東京 浅草寺
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関西のことばかり書いているので、東京のことを書きたくなった。関東人にとっては、やはり寺と言えば、浅草の浅草寺であった。
高校生の頃、おばあちゃんと一緒に浅草寺に行って、某有名なお蕎麦屋さんで天丼をご馳走になって、それが今までで、一番美味しかった天丼だった。
あの賑やかな仲見世は、煩悩の集合体だなんて言って、とある先輩は嫌そうであったが、江戸時代の仏教カルチャーは、こんな風に多分に商業的だった。
そして、それは本来的な仏教からすればおかしかったのかもしれないけれど、日本人のお祭り好き、ご利益好きの性質から言えば、非常に理にかなったものだった。
わたしは卒業論文が、千葉の成田山の開帳の研究なので、こういうお祭り騒ぎな仏教が好きだった。
浅草寺を彩る提灯は、江戸の面影を思い起こさせた。江戸時代の浅草寺は、もっと賑やかで、現世利益の数に応じて、無数の建物があったとか。
三社祭は、男気溢れるお祭りだ。少し怖いくらいの雰囲気だが、それが良かった。
熊本から上京したある先輩は、浅草の人形焼はお気に召さなかったらしいが、わたしは小さい頃から人形焼が好きで、浅草にゆくと人形焼ばかり食べている。
花やしきは、少し大人になりすぎってしまったので、ついに入ったことがない。
隅田川にゆくと、大きなビールがあって、わたしはその下を流れを見つめていると、自然と歴史に思いを馳せた。
この隅田川に、観音菩薩の仏像が流れてきたのは、推古天皇の時代。つまり、聖徳太子の時代だという。
これを、拾ったのが隅田川の三人の漁師だった。この観音さまをご本尊として祀ったのが浅草寺なのだ。
そして、この三人の漁師を権現、つまり仏が世を救う為に生まれ変わってきたもの、として祀ったのが、浅草寺の横にある、浅草神社だ。
この三人を祀るお祭りが、三社祭なのだとか。
この観音さまは秘仏なので見ることができない。一年に一度、十二月の中頃に開帳があるというが、これは御前立なのだとか。
何はともあれ、浅草寺というお寺はもちろん、浅草という街がわたしは好きだった。
やっぱり関東で育っているせいか、京都や奈良の静かなお寺と違って、浅草寺はなんだか、すごく馴染みのある庶民の「お寺」という感じがした。