表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
60/72

岩手 中尊寺

 山口県の出身の先輩が「中尊寺の金色堂は小さくてがっかりした」と言っていたから、僕はまったく期待していなかった。そのせいだろうか、平泉の駅を降りた時も、何の高揚感もなくて、何となく作業をこなしているような感覚だった。お寺めぐりも百ヵ寺を越えると、こういう不毛な感覚が湧いてくる。

 僕は毛越寺を参拝して、中尊寺の山に入ってゆき、杉の木の中を歩いて行った。弁慶にまつわるお堂もあった。僕は以前、弁慶の歴史小説を書いて、三回で休載している。

 そして、僕はついに金色堂に訪れた。新しい建物の中に金色堂があるらしい。その白い建物の中に入った。そして、金色堂を見た。


 これこそ仏教美術における彫刻と工芸の美の極致だと思った。それは宝石箱をのぞいているような、まさに夢のような光景だった。螺鈿(らでん)の青みをおびた銀色の光と闇の中で浮かび上がる金色の輝き。静かで美しい表情を浮かべた仏たちが、壇上に少しばかり窮屈そうに肩を寄せ合い、これがまったくもってぎっしりとひしめき合っていて美しい。天井からは鏡のようなものがつるされ輝き、壇には金色の孔雀が彫られている。僕はこれほど美しい光景を今まで見たことがなかった。



 先輩の「がっかりした」という話がかえってギャップとなって良かったのだろうか。よく考えたら、あの句も僕のテンションを冷ましていた一因ではないか。


  夏草や (つわもの)どもが 夢の跡


 芭蕉の句である。芭蕉が平泉を訪れた時、その夏草が生えるだけの廃れた光景を見て、こう詠んだのである。しかし、芭蕉は金色堂について、こんな句を残している。


  五月雨の 降のこしてや 光堂(ひかりどう)


 金色堂はその時も輝いていたのである。

 僕は金色堂が大変に綺麗だったので、しばらく、その場を動けなかった。こういう光景を週末ごとに見に来たら癒されるだろうな、と思った。だから三日後には関東に帰らねばならぬのがやけに悲しかった。

 このようにして、中尊寺には大満足して、その翌日は遠野、その翌日は花巻の宮沢賢治記念館に訪れた。心が癒せる旅だった。



 それでは、中尊寺の話はこれぐらいにして、最終章に移りたいと思うので、またしばらくお暇しようと思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ