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奈良 興福寺1

★★★

 つくづく興福寺(こうふくじ)は素晴らしいお寺だと思う。まず五重塔などの仏教建築が何とも美しく、堂内や国宝館には阿修羅(あしゅら)像、無著(むじゃく)像、世親(せしん)像などの仏像の傑作が立ち並び、境内には鹿がうろついている。

 ただ無著、世親像は公開の時期に合わせないと見ることができない。僕は、夕方から無著世親像を公開するという日の昼頃に興福寺を訪れてしまったので、午後は東大寺の見学の為に、ついに尊像を見ずに帰ってきてしまった。

 京都の旅行とセットで、奈良を観光するのであれば、奈良駅周辺の興福寺や東大寺は欠かせないだろう。もう少し頑張れば、法隆寺や薬師寺、唐招提寺あたりに赴くこともできるだろう。

 興福寺の回は、仏教思想の根幹である唯識思想(ゆいしきしそう)を解説することが一つの狙いである。それは次回以降に譲る。それと共に興福寺の仏像や法相宗(ほっそうしゅう)の話まで紹介したいと思うので、書くのは少しばかり難しい気もするが、気を引き締めたいと思う。



 ついでに、エピソード中心のこの第一回目だけを読まれるという人の為に、唯識思想のポイントを軽くまとめておこう。

 唯識思想の第一のポイントは、一人一人の心の中に一つずつ宇宙があるということ。僕の心の宇宙もあれば、相手の心の宇宙もある。ペットのわんこの心にも宇宙がある。いわば唯心論に似て非なるものである。


 第二のポイントは、全ての存在は自分の心に映った影のようなものだ、ということ。例えば、僕の目の前にスマホがあるとしよう。僕はスマホ自体を認識できているのではなくて、視覚と触感といった五感から感じられた感覚だけを頼りとしている。スマホが実際にあるのかどうかは僕たちには分からない。心や感覚から離れたものは「仮定として存在しているもの」でしかない。そうして、感覚や心といったものだけが存在する、自分の心の中の世界で僕は生きていて、そこから外に飛び出すことはできない。

 考えていると今にも病んできそうな世界である。筆者は閉所恐怖症的なところがあるので、こういう心の檻に閉じ込めれるという発想は大変に怖い。


 第三のポイントは、ものを見る時に、深層心である「自我」と、表層心である「概念」意識を取り込んで認識してしまうということ。例えば、自分は日頃ガラ携を持っているのだとして、今、目の前にあるのが友達のスマホだとしたら、スマホは「自我」によって嫉妬が生じて、欲しいのに得られない「生意気なもの」に感じられてしまうかもしれない。そして「それ」を概念によって「スマホ」と判断することによって、はじめて「スマホ」という存在として認識されるのである。そうして、元々は単なる「その物体」というだけであったはずのものが、最終的には、僕の心の中で「生意気なスマホが存在している」と認識されるに至るということである。


 第四のポイントは、この世のあらゆる存在を生じさせているのは自らの心である、ということだ。この世の存在を生じさせる種子を貯めてゆくのが阿頼耶識(あらやしき)という心である。それは心そのもののことである。

 良いことをする。悪いことをする。すると心の底にポツリポツリと種子が溜まってゆく。それは心の底の話だからすぐには気づかない。しかし、だんだん悪いことをしている内に自分の心が、ずいぶんと薄汚れてきたな、と思うことがある。

 悪い種子が溜まればそれが癖となり、なかなか悪事の世界から抜け出せないのである。どうしても心が悪い方向にゆくのは、日頃の生活の積み重ねというものだ。かくいう僕も大変に自心が汚れてきているようだと感じる時がある。すると大変に怒りっぽくなったりして、何よりも自分自身が嫌になってくるというものだ。

 そうして、まわりを見るから、心の中にはコンプレックスのようなよろしくない種子があって「生意気なスマホ」が生まれてしまう。これがもしも良い種子を貯めておいたのなら「憧れのスマホ」という風になって、ちっとも嫌な気はしないのだが、嫌な種子を貯めてしまうと見るものすべてが嫌なものになってきてしまう。そういう世界を描いてゆくのは自分の心というものである。


 以上、四つのポイントである。これだけでも理解していれば、唯識仏教について大方は理解できていると思う。



 歴史を訪ねてみれば、インド仏教は紀元三世紀頃、さまざまな部派が高度な論争が繰り広げられる時代に突入していた。これをヨーガをしていた人々が、唯識という思想をもって、一応の収束に至らしめたのである。彼らはヨーガをする為に瑜伽行(ゆがぎょう)派と言われていて、その唯識思想はインド仏教を最高なレベルに至らしめたものだった。この思想を完成させたのは、弥勒菩薩と無著(むじゃく)世親(せしん)兄弟である。弥勒菩薩は仏としての弥勒なのか、それとも人間なのかは分からない。

 この思想を中国に取り込んだのが玄奘三蔵法師げんじょうさんぞうほうしである。国禁を犯してまでインドに旅立った。彼は「西遊記」の中で、猿と豚とカッパを引き連れて、牛の妖怪を倒し、ようやく天竺にたどり着いたのであった。そして、インドで唯識系の思想を含む三蔵(経・律・論)を手に入れて無事に中国に帰国し、三蔵の翻訳を開始した。そして、この玄奘三蔵法師を開祖として、唯識系の思想を元に設立されたのが、現在の法相宗(ほっそうしゅう)である。



 彼らが始めに問題としたのは輪廻転生(りんねてんしょう)の主体であった。釈迦によって「魂」と「我」の存在は否定されているのである。それでは輪廻転生の主体となるものは何なのか、これが部派仏教が長年論争を繰り広げた一大テーマだった。そして、これこそ仏教が自己とは何かということの思索を深めた要因でもある。

 輪廻転生とは……地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道。このいずれかに転生するか、それは生前の善悪によって判断されるというものである。現世から来世に持ち越される善悪の力。これこそ(カルマ)というものである。

 そこであらためて興福寺の阿修羅(あしゅら)像を見る。大変に精悍で清らかな美少年である。阿修羅像もまた、前世の業によってこの苦悩の世界に生じたということになろう。苦悩は人間界ばかりではなく、さまざまな世界に充満しているという。阿修羅の住む修羅道もまた争いの絶えない世界である。

 これを天台宗風に解釈すれば、修羅道は自心の中に宿る争いの心であるということにもなろう。争いの心はある時は大変に心地がよく、まるで勢い良く空を飛んでいるように自由闊達な気がする。しかし、争いに勝ったにせよ、負けたにせよ、その後で襲ってくる虚しさは何とも形容しがたいものである。ある時は暴力に打って出ることが実力のように思えるのが人間である。しかし時が経ってみれば、それは何という中身のない実力だろうか。



 ところで、輪廻転生の主体とは何かということについて、僕は一遍上人のこの言葉を思い出す。


  もとより已来(このかた)、自己の本分は流転するにあらず。ただ妄執が流転するなり。


 ただ、僕は輪廻転生のイメージがはびこっているのが、仏教の本意ではないように感じるので、あまりここで輪廻転生論を展開するのはやめておこうと思う。次回以降、少し触れるかもしれない。



 興福寺は仏像の宝庫だ。それも運慶(うんけい)快慶(かいけい)といった鎌倉時代の奈良仏師の拠点が興福寺だったからだろう。そればかりではなく、奈良時代には、阿修羅像など優れた仏像がこの興福寺で生み出されているのだから、大変長い間、仏像造りの伝統があったということであろう。

 五重塔が天を仰ぎ、阿修羅像などの仏像が立ち並び、鹿が寝そべる興福寺は、(いにしえ)から人の心とは何かを説き続けてきている。さあ、心とは何かということについて考え始めるとしよう。

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