関係を生み出した。この政策の狙いは、一元的な寺院と民衆の統制に他ならなかった。そうして、江戸幕府を頂点とするヒエラルキーの中に、宗教権力と一般民衆を完全に閉じ込めようとしたのである。
この政策が悪くて、仏教の思想の停滞を生み出したというのが、従来の定説である。しかし、この檀家制度こそが、当時の日本人を総仏教徒化させたわけで、これを基盤として多くの民間信仰が生まれることになったといえよう。
ここで、こんな歴史の話をしていると、また理屈っぽいエッセイだと勘違いされてしまうので、川越の話にでも変えよう。
川越の町は、火事が多かったらしく、防火の為に蔵造りの建築となっている。そういうわけで、町を歩いていると、古い街並みに出会えるのだ。
あとは芋だ。川越とは、一言で言うならば芋の町なのである。右を見れば芋、左を見れば芋。お芋こそ、川越のシンボリックな食べ物なのだ。アイスクリームもさつまいも味だし、和菓子だって、洋菓子だって、お芋がたくさん入っているのだ。さつま芋の壺焼きは甘くて美味しい。
ただ、僕は川越に観光で来ることはあまりなかった。観光ではない用事から、月に一回ほどのペースで訪れていたが、大概、某ハンバーガーチェーン店で、お昼を食べていたので、あまり川越観光は語れないのかもしれない。
また、ある日、僕は散歩にはまっていたせいで、池袋から川越まで徒歩で移動することにした。その結果、道中、足をひどく痛めてしまったのが、今では忘れられない良い思い出だ。この時も、川越観光の余裕はなかった。
それでも、川越祭りでせっせと山車が練り歩く頃、僕はたまらなく寂しくなる。夜の灯りが、なんだかひどく懐かしく、切なく思えてくるのだ。
そんな僕のノスタルジーを、そんなもん知らんとばかりに、川越祭りは毎年、元気一杯である。