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京都 知恩院

★★★

 本章では、親鸞の「悪人の自覚」が述べられますが、一般的な浄土教ではなく、特に一遍上人的、または禅的な解釈が混ざってきますので、ご注意ください。



 倫理道徳(りんりどうとく)とは時として残酷なものである。このように述べるなら、多くの人は一種異様な心持ちがすることであろう。

 しかし実際に、人間を善と悪とに分別して見ること、また善き人を尊び、悪き人を蔑むこと、正しき生き方の反対側には悪い生き方があるという認識、これらが残酷に作用してゆくことがあるのである。



 最終章はいきなり、このような話から始まる。知恩院の話は後半に出てくる。

 これには二筋の道がある。一つは禅である。合理性に基づく倫理道徳を批判し、そんな形式的なものはいらん、と捨て去ってしまった。

 もう一つは浄土真宗である。仏教とは、道徳的に立派な人間という幻想を与えることより、道を外れた悪人を救済する為にこそ存在するというものである。



 禅では、まず合理性に基づく倫理道徳の否定を前提としなければならない。

 また浄土真宗においては、親鸞の「悪人の自覚」の如き反省をもって「善」という言葉の響きに溺れる人間の慢心を破壊することから始めなければならない。親鸞の「悪人の自覚」とは自分が悪人だったという反省である。ところが、仏教本来の思想においては、人間は本来、皆一様に凡夫なのだという真理がある。そうしてみると、親鸞一人が悪人だと反省するのはちとおかしい。しかし、親鸞はそうは思わない。そう思ってしまったら意味がない。これは親鸞による、それは他ならぬ自分自身の「悪人の自覚」だからなのである。だから親鸞は人類が一様に悪人であるなどとは思わない。ただ自身一人が悪人だと反省することだろう。

 ところが、仏教には本来、貴賎高下の差別はないのである。誰が善人で誰が悪人などと分けることはしない。皆、人間は一様なのである。皆、一様に欲望や煩悩を持ち悩み苦しむ凡夫であること、これが仏教の言う衆生であり、大前提なのである。

 しかし、親鸞はここで「親鸞一人が」と言っている。彼は他者まで悪人と言っているのではないのだ。彼は「自分は阿弥陀仏の慈悲にすがる他、救われる道がないような悪人であり、とても自力で往生することはできない」と語るばかりで、その自覚に他者を巻き込もうとはしている様子はないのである。

 人間は自分が悪人ではないか、と不安になった時、自分より下のものを仮定して「自分はあいつよりはマシだろう、あいつよりは良い人間だろう」と考えたがる。このように多少なりとも自分の人間性を疑っている人ならまだしも、自分の行いをまったく疑わずに生きている人間もある。そして「自分に比べて、お前たちは何とだらしがない生き方だ! 俺は極楽へ行けるがお前たちは地獄へ堕ちるだろう、良い気味だ、アハハハハ」と他人の人格否定に精を出す。このような人間の心に慢心というものである。

 ところが実際には、人間とは皆、一様に凡夫なのである。皆、欲望と苦悩とを心いっぱいに所有しているものなのである。この自覚と反省をもって人は宗教的自覚を持つというものである。しかれど反省は後悔のようなものであってはならぬと思う。なぜならば、仏教においては、過ぎ去った過去はもうどこにもない。過去にとらわれて後悔ばかりしているのは煩悩だと考えられるからである。そんなものは今すぐ捨ててしまえ。反省とはもっと潔いものだ。自分は悪人なのだ! そう踏ん切りがついた時には、かえって気持ちがどっしりとするものである。



 親鸞は、性欲やその他の煩悩を捨て去ることができず「自分一人が悪人だ。ところが、そんな愚かな自分の為にこそ阿弥陀仏は誓願を立てられたのだ」と思ったのである。そうして、自己を無限小にして、阿弥陀を無限大にして生きる道を選んだのである。

 親鸞の「歎異抄(たんにしょう)」には、この言葉が書かれている。


  善人(あくにん)なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。


 善人であっても往生を遂げるのだから、悪人が往生を遂げないなどということがあるだろうか、というのである。これを世間の人は反対に言う。悪人であっても往生を遂げるのだから、善人が往生を遂げないなどということがあるだろうか。しかし、阿弥陀仏の「念仏を唱えれば、誰でも極楽に往生を遂げさせる」という誓願の本意は、どのような修行でも救いの手からもれおちる我々のことを阿弥陀仏が憐れみて、悪人成仏の為に立てられたのである。それが理由なのであるから「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのである。

 ここに至りて、ソクラテスの「無知の知」とは多少違うのであるが、悪人とは「悪人の自覚」を得た善人であり、善人とは高慢な無知者という気がする。しかし、ここでまた一つ、高慢な無知者は「悪人の自覚」を持たぬ故、阿弥陀仏の救いから漏れてしまうのだろうか、そんなことはないのである。それは一遍上人によって打破される浄土教の問題である。



 もう一つの道筋として、禅の主張がある。禅は既存の倫理道徳をいくつかの点で批難している。その中で、倫理道徳とはロジカルで形式的なものであるというものがある。善らしくふるまうのが倫理道徳である。しかし、論理的思考と意志は本来異なるものであるし、そこには自性清浄心がともなっていない。心の底から慈悲をもって、心と行為が一つになっていないのである。

 また禅のもっとも重要な指摘は、倫理道徳というのはロジックだという点である。慈悲そのものではない。そのロジックである中に思考と行動を当てはめてゆくものである。しかし、心はそのようではない。

 我々が人を殺さないのは、形式的な道徳によるものではない。善のロジックに基づくものでもない。善ははじめっから心の外側ではなく、自己の内側にあるものである。我々が人を殺さないのは、本源的な慈悲心によるものである。その慈悲心こそ肝心要であると言うのが仏教である。仏教の語る戒律とは、戒が己への戒めであり、律は教団のルールである。だが、我々はそのような形式よりも本質的に善であろうとしなければならない。

 禅は形式的であることを許さない。また取り繕った衣に惑わされることもない。ただその人の本心をズバリ見抜くものである。美醜や浄穢、自分にとって都合の良い存在かなど、問題にならない。禅が見抜くのは、相手の本性そのものズバリである。

 そして、命をかけた自己格闘の中に禅があるのである。



 ……と言うような話を熱く語って、最終章が始まる。第一話は知恩院である。浄土宗総本山である。ここで当然のことながら、法然上人の話になる。ところで、宗派というものは仏教の問題の一つである。浄土宗と浄土真宗の間には、どちらが本でどちらが末か、というような優劣意識がある。

 しかし、親鸞上人が語るように宗派間の闘争というのは、まことによろしくないことである。この宗派という考え方が仏教の本意から人々を突き放してしまう原因である。親鸞上人は「弟子は持たない。そういうものを持つことは指導欲というものである。阿弥陀仏の慈悲を自分のもののように思って、それを人に教えるというようなことはしない。念仏を唱える者はみんな同胞なのである」ということを「歎異抄」の中で述べていたものである。

 法然上人の本意を受け継いでさらに発展させた親鸞上人。そして、それを最終的に完成形に至らしめたのが一遍上人。この三上人を一人格と見るべきというのが、柳宗悦先生の主張であった。

 だから、親鸞上人や一遍上人を完成形と見ることによって、法然上人の価値が損なわれるなどということはあるはずがない。まして宗派間の対立などもってのほかである。



 親鸞上人は「たとえ法然上人の言うことが嘘で、自分が騙されて地獄に堕ちたとしても私は後悔はしない。なぜならば、自分はどのみちいずれの修行においても成仏することのできない悪人だと知っているのだから」ということを語っている。この揺るぎない決心をもって親鸞上人は、法然上人からその称名念仏を受け継ぎ、ここに阿弥陀への「信」というものをもたらして、新しい次元へと浄土教を誘ったのである。



 これはおばあちゃんと知恩院に訪れた時のことだ。おばあちゃんは知恩院によく訪れていた。僕は初めてだった。立派な山門、法然上人の像や、法然上人の霊廟、鶯張りの廊下などを体験して、その後に八坂神社や祇園まで歩いた。まことに面白いところだった。

 と言っても、僕はそんなに祇園を見学できてはいない。これからは祇園めぐりもしたいと思うが、そもそも僕の旅行は、仏教という目的が先に立つので、あまり雅な世界に浸るということがなかった。

 地を這うような読経の声と、物ものしい太鼓の音を聞きながら、人間の生死に想いを馳せるという、ひどく風変わりなロマンに浸っているのだ。

 考えてもみれば、和菓子も家族にお土産を買うぐらいのものだったし、舞妓さん、芸者さんも見たことがない。風流なものや雅なものはさて置いておいて、とにかく、思想と歴史のロマンに浸る為に「寺だ、神社だ」とせわしなくバスで巡ったものである。



 法然上人の話をと思う。法然上人はそれまで普及してあた観想念仏に対して、称名念仏を唱えることを勧めた。

 それでは観想念仏とは何か、円仁が中国の六斎念仏の影響を受けて比叡山に念仏行を持ち込んで以来、比叡山には念仏行の伝統があった。ところが、それは阿弥陀仏の名前を唱える称名念仏ではなかった。

 観想念仏は坐禅のようになり、まず目を瞑って日の落ちるところをイメージする。次に川の流れをイメージする。だんだんとイメージで蓮華座を作り出し、最終的には極楽浄土をそっくりそのまま頭の中に再現してしまうというものである。しかし、このような念仏はとても一般の庶民にはできるものではない。

 そこで法然上人は、阿弥陀仏の「誰でも私の名前を唱える者は極楽に往生させる」という誓願を根拠に、阿弥陀仏の名前を唱えれば誰でも救われるという、口称念仏を提言したのである。



 ここに称名念仏というものが、仏教界に根を下ろしたのである。そして、法然上人は念仏を唱えれば誰でも救われると語った。しかし、法然上人は三万遍でも六万遍でも一心に念仏を唱えねばならぬと言う。だから修行者は百万遍でもより多くの念仏を唱えようとする。

 しかし、これでは念仏を多く唱えられない者が救われない。親鸞上人は阿弥陀仏を信じる者は皆救われるとした。念仏は感謝の念仏なのであると言うのである。

 しかし、これでは阿弥陀仏を信じていない者が救われない。一遍上人は阿弥陀仏が誓願を立てた時から、全ての者が救われるのは約束されているという。念仏を唱えるまさにその時がすなわち往生であるとした。まさに一遍(いっぺん)の念仏によって自身が往生そのものとなるのである。ここにおいて浄土教は完成されたのである。

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