京都 南禅寺3
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筆者の気の迷いのせいで、このエッセイもなかなかまとまらないのであるが、禅の話を進めたいと思う。
さて、あらゆる執着から離れることは仏教本来の教えであるが、仏や仏法にさえとらわれることのない境地を目指すというところまで、教えを徹底させたのは禅だけである。
禅においては、仏教という宗教的な枠組みにすら固定されてはならないというのである。そうであるから、宗教や宗派の対立のというものははじめから無く、拠り所とするのは自己に本来備わっている無心という心だけである。
無心は無思考状態をさすのでも、無感情状態をさすのでも、はたまた動物的本能の状態をさすのでもない。無心とは一心に何かをなす時に、我を忘れその存在に没入すること、いわゆる忘我の境地である。こうした状態は画家が絵を描く際に、自分という存在と絵という存在がもはや一体となって、ただその世界だけがあるといった状態である。
こうした精神状態は、自分という意識が無いために、主に対する客もない。主客を分かつ意識はどこにもないのである。人間は意識が生まれてこのかた、ものごとを分別し、あれやこれやと迷い通しであるが、本来の心は、このようにまっすぐで余計な念はどこにも起こらないものである。
即今ともいうが、まさにこの場所しか無いのである。
未だやってきていない未来はまだどこにも存在せず、過ぎ去った過去はもうどこにも存在していない。だから現実に存在しているのは現在しか無い。これが仏教の時間論である。我々は過去、現在、未来という一つの直線を思い描いているが、それは人間が方便として生み出した概念でしかなく、常に現在しか存在しないのが現実というものである。
人はどこに生きているかと問われれば、この場所に生きているのである。だから即今とはまさにこの場に生きることである。心を現在立っているこの場所に置かなければならない。どこか心をありもしない遠くにやっているが、自分にとって存在するのは、常にこの場所しかないのである。
だから禅では、坐禅をしている時ばかりではなく、生活全てが禅だと語る。飯を食べるのも禅、歩くのも禅、寝るのも禅だと語る。そのこと一つ一つが全て修行なのであって、心が、どこかありもしない不安を漂わずに、常にこの場所にどっかと座って、一つであることが目指されるのである。
百丈が、年老いても畑仕事を止めなかったのはそれが何よりも重要な修行だったからだ。生活全てが禅でなくては意味がない。坐禅をしている間だけ無心になっても仕方のないことである。
禅は、立派な境地を手に入れようとしているのではなく、人間誰しもが本来持っている無心という心を取り戻そうとしているだけである。それは迷いのない心と行動が一つになったような境地である。
心作用である感情と、思考と、身体の行いとがてんでばらばらになっているのを、本来の心である無心の元に一つにするのである。
このように、感情も、思考も、知識的判断も、人間の心の内に、それぞればらばらに、濁流のように生まれては消えてゆく実体のないものでしかない。これらを統一した人格こそ無心だと言うのである。それだと言うのに、我々はそれらを統一された人格であり、感情は常駐するものだと捉えてしまう。その為に、他人の嫉妬や失言を余計に心に止め続けてしまうのである。
この本来の心である無心は、つまり心が分かれてちぐはぐになって迷いが起こるということのない一心であり、何ものにも束縛されることない自由な心である。そうした心で、他でもないこの場所、この時をまっすぐに生きてゆくことが禅なのだという。




