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京都 三十三間堂

★★★

 前回述べた善の活動説については、エッセイの終盤で述べることとする。



 また前回は、臨床仏教(りんしょうぶっきょう)の可能性について触れた。しかし、仏教が歩むべき道は臨床仏教に止まるものではない。仏教のあり方が、一体どれほどあるか、この場で考えてみることとしよう。

 宗教としての仏教、民間信仰としての仏教、思想・哲学としての仏教、文化としての仏教、歴史としての仏教、美術の母体としての仏教、葬式仏教、観光仏教、福祉としての仏教、倫理道徳としての仏教、健康法としての仏教、その他、数えてゆけばきりがない。これらをひとつひとつ論じてゆくことはできない。今回は信仰としての仏教について述べたいと思う。



 さて、お経には事釈(じしゃく)理釈(りしゃく)という二つの解釈の仕方がある。事釈というのはお経に書いてあることをそのまま事実として読むこと、理釈はそこに隠されている深い意味を読み解くことである。事釈ばかりすれば盲目的な信仰になってしまうし、理釈ばかりすればそれは哲学になってしまって、もはや宗教ではなくなってしまう。事釈の極限が浄土宗と浄土真宗であり、理釈の極限が禅ということになるだろう。

 禅が「仏とは、ただ土をこねてつくって金ピカにしたものである」などと軽々と言い切ってしまうところは凄まじいものがある。これから臨済(りんざい)の話になると「仏なんてものはどこにもないわ!」という話になってきてしまう。しかし、この言葉の真意は神仏を無にするのでもなければ、有にするものでもない。それについては後半述べることとする。

 仏なんていないと言われると、急に寂しくなるのが人の情というもの。神様、仏様と言って今まで拝んできたものを捨てなくてはならぬのは、なんだか大変に心許ない。やはり、どこか身体の外に神や仏を残しておきたいのが人の心ではないか。

 目に見えぬものを信じて念仏を唱えること、これをすべて迷信と捨て去ってしまって本当によいのだろうか。民俗学者は何と言うだろう。信仰としての仏教のあり方を、今一度、考えるべきだと思う次第である。

 三十三間堂のエピソードを語った後に、日本人の心とも言うべき観音信仰の重要性が説明されるので、思想・哲学領域ならいざ知らず、信仰の領域にあるものはまったく受け付けないという方は、次回以降の一遍上人の回と禅の回に進んで頂ければと思う次第である。



 三十三間堂には、平安後期に造られた千体の千手観音像がある。中尊は巨大な千手観坐像であり、鎌倉時代の作である。さらに鎌倉時代の天部の神々が躍動感あふれるポーズで構えている。

 この吉祥天さまが大変にお美しい。女性の仏像というと、観音さまはあまりにも神々しすぎるし、男性的な雰囲気も半分は残っている。やはり女性としてお美しいのは、天女に限る。そうしてみれば、吉祥天さまや弁財天さまは本当にお美しい。特にこの三十三間堂の吉祥天さまは美しいのだった。

 三十三間堂は、非常に人気を博するものであり、仏像の質、数、共に素晴らしいものである。

 僕は、この三十三間堂を見て、初めて密教の摩訶不思議な雰囲気に感動した。京都に訪れたら是非とも立ち寄りたいお寺の代表である。

 初日のことで、不勉強だったから宗派も知らず、直感的にここは真言宗だと思った。密教というのは感じ取っていたのだ。調べたら、天台宗と書いてあったから、首を傾げた。この時、僕はまだ天台宗に密教のイメージがなかったのだ。



 一心に「南無阿弥陀仏」と唱えるのが念仏である。しかし、それは死後に阿弥陀の仏国土である極楽浄土に往生しようとして、念ずるものである。一遍上人においては、これを死後の極楽往生の為とはみなさない。一遍上人は念仏を唱えたその時を往生とみる。一遍上人が、身も心も全て捨ててしまって、念仏を唱えることのみ実有であるとみるのは、それがまぎれもなく即今(そっこん)だからである。このように一遍上人の場合、念仏は現在において意味を持つと考えるのであるが、浄土宗、浄土真宗などは死後の為にこそ念仏を唱えるものである。

 ところが現代人の場合、悩みは死後の問題だけでなく、むしろ生前の方に集中している。死後の苦しみよりも、現在の苦しみをどうにかしてほしいと思うがむしろ普通である。その点からゆくと、我々が本来仏教に求めているのは死後往生よりも現世利益ではないだろうか。多くの寺で薬師如来を祀っていたのは、病気治療の為であったし、もっと多くの場合、観音菩薩にさまざまな願いを託していた。そこで「南無阿弥陀仏」ではない、もう一つの念仏が思い出される。「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」。一心にこの「南無観世音菩薩」の念仏を唱えることで、現世のさまざまな苦しむを除くというものである。

 観音菩薩は、日本人にもっとも親しまれてきた仏である。それは現世利益と母性的な慈愛をもっているが故に、この日本列島の人々に需要されたのである。法隆寺の百済観音、救世観音の例もあるように、観音菩薩は、飛鳥時代から現在に至るまで、日本人に愛されてきたものである。

 その観音菩薩はどこにいるのか。どこにだって居るのである。この世は観音菩薩によって満たされていると言って間違いではない。まことに観音菩薩は三十三身に変化する仏である。しかし、その三十三という有限の数にとらわれず、無限の姿に変化できると考えなければならない。このようなことを書くと、そんな非科学的な話があるかと思われてしまいそうだが、実はそうではない。

 大乗仏教は、全ての存在が心によって生じている唯識論を前提とするのであるから、観音菩薩が心の内側の現象であることは明らかである。しかし、同時にそれは、身体の外側に存在するものであることも疑いのないものである。自身の心というのは、この世界の器そのものであるから、観音菩薩が、この世界を飛びまわることは、心の内側を飛びまわるのと同じで自由なのである。だから、実は身体の内側とか外側とかいうのは、ほとんど問題とならないのである。



 我々が宗教を考える時、まず唯物論で考える。飛行機のように観音菩薩が飛んでいるのだろうか、と考える。スーパーマンのように飛んできて、敵を倒していくのだろうか、と考える。しかし、仏教の立場は唯識論(ゆいしきろん)である。心の世界なのである。この点を前提としなくては仏は成り立たない。第一、唯物的な世界を観音菩薩が飛びまわっていたところで、大した意味にはならないだろう。心と密接に結びついた世界だからこそ、観音菩薩が自由闊達に飛びまわれることに深い意味が込められるというものである。それは心の自由そのものなのである。

 何かありがたい人に出会って、感謝の念が起こる。そういう念を持ってみれば、途端にその人が観音菩薩のように思えるというものである。部屋を掃除すると心まで綺麗になった気がしたりする。また、ある時には「自分は不幸だな」と思って気がふさぎ込んでいたのを「それでも生きているというのは自分は悪運が強いな」と思い直したりする。すると、見えている世界がガラリと変わってきたりする。そういうのは唯物的に世界が変わっているのではちっともないのだ。心が変わって、それで世界も変わったのである。心と世界がそういうように密接に関連を持っているというのが、唯識論の世界観である。

 人はとかく物の世界と思ってこの世を見る。だから心をどこかに放っぽり出してしまって、なんでこんなに頑張っているのに、幸せになれないのだろうと思ったりする。お金を出して大きな部屋に泊まったら、なんだかさみしいばかりで、ちっとも贅沢なことをしている満足が得られなかったり、かといって、小さい部屋に泊まれば窮屈で息苦しかったりする。そんなものは別段、部屋に責任があるのでなくて、自分の心がさみしくて、自分の心が窮屈だったのだ。

 ご飯をもっと美味しくしようと思って、観音菩薩を唱えたら、観音菩薩がカレールーを持って雲にまたがって空から飛んでくるとでも言うのだろうか。そういうものは仏教では望んでいない。ご飯を美味しく感じられない、この心の塵を払うのが、仏たちというものである。

 とにかく、人間は細かいことにこだわって、本質を見逃すものである。観音菩薩が男性なのか、女性なのかという点においても「お経では男性と書いてあるから、女性として信仰されているのはあれは間違いなのだ」とつまらないことを言う。しかし、信仰とはそのようにお経の内容に必ずしも従属するものではない。

 観音菩薩は、中国に伝来した段階から女神として信仰されてきたという事実がある。これがまぎれもなく信仰の主体であり、実際というものである。そこで、観音菩薩は結局、男性でも女性でもなく、そうした性別の超越した存在とするのがもっとも適当と思われる。男性とか女性とか、そういう片面だけを見るのではなくて、紙の両面を一度に見ることが悟りだと言う。結局、観音菩薩が男性即女性と表現されるのはそういう理由からである。

 だから「あの人は男性ですか、女性ですか」と麗しい銀幕のダンサーの性別を尋ねるように、観音菩薩を己の心から一切離れたものとして見るのは、はなっから間違いというものである。己の心というものがあって、心の世界があってこそ、観音菩薩は居るのである。

 人はすぐに「客観世界」という言葉を使うが、私は生まれてこのかた「客観世界」というものをこの目で拝んだことがない。それどころか、人間はみな「客観世界」というものを一度も拝んだことがないのだ。我々が見ているのは「客観世界」ではなく「主観世界」である。一体、人間が心や感覚からまったく離れた世界を見ることがあるとでもいうのか。間違いなく、唯物的な「客観世界」ではなく、唯識的な「主観世界」の世界に人間は生きている。

 唯識論でみるとよく分かる。怒りにまみれた心の世界は修羅道である。自分ばかりでなく、他人や空気まで狂気にまみれてくる。気が沈めば、全てのものがそれまでとは打って変わってつまらないものに思えてくる。とても、以前と同じ世界とは思えないものである。

 それを「変わったのは君の心だけで、世界は何も変わっていない」と言われても、納得のいくはずがない。実際的ではないからである。そうでなくて「変わったのは君の心の世界のみである」と、心の世界そのものがそっくり変わっていると言われて、ようやく合点がゆく。本当にそのように感じられているからである。このような唯識論をとれば、心の数ほど世界があるということになるのである。

 金魚の見ている世界と、人間の見ている世界は違うけれど、どちらが正しいということはない。仏教の例え話になるが、人には水の流れに見えているものが、金魚には家や廊下に見えているという。同じ自然を見ていても、まったく違うものに見えているというのである。



 観音菩薩は自身の心の世界に顕現(けんげん)した理想とも言うべき人格である。

 観音菩薩は、自己の隠された慈悲心や清浄心を映し出した鏡だと思うのである。そして、そうした主体や客体とった二元的な見方を超えて、すなわち愛するとか、愛されるを超えて、慈悲そのものになること。他でもない自身そのものが仏であることを知るのが最終到達点なのである。

 仏教と言ったって、知識として知るのではなくて、自身がそっくりそのまま仏教そのものになろうとするのが前提である。

 しかし、仏とは禅の言うように「そんなものはない!」と言えなければ、煩悩にもなり得る存在である。仏の形ばかりあって、そのせいで空になれなければ、本末転倒というものである。そもそも、自己が空であることが仏そのものである。「仏はこう仰るから、仏の教えはこうだから……」と言っている内には、まだ自分と仏とが分かれている。そういうものは名前ばかりで仏ではないのである。

 


 南無観世音菩薩。南無観世音菩薩。南無観世音菩薩……。

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