奈良 長谷寺
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僕が一番好きなお寺をご紹介しようと思う。それは奈良の豊山長谷寺である。その理由は言うと、僕は日頃は信仰心も大して無いくせに、こんな時だけこんなことを言うのも何なのであるが、母の実家が真言宗豊山派の檀家だからである。
僕は小学生の頃から法事などで真言宗のお寺に訪れていて、それ以降、お寺と言うと真っ先に真言宗のイメージが浮かぶようになったのだった。特に法事の時は、厳かな龍の絵とか、天井の升目とか、中国風な感じのする椅子とか、幻想的な荘厳とかを眺めては妙なところに来たものだと思い、お坊さんが木魚を叩きながら、力強い声でお経を唱えてゆく摩訶不思議な雰囲気はさらに印象的だった。
小さい頃、僕はキリスト教の幼稚園に通っていて、イエスさまのお話などを聞いていたから、ほとんど同時にまったく異なる宗教観が刷り込まれいくことになった。あの清潔なキリスト教の生活とは一変して、お寺の中は権力的な雰囲気があり厳かであった。しかし、幼稚園児だった僕にその二つの宗教の思想の違いが分かるはずもなく、死んだらみんな天国へゆくのだと言う話だけを何となく飲み込んでいた。小学生の大部分は法事も減り、教会の日曜学校にも行かなかったので、それ以来、僕は仏教にもキリスト教にも縁のない人間となった。
何はともあれ、そうした思い出もあったせいだろう、真言宗豊山派の総本山である奈良の長谷寺に一度、訪れたいと思っていたのであった。おまけにこの旅行の時、神奈川県からいらっしゃった親切なご夫婦と、電車の中で意気投合して、その日はそのご夫婦と一緒に室生寺と長谷寺をめぐったのであった。大変に仏像がお好きなご主人であった。あの時はお蕎麦までおごって頂いて「四人目の子供」とまで親しく仰って頂いて嬉しかった。
そうしたこともあってか、長谷寺は特に印象に残っていて、今までに二度ほど訪れている。
僕はこの豊山長谷寺の長谷観音が好きである。まさに慈悲の仏という気がする。……と言うよりかは大変に可愛いらしく、包み込むような優しさを感じる。こういうのはちゃんとした縁があって感動するものなのだ。もしかしたら、この時に親切なご夫婦の優しさを感じとってから長谷観音を見たから真に迫るような慈悲を感じたものかもしれない。仏像というのは、そういう不思議なめぐり合わせというものがあってこそ感動するものだ。
この長谷観音は、十メートル以上の高さがある天文年間の傑作である。観音菩薩と言っても、普通の観音菩薩ではない。片手には観音菩薩の蓮華の水瓶がある一方で、もう片手には地蔵菩薩の錫杖が握られている。観音菩薩というのは現世利益の仏である。それに対して、地蔵菩薩というのは死後の世界で救済をする仏なのである。地獄に落ちた人を救う、それが地蔵菩薩である。そうしてみると、この長谷観音は生前と死後の両方で救済活動をする世にも珍しい菩薩なのである。
千手観音像の立ち並ぶ「三十三間堂」の回でも観音の話をしたいと思っているのだが、ここでも少しだけ説明をすることにしよう。一体、観音というのはどこにいるのか。第一に仏身としての観音菩薩を思い描くことだろう。しかし、それは一説には自分自身が観音なのだと言う。また一説には親しき人の優しさの中に観音がいるのだという。観音信仰とはこういう話になってくる。
人の優しさに触れて、この人は観音さまだなぁと思って、その人に感謝をするというのが一つの観音信仰である。観音菩薩とは三十三身に変化する変化仏である。しかし、実際には三十三という有限の数字に囚われることはない。どんなものであっても観音菩薩になり得るのである。仏に帰依するのが「南無阿弥陀仏」であり、お経に帰依するのが「南無妙法蓮華経」である。そして、人に帰依するのが「南無観世音菩薩」なのだと言う。
僕は観音菩薩が一番好きだ。誰にでも起こりうる慈悲心の中にこそ観音菩薩は潜んでいる。この三帰依には優劣は無いとしても、僕にとっては、目に見えぬ仏に帰依することや、お経の思想に帰依することよりも、まわりの友人や知人の中に潜む観音菩薩という慈悲心に帰依したいと思うのである。
南無観世音菩薩。南無観世音菩薩。南無観世音菩薩……。




