京都 南禅寺2
★★
筆者は、仏教の最高の思想は禅だと思っていた。しかし、この頃、本当にそうであるか分からなくなってきている。青森の恐山や山形の湯殿山には独特な民間信仰がある。そうしたものも日本人の心に違いないように思える。
つまらないことを言うと思われるかもしれないが、禅における、親を殺してまで悟ろうとする態度や、弟子の指を切断してまで悟らせようとする道徳や倫理を超越した態度を考えると、なんだか現代社会に適応できるものなのか、疑問を感じる。
かといって、それほどの迫力と厳しさを持っていた中国禅が、日本にやってきて多少なりとも道徳的になったのは、それはそれでエネルギーを失ったような印象を受けるものである。
臨済は、師である黄檗に三度、仏法の根本義を尋ねて、三度棒で打たれた。その意味が分からずに大愚に尋ねたら「お前はそんなに黄檗が尽力してくれているのにそんなことを尋ねるのか」と言われた。そこで臨済ははたと悟った。そして「黄檗の教えは端的だったのだ」と言ったら大愚に胸ぐらを掴まれ「何を悟ったのだ、言え! 言え!」と言われた。臨済はその大愚を三回拳で突き上げた。臨済は黄檗のもとへ帰り、この問答を説明すると黄檗は「大愚に思い切り食らわせたいものだ」と言う。臨済は「今すぐ喰らえ」と言って、黄檗を平手打ちした。黄檗「よくもわしに向かって、虎の髭を引っ張ったな」と言った。そこで臨済は一喝した。
筆者には全く意味が分からない。ところで、この臨済の一喝は、大声で怒鳴ることだが、主と客の分かれる前の本来の自己のエネルギーを爆発させるものらしい。
臨済は、自己の顔から出入りしている「無位の真人」があるといった。これは真実の自己の本体というようなものだ。無位というのは位がないことである。人間の真実の本体は、みな位のない平等なものなのである。ここにきて、仏教はようやく無我説から脱し、真実の自己というものを取り戻したのである。
鈴木大拙先生が仰るには、仏教というは「AはAでない。よってAである」という思想だそうである。
だから「我は無我である。故に我がある」と言った調子になるのである。要するに一旦、ものごとを否定してから肯定されるわけである。だから、無我となって自己を失っていた仏教が、ここにきて真実の自己が取り戻したことは大変に喜ばしいことである。
臨済は、世の中の和尚たちは菩提とか涅槃とかそんなことを延々と説明して、少しでも見識のある修行者に罵られると「無礼なことを言う」と言って棒で打つが、そんな和尚はとんでもない。駄目なやつだと言う。
臨済は、仏とは自分の外側にはない。自分の内側にあると語る。また仏には形もない姿もないと言う。勉強も、仏を求めることも、法を求めることも、経典を読むのも、みな地獄へ落ちる業作りだと言う。坐禅をして、雑念を起こらないようにするのも、静けさを求めるのも外道だと言う。説法を聞いているお前たちは何も不足しているところがない。そして、臨済は心の本体とその現れが別々にならないことが祖仏だと言うのである。
だから臨済は、内から出るもの、外にあるものの全てに束縛されるなと語る。仏を殺し、祖師を殺し、羅漢を殺し、父母を殺し、親類を殺し、すべてから解脱して、自在を突き抜けた生き方をしろと語る。
このような何かに依存するものは臨済の前に出ると叩かれる。手ぶりでくれば手を叩かれ、言葉でゆけば言葉を叩かれ、眼でくれば眼を叩かれるという。
そして、臨済は語る。「他ならぬお前自身がそのまま祖仏なのだ」と。臨済は「心を無にしたならば、そのままで解脱なのだ。のほほんとしていて、すでに起こった念は捨てろ、これからは起ころうとする念は起こすな」と語るのである。
臨済は、修行者たちが幻のように思い描いている、外側にある仏という存在を切り捨てた。そして、真実の自己の本体である無位の真人を発見した。そして、そうした自己の本来の心である無心こそが仏であると断言したのである。




