京都 南禅寺4
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以前、善と悪とのことについて述べたが、今回は活動説を主軸として説明を加えることとしたい。前回は、他律的に善と悪とが決定される説が否定されたのであって、次は自律的に善と悪とが決定されるとする説となる。
この問題を西田幾多郎先生の話を参考にして、いろいろと仏教の話と絡めて考えてみようと思う。
ところで、人間の幸福とは何であろうと考えてみれば、一つには苦しみがなく楽になることであり、もう一つには自分の理想が実現されることが挙げられるのである。
ところで、前者を取り上げて、人間が善を為そうとするのはそこに快楽があるからだとする説がある。確かに、人に良いことを施せば自己満足というものが得られる。この満足をもって人は善と悪とを判断するのである。
したがって、快楽の大きいことこそ善であり、個人よりも社会全体が幸福になることの方が、感じられる快楽がより大きくなるのだから、そこに他愛というものが生まれるのだという。
しかし、快楽というものだけでは、さまざまな偉人の犠牲的な精神を説明することができない。
また、そうした善行を理想的と判断させている先天的な要求が先にこなければ、我々が快楽を感じられるはずもないのである。ということは、そうした先天的な要求に基づく理想の実現こそ、我々にとっての満足(喜び)となるわけである。
それでは、その人間に備わっている先天的な要求と理想というのは、一体何のことであるか。それはありのままに存在することである。そして、人間にとってのありのままの心とは、本来の心である無心のことなのである。
自我意識によって主体と客体とを分かつ以前の、完全に統一された、自然本来の心こそが無心なのである。無心になれば、知識からくる判断や、さまざまな感情、または意思といったものが分裂をきたして、てんでばらばらな働きをすることはない。
また無心であることは、自我や世間に対する執着心や利己心を滅却していることでもあるので、心が自我や世間に束縛されて苦しむということがなく、また利己的な心を持つこともないので、悪を行うことがないのである。このようにして、仏教の長年の目標である苦と悪を断ずることが、無心によって実現されるというのである。
このように、無心を楽と善の根源となし、妄念を苦と悪の根源とするのが、禅であり仏教なのである。
そうであるから、禅においては、ありのままの無心であることこそが善と言える。種々の妄念によって心が分裂されない、本来の統一された心をもつこと、そして苦しみのない幸福な理想を実現しようとすることが、人間の先天的な要求なのである。
ところで無心とは、人間が意識を持つ以前の本来の心であるから、主観とか客観というものが生じる以前の心である。言うなれば、それは主観的空想と、その空想の反影である客観世界の両方を滅却した境地なのである。
このように主観と客観とを捨てることによって、自我意識が浄化され、はじめて私欲のない自己というものが生まれる。私欲のない自己となってはじめて、他者の私欲もうち破ることができるというものである。
ところで、人間の真実の自己とは、個人という存在に縛されることがない。無心とは自も他も分け隔てることのない意識なのである。つまり、自己と他者だとか、あるいは個人と社会といったような対立を超えた意識を持つものなのである。このようなことが、究極的な理想とされるのである。
ここに至りて、自己と他者、個人と社会という対立概念を超越した、慈悲心というものがあることが判明することであろう。
キリスト教の「愛」とは自分とは違ったものを愛することだという。仏教の「慈悲」とは自分と同じものを愛することだと言われている。慈悲の生まれる前提には、自己と他者を分け隔てる認識を取り去って、自分は相手、相手は自分、世界は一つ、一つは世界というような認識を持つことが求められるのである。
そして、そうした自身の慈悲心が思い描いている理想の世界というものは、自己の幸福を求めるのと同じように、他者の幸福を求めるようになるのである。つまりは自利だとか利他だとかをいちいち分別することがないのである。目指すところは、個人の幸福であると同時に、もっと共同的な幸福なのである。
ありとあらゆる存在が、自己本来の心を持ち、天賦をまっとうすることが、真理であり、美であり、善なのだというのが東洋思想である禅や仏教の一つの到達点だと考えられるのである。
人は人。竹は竹。松は松。ありとあらゆる存在がそれぞれ違いながらも、各々の天賦をまっとうして、活き活きとしていることが仏教の善なのである。
したがって善悪とは、人によって決まるのでも、行いによって決まるのでもなくて、心がありのままであるか否かという点にある。心が無(空)であれば善であり、妄念によって本来の心を離れれば悪なのである。




