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奈良 法隆寺3

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 百済観音を見ながら、(さと)りとはなんだろうと思う。一切の煩悩(ぼんのう)を絶つ解脱(げだつ)も悟りかな。

 しかし、日本において、大乗仏教においては、(くう)の認識こそ悟りだったように思う。

 一体、空とは何か……。



 この回では、くうについての解説を試みたいと思う。空とは、大乗仏教にとって最も重要な思想である般若思想の根幹である。哲学的な話が苦手な方は、無理をしてこの回を読まずに、すぐさま次の回に進んで頂けたらと願う次第である。

 ただ話が難しくなる前に「般若心経」の内容を、少しばかりご紹介することとしよう。

 まず、このお経で教えを説くのは、お釈迦さんではなくて観音菩薩(かんのんぼさつ)である。観音菩薩は菩薩といって如来になる前の修行の身である。しかし、だからと言って教えのレベルの低いのではない。観音菩薩は、衆生に寄り添いたいので、あえて如来にならずに低い身分の菩薩で居続けてくれているのである。

 観音菩薩は、まずこのようなことを言う。


  五蘊皆空(ごうんかいくう)


 五蘊は全て「空」であると言うのである。五蘊とはこの世を構成する要素のことで、色・受・想・行・識のことである。これらはそれぞれ物質的存在・肉体的な感覚作用・イマジネーション・意志の働き・判断をする意識のことである。そういうものは全て空なのだという。

 こう言うことを言われるのであるから、空とは何かということがどうしても気にかかるところである。それは、このエッセイの後半で延々と語られているが、大変にややこしくなっているので、今はひとまず「堅固な本体をもたない無常なもの」とでも捉えておいて頂きたい。

 つまり、この時、観音菩薩はこの世には不変の実体などどこにもないことを述べたのである。

 そして観音菩薩はさらに、色(物質的存在)は空である、受(肉体的な感覚作用)は空である、と説明を続けてゆく。そして次にこのような言葉が出てくる。


  不生不滅。不垢不浄。不増不減。


 これは龍樹の八不と言われる教えと同じである。まず「不生不滅」であるが、世の中は生まれっぱなしのものもないし、滅びっぱなしのものもない。常に生滅の変化を繰り返す。だから世の中は無常なのだということである。

 他の言葉も同じである。絶対的に汚れている存在もないし、絶対的に清らかな存在もない。増え続けるものもないし、減り続けるものもない。そういう偏った存在はこの世にはなくて、全ての存在というのは相対的な概念から離れて、本来は無常なものだということである。

 そして観音菩薩はその次に、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識も空であると言う。この実体があるように感じられるさまざまな感覚は、実は泡のようなものだというのである。

 美味いものを食べる。大変に美味しいと思う。それに執着する。太る。痩せられない。でも美味そうだなぁと思う。だんだんよくどしくなる。もっと美味いものを食べようと思う。美味いものを食べていないと生きていけない気がしてくる。だんだん窮屈になる。それでもやめられない。もう最初の感動はどこかへ行ってしまって、何も楽しくもないのだが、やめられなくてつらみ。

 こういう執着してしまう感覚とは実は実体のない虚しいものである。このようなものが実際にあるのだと思って執着しても、苦しくなるばかりなのである。

 しかし本来、心とは自由自在なもののはずである。その自由自在であることとは空であるということである。これはいずれ説明するとして、次には無明(根源的無知)というものも初めから実体がないと言う。初めから無明に実体が無ければ、無くなることもない、と言うようなことを言ったのである。その後に、観音菩薩はさらに、老いることも死ぬことも初めから実体がない、だから無くなることもない、と語る。

 そして、お釈迦さんが熱心に説いていた四諦もあんなものは実体がありませんよ、と語り出す。

 四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦のことで、面倒だから四つをまとめると「人生というものは苦しみだよ。その苦しみの原因って欲望や執着にあるんだよね。そう言うのって煩悩って言って、そいつを無くせば良いんだ。その為の正しい八つの行いっていうのがあるからさ、そこ実践をする道に進もうよ」というお釈迦さんの教えである。これを否定したのが般若心経である。

 そんなもん初めから無いだろ、と観音菩薩は言ったのである。

 そうしてこの世の全てのものが空であり、実体のないものばかりであることを悟ると、もはや恐怖というものが無いのだという。是非をあげつらうことも無い。名誉に怯えるということも無い。世間体に気を病むということもない。人と比べてみじめになったり、妬んだりするということもない。偏った心で思い詰めるということもない。未来を恐れることも、過去を後悔することもない。そういう一切の束縛から離れた、自由自在な心になって、大変に自分というものが生き生きとしてくるのである。

 そうすると今というものが見えてくる。目の前のものがようやく見えてくる。自分というものがはっきりと感じられる。

 こうして、己の身に執着して永遠を願い続けたり、かえって変に楽観的になったり、自分を絶対視したり、人間の肉体をやけに清いものと思い込むことからも離れると、そこは全くもって涅槃の境地なのであるという。涅槃の境地とは、苦しみから一切離れた悟りの境地のことである。



 さて、以上が「般若心経」の解説であるが、この後「空」とは何かということについて、詳しく論じていきたいと思う。とんでもなく複雑な内容になってしまったので、よほどの物好きな方でない限りは、次の回に進んで頂きたいと思う次第である。



            卍



 仏教の(さと)りである智慧(ちえ)は、根本智(こんぽんち)である空(法空(ほうくう))あるいは無我(むが)(我空(がくう))と、後得智(こうとくち)である慈悲(じひ)の二種類がある。(くう)を悟れば、その後に自然と発露するのが慈悲である。

 仏教において、空の認識が先か、慈悲の萌芽が先かというのは重大な疑問である。ただし、これはほぼ同時と見て間違いないであろう。というのは、空とは無差別平等の智のことであり、愛とは無差別平等の愛のことだからである。そこで、慈悲によって智慧(空観)が引き出されるのか、智慧(空観)によって慈悲が引き出されるのかは、甚だ疑問であるが、この二つは相互依存の関係にあり、片方だけが認識されている状態というのは考えられないのである。

 またしばしば誤解されているが、空とは無のことではない。あるいは空を「空っぽ」と捉えたり、「(むな)しい」と捉えるのも間違いである。確かに空の語源のシューンヤは「ゼロ」を意味する語である。しかし、ゼロとは虚無ではなく、もっと超越的な意味合いを持つのである。X軸とY軸の交わるところを一般にはゼロと見るが、本来、ゼロの概念とは、X軸とY軸を取り払った超越的な地点のことを指す。したがって、無我とは実際には我が無であるのではなく、本来は我が空であること(我空がくう)を指すものであり、決して何もないということを意味するものではない。



 空とは言い換えれば、法無我(ほうむが)のことである。この場合の法とはありとあらゆる存在のことである。ありとあらゆる存在の本性が無我であることをいうのである。無我とは(アートマン)が無いという意味である。それでは、この場合の(アートマン)とは何か。存在の本体というものである。これは永遠で絶対的な存在の本体とでも言えるものである。ところがこれは存在しないと言う。

 この無我(むが)とは別の側面を強調して、言い換えれば縁起(えんぎ)のことをいうのである。縁起とは因縁(いんねん)によって存在が生じる(ことわり)をいう。この因縁(いんねん)というのは、(カルマ)という因果の(ことわり)に支配下における(いん)(えん)という二種類の原因のことを指すである。この時、因とは一次的原因であり、縁というのは二次的原因である。

 例えば、桜の花というものは、木という因と、春という縁によって生起させられているのである。我々はこの桜の花が絶対的な実体として存在していることを疑わないが、この桜の花というのは、因縁によって生み出された無常の存在でしかない。

 このような因縁のことわりによって事物が生起することを依他起性(えたきしょう)という。他の存在に依存して存在しているということである。

 この時、この桜の花は確かに存在しているのか、それとも存在していないのか。もちろん、実際に我々が花を存在として認識することはできる。しかし、もしも花が真の実体として存在しているといえるか、と尋ねられれば、あらゆる原因が合わさって、仮に存在させられているとも捉えることができる。

 またこの時、結局、この「花」という存在は自己の「花」という概念によって、実体のある存在として認識されているにすぎないのである。自己の概念によって「それ」を「花」と認識する以前には「それ」はただの花弁の集まりでしかない。そしてその花弁の集まりをひとまとまりの存在として認識するのも「花」という自己の概念による。そしてそれを「花」であると名付けるのも自己の概念である。その認識以前にはそれはただの因と縁の集まったものでしかない。この因と縁の集まっていて、人間の「概念」や「思い」が未だ加わらない状態こそ「空」である。



 この時、因縁というものは、この世のありとあらゆる存在を実有(じつう)とも虚無(きょむ)ともしてしまう。実有とは、自らの本性をもって確かに存在することであり、虚無とは何も無いことである。なぜならば、その存在の実体が他の存在に依拠して起こるならば、この存在そのものの実体は有ると考えることも、無いと考えることのどちらも可能となるからである。この実有と虚無の双方のどちらにも偏りがなく、それでいて、その中間にさえとどまることの無い完全に自由な立場を、仏教では中道(ちゅうどう)という。そして、この中道も結局は空のことである。これが空という存在論である。またこのような認識を空観(くうがん)というのである。

 その点から言うと、まったくありとあらゆる存在というものは、それ自体の本性を持たず、無常(むじょう)であり、とても不確実なものである。これを、存在がそのものの本性すなわち自性(じしょう)を持たない為に、無自性(むじしょう)という。この自性のことを(アートマン)という。すなわち無自性とは無我のことをいう。



 自己存在を含めた、この世のありとあらゆる存在が不確実で流動的な性質を持ち無常である。それであって、存在は自由で平等であり分け隔てられることがない。これこそが空である。それこそ、ありのままの存在の実体なのだという。こうした空の認識によって、あらゆるものの実体を観察し、自己を認識した時に、我々は虚妄(こもう)の観念を離れて、真実の自己の本体に気づかされることだろう。



 自分という存在が、縁と因と自我意識と概念的意識によって仮に結合された存在であるという自覚を得た時、一切の虚妄を離れた真実の自己というものが、肉体とか精神という狭い器を飛び出してゆく。それは一つの円となって、空間を支配してゆく。そこに現在があり、そこに大地があり、そこに自己の本体が中心となって座している。まさにそれが円である。そこには主客を分かつものが何もない。

 臨済の境地に立ち向かうとする、多くの弟子が真実の自己の本体を頼りとせずに、概念や言葉といったもので臨済に歩み寄ろうとするば、その依存している概念や言葉とあったものが、臨済の一喝や棒によってたちどころに打ち壊される。その臨済の一喝こそ、主客の分かれていない自己の本体のエネルギーの爆発である。

 仏教における悟りの境地を最もよく表した詩に次のようなものがある。


  柳は(みどり) 花は(くれない)


 柳が緑であり、花が紅であるというのは、あまりにも当然のことである。しかし、あらためて考えて見れば、なぜ柳は紅ではなく、花は緑ではなかったのか。柳が花の美しさに憧れて我が身を紅に染めることもあるだろう。しかし、そうであっても、柳は緑であるからこそ美しく、花は紅であるべきなのだ! それがありのままの姿であると同時に、最もしっくりくるものなのである。

 しかし我々は、柳が緑であり、花が紅に生まれてきたことを知っているのだろうか。あまりに当然すぎるあまり、いつも見過ごしてはいないだろうか。ありのままの姿を、ありのままに認識するとは、我々が考えている以上に難しいことなのである。

 このようなことを書いた時、仏教とは自然崇拝的であると感じる人も多いことだろう。この場合、自然とは人類や人工物に対する自然を意味するものであろう。しかしながら、仏教は自然も人類・人工物も含んだ一切の存在の理を認識せんとするものである。

 空を「空っぽ」とか「空しい」と捉える人は、空観を、虚無主義とか無価値主義と結びつけて、価値的内容とは無縁のものと断定しがちである。ところが実際には空観とは、あらゆる種類の虚妄の観念を取り払った時に見出される真実の価値を発見しようとするものである。



 天台思想においては三諦と言って、この世の実相を空の虚しい世界と考え、仮相を迷妄と快楽の溢れる世界と捉える。そして真実の虚無と迷妄の快楽のどちらにも寄らぬ立場でゆくことを中諦と言う。天台のニヒリズムと言うものである。

 真理とは真実的内容と価値的内容の両方を含めたものを言うが、この天台思想に従った場合、実相は真実ながら無価値であり、仮相は偽りながらも価値があるという風に二つに分けられている。しかし、この場合の価値とは所詮は偽物の幸福でしかない。禅においてはそうではなく、やはり真実の価値と言うものは空観の先にあるものだと言えるだろう。



 ありとあらゆる存在は無自性であるがゆえに無分別(むふんべつ)でもある。ありとあらゆる存在が、無自性である為に、縁起つまり、他の存在に依拠して生起するというのであれば、そこに差別認識というものが起こるはずがない。なぜならば、存在が無自性であれば、分別(ふんべつ)すなわち存在と存在を分け隔てることもないからである。存在が個別化されずに、この存在同士の境界が無くなったもの、これを無分別(むふんべつ)という。そして、これが無分別空である。このような認識で見た時、無差別平等の認識が生まれる。これを空観という。

 そうした認識の下では、存在することも存在しないもなく、そうしたありとあらゆる二元的対立を越えた第三の解答、すなわち絶対の自由な立場こそが空である。そうした時、空とはまさに自由である。

 こうした時、空とは無分別空であり、不二法門(ふにほうもん)である。すなわち、この世における存在、概念は対立しない。有と無、優と劣、善と悪、長と短、信と疑、肯定と否定、煩悩(ぼんのう)菩提(ぼだい)などの対立概念は、分別されずに本質的にはただひとつだと認識される。

 こうした時、本来無自性であるはずの存在に自性を見出しているのは、人間の概念であり認識である。花が花という存在であるのは、それを花と概念的に分別する人間の認識があるからである。

 しかし、このような存在の本質が空であり、また自己を主体とし、花を客体としながらも、その自他を分別することができないならば、自己とは時として、まさにこの花である。

 自己の本質が空であることを、人無我(じんむが)または我空(がくう)という。自己を認識しようにも、己は見えないし、存在しているのかもわからない。そもそも、概念によって自己があると認識するととどまっているのであって、空の立場に立った時、自己と他者を分別することはもはやできない。すなわち自己は他者であり、他者は自己である。

 このような理由から、空とは何ものにも束縛されずにどこまでも自由な境地であり、本質的に平等なものである。そこには分別すなわち差別認識がない。そういう意味で、一即一切(いちそくいっさい)一切即一(いっさいそくいつ)である。一部は全体であり、全体は一部である。これをわざわざ分別することもない。

 また空とは無のことではない。無は無という立場に固定されている為に、決して自由とは言えない。有にも無にもなり得る、とらえどころもない自由な境地を空という。何ものにも束縛されないという立場にも束縛されることのない認識である。これが空である。

主な参考図書

 鈴木大拙先生の著書

 中村元先生の著書

 鎌田茂雄先生の著書

 柳 宗悦先生の「南無阿弥陀仏」

 横山紘一先生の著書

主な文献史料

 「般若心経」

 「維摩経」

 「臨済録」

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