奈良 薬師寺
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それでは、いわゆる善悪不二の立場に立った時、我々は何を善とし、何を理想として生きていけば良いのだろうか。合理性に基づき社会の規範となるような倫理道徳ではない、真実の善とは何か。この点について、西田哲学では活動説を取るのではある。
それについて意見を述べる前に、今回、話題となるのは薬師寺である。薬師寺に赴いたのは、奈良にはじめて訪れた日のことであった。僕は写真で見たことのある薬師寺如来の脇侍、日光・月光菩薩を拝みたかった。
写真で見ただけでも、完璧な美を備えているように思っていた。実際に赴いて見てみると、そんなには感動しなかった。その理由は、金銅仏だったからだろう。僕はその時に、仏像は木造仏の方が良い、という持論を持つこととなった。しかし、それにしても薬師寺のインパクトは大きかった。
その伽藍が立派だったことと、かねてから薬師寺には深い思い入れがあったからである。
薬師如来は、心身の患いを治さんとする仏さんである。心身が病んで仏教に帰依しようとする方は非常に多い。また現代人は、心と身体とを離して考えたがるものである。それは分析と言って、人間の思考のもっとも基本的となる考え方だからである。しかし、心が病めば身体も不調となり、身体が病めば心も不調となるように、心と身体は本来分かつことのできぬものである。
そこで今回は、臨床仏教の世界について触れ、その課題を述べることとしたい。
先ほども言ったように薬師寺には、優れた金銅仏がある。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、観音菩薩。僕は金銅仏はあまり好きじゃない。血の通った感じがしないからである。それでも、この薬師如来は立派である。
世の中のお寺では、とにかく薬師如来を本尊とするものが多い。薬師如来でないとしたら、阿弥陀如来である。それは何故かと尋ねられれば、人々の関心が心身の病気と死後の安心に集中しているからである。
とにかく、難しいことはいらない。薬師如来に帰依して、病を治してもらう。それが何よりの安心なのである。
哲学的仏教や心理学的仏教は、とにもかくにもこういう現実問題から離れて、壮大な宇宙や微細な心理現象を説くので、なかなか衆生の心をつかめないのである。生前の病気は薬師如来に治してもらい、死後の安心は阿弥陀如来から得るというのが、衆生側の求めていたものなのである。
仏教は、心を根本とする世界観を持つが故に、古くから心理学的領域に独自の見解を確立していた。
その中で、意識がある一点に偏る執着心が、苦しみや悪行の根底にあると観じたのが、そもそもの起こりであった。
かくいう筆者もずいぶん前、もう十年ばかり前の話だろうか。苦の道を長らく歩んだものである。仏教を勉強するずいぶん前のことで、特に関わりはないが、それをヒントに臨床仏教について考えてみようと思う。
ところで、心が病むというのは忍者の幻覚殺法を食らっているようなものであり、相手が分身の術を使っているのかはよく分からないが、病の種がどこにいるのかも分からないし、そいつを一度見つけたところで、またすぐさまいないようにも、また無数にいるようにも思えるものである。
病んではならぬ、と思うのが病みだったりする。すると、病んではならぬと思ってはならぬ、とまた自心を縛る。病んではならぬと思ってはならぬとは思ってはならない、ともう自心を縛りすぎて何が何だか訳が分からない。その時には、それが何かは分からなかった。固定観念のようなものだろうと思っていた。
仏教では「自縄自縛」ということが語られる。自分を縛するのは自分のみだという。
病んでも良いのだ、と潔く思って、すっかり自己肯定をしなければ、いつまでたってもボンレスハムのように自心を縛ってしまうのである。
ところが、自己の内側に執着心や自我心あると分かったところで、自分にはそれ以上、どうすることもできぬ問題である。ただ頭をほぐしても、心は簡単にはほぐせないものである。そんなわけで、世間体のようなものはとにかく捨ててしまって、どれ、自分はこんなもんだ、とどっしり構えられるようにならんと話にならないのである。とにかく、固定観念や世間体の如きは捨ててしまって、自分は裸一貫で生きていこうと思うだけである。
今から思えば、それは仏教的な生き方、特に般若思想に通じるものがあったように思う。
中学の頃、手塚治虫先生のブッダを読んだが、その時に「人間は必ず死ぬのだから、死を恐れることはないではないか」ということを書いてあったように思う。その言葉だけは鮮烈な印象となって、ずっと忘れられなかった。
臨床仏教は仏教の一面でしかなく、般若心経の如きは別に心を患っている人間に限って利益があるとか、そういうことは観音さん一言も仰っていないのだが、今になっても臨床仏教が元気なのは、こういう固定観念を捨てるような発想が大変に治療的だからである。
さても世の人は、心の患いは昨日今日出てきたものと思い込んでいるが、人類は生まれてこのかた患い通しである。何故ならば二本足で立った時から我らには意識があるからである。
仏教は、こうした心の苦しみの原因を意識とか自我にみる。意識が複雑に機能すればすなわち地獄。
平安貴族はすぐに心を患ったし、そういう人はお坊さんにも多かった。臨済宗中興の祖である白隠禅師は座禅のやりすぎでノイローゼになったそうである。ミステリー作家にもずいぶん多いかったが、日もあまり経っていない為、あえてこの場では名前を出さんでおこうと思う。
人間はあまりものを考えすぎるからいけない。頭ばかり使っていると、百足の足が絡まり出すというものである。しかし「考えるな」と言えば、余計に考えてしまうのが人間である。
お寺に駆け込む人は、やはりどこか心に苦しみを持っている。よく考えてみれば当たり前である。ブッダは人生の苦しみをみて、その苦しみからまぬがれる為に、仏教を産み出したのである。若き日のブッダを、出家の道に走らせたのは、おそらく若き日のノイローゼのようなものだろう。
文化とか美術は、元より仏教の本質ではない。
人は生まれもって意識と自我というものをもっている。それを柱にして生きてゆくものである。ただ、とにもかくにも、ひとまず肩の力を抜いて、一杯のご飯の味をよく感じることだと思う。こうした単純なことが魔法のように効果的だったりするものである。
禅においては即今しかないとされる。即今とは「今、ここ、私」の三つである。そうしてみると、ただ目の前にあるものを認識することもできないようになっていたことに、はたと気づいたりする。
心身を分かつのも駄目かもしれぬ。密教では心身口が一つになることが求められる。つまり心の問題だと思って、ずっと椅子に座って頭だけで考えているとどんどん頭でっかちになる。そんな気がしてきて、はっとすることがある。
頭で考えて苦しみからまぬがれようとするのは埒があかぬ。身体を動かしてリフレッシュすると、ようやく、心が頭と身体の間にあったことが分かったりもする。だから仏教というのは、思考に耽るのを嫌って、ただ一つの行の中に心をみる。
それでも心の波風が収まらぬ時は、自分には仲間がいることを思い出して、ひとまず一服すればよい。悩み苦しむ者はみな同胞というものである。それが仏教のもっとも大事な思想である。
不確実なことは何も言えぬ。しかし、世の中、不確実なことしかないのである。どうすれば治るかも分からぬ。しかし、治らずとも生きていけるわ、と粋がればかえって治ったりする。まことに摩訶不可思議な世界としか言いようがない。すっきり分かる日もこない。それでも大胆不敵に生きることが大切である。
他人の経験は、自分の心の底では何も語らないものである。そんなわけで僕のこの話はすっかり忘れていただいて、自身を信じて、我が道を踏みしめていただけたら、と思う次第である。
関係のない言葉かもしれないが、一休禅師の言葉を一つばかり載せておこう。
今日ほめて 明日悪く言う 人の口
泣くも笑うも 嘘の世の中
このようなことを聞いて、かえって心疲れる人もいるだろう。これは心の慰めにはならぬかもしれない。なんで引用したのだろう。よく分からない。そこで、一遍上人の言葉から一つ。
とにかくに 心はまよふものなれば
南無阿弥陀仏ぞ 西へゆくみち
一遍上人からもう一つ。
ひさかたの空にはそらの色もなし
月こそつきのひかりなりけれ
どうも、ぴったりくる言葉が見つからないが、まあ、こんな日もあるというものである。
せっかくの薬師寺の回なのに、心の問題にばかりフォーカスを当ててしまって、他のことで悩んでおられる方には、大変に申し訳なく思う。
全ての人が、健康と安心を得て、毎日を幸せに過ごされることを心から願っております。




