奈良 興福寺3
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今回は、心作用である心所についての説明をしよう。前回述べた八識を心の王、心王と言う。それに付随して起こるさまざまな心作用が心所である。
例えば善や煩悩のような心が心所である。苦楽を感じる受という心もまた心所である。そうした心所の根本にあるのは八識であり、それは取りも直さず心そのものである阿頼耶識のことに他ならない。具体的な感情などはまさにこの細かい心所となって心から発生してくるものになる。
心所は五十一種類もあり、この場でそれらをいちいち説明するのも面倒であるから、あえて述べないが、大事なものだけを挙げれば、苦楽を感じる感受作用、心が引かれる作用、言葉を生ずる作用、意志が生ずる作用などがある。煩悩の心所を挙げると、欲望、怒り、無知、慢心、疑い、誤った見解の六つが根本煩悩と言って代表的なものと言えるのである。
こうした心作用は、常に心にあるのではなくて、シチュエーションによって生じてはまた滅するものである。
我々の苦悩の根源は、煩悩である。煩悩は苦悩を生じさせる種のようなものである。もっと多く欲しい、もっと良いものを欲しいという限りのない欲望や、他人に対する怒りというような感情は「自分」という意識があってこそ成り立つものである。だから自我意識である末那識を元に、そうした煩悩の心所が生じるのである。
あるいは、この日常では嫉妬の念が大変に人間関係を狂わせてしまうものである。嫉妬の念というのは劣等感に伴なって生まれた煩悩なのだろう。また劣等感は、まさに自我意識である末那識が生じさせたものである。そのようにして「自分」という気持ちが強すぎる為に他人と比較して生きようとするのが人間である。
ところで、その「自分」とは本当に実在するのだろうか。我々は日頃、感情、意志、知恵などの心作用は感じることはできるが、心そのものを感じることはできない。同様に手足を見れば、それは「自分の手足」だと認識することができるが、肝心の「自分」はどこにあるのか分からない。確かに「自分の感情」「自分の知識」「自分の手足」「自分のスマホ」は存在を確認することができる。これらを我が所有するもの、ということで「我所」と言う。
これに対して「自分」とはどこにいるかと考えるとどこにも見当たらない。我所があるばかりで、肝心の我はどこにも見当たらないのである。我が存在しないということで、このことを「無我」と言う。そうしてみると「自分」という意識を作り出しているのは末那識による自我的な心作用と言わねばならない。だから「自分」とは実在しない仮の存在に過ぎないと言うのである。
こうしてみると他人も同じことである。自分から見て「他人の肉体」「他人の顔」「他人の言葉」は存在が認められるとしても、その所有者であるはずの「他人」はどこにもいない。こうしてみると、自我意識というものが仮に実在を設定している事例は無限にあるのかもしれない。自我意識が主観的にこれらを統合している他に、客観的にこれらを統合することは不可能と言わねばならない。
この無我は空の一面と言えるだろう。「存在に確固たる本体がないから空だ」と言うのは、まさにこのことである。
ある時、学校で群馬の友人とベンチに座っていたら、何の脈絡もなく突然に「俺は概念的な存在である」と言ってきたことがあった。その時は意味不明だったから反応に困ったが、今から思うと唯識論的な無我説を語っていたのかもしれない。
自分を実在だと信じてこれに執着すること、これを我執と言って、この為に煩悩障が生ずる。煩悩が生じて苦しみとなることである。自分以外のものを実在と信じてこれに執着すること、これを法執と言って、この為に所知障が生ずる。ものや世間に執着して行き場を失い苦しみが生じることである。
煩悩障と所知障を断ち切るには、一切が空であることを知ることである。そして、これを知るには知得ではなく、体得ではないといけない。頭で知るのではなくて、心で知ることである。はっきりと経験で知ることである。実感を持って、心の底からそう思うことである。




