東京 高尾山
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そうだ。言い忘れていたが、短かすぎる休載期間中に「法隆寺3」の回を修正し、分かりやすく直したので興味のある方は是非そちらもご確認いただきたく思う次第である。章題に伴って般若心経の解説も加えたのである。
さて筆者がお寺めぐりを始めてすぐに訪れたのは高尾山だった。高尾山というのは八王子にある山で、途中にお寺がある。関東圏にお住いの方なら休日に家族や友達とどこかに出かけようと思ったら、この高尾山がオススメである。まずハイキングとしても楽しいし、風光明媚で大変にリラックスするところである。山といっても死にたくなるような奥地ではないから、人生に疲れた方は一日遊びに行ってリフレッシュされてはどうだろう。
参道のお店を冷やかして、ハイキングをしたかった訳ではないから、途中までケーブルカーで登った。そこで蕎麦を食べて、その後、山頂までのんびりと散歩をした。そうしてみると登山という感じはあまりしない。ケーブルカーを使ったせいだろう。お寺はすぐに見つかって、銭の形をしたものを回したり、やけにご利益目当ての石造物が並んでいた。その時、大変に花粉が舞い飛んでいて、顔が真っ赤に膨れあがって、涙が零れ落ちた。顔面の痛みを我慢しながら山頂に登ったが、特に感動はなかった。昔から景色には感動しないたちなのである。
この帰りの電車の中で、始めて空についての自分の考えをまとめてみた。何を参考にしてこのことを考えたのか覚えていないが、僅かな差こそあれ、基本的な考え方には変化はないようだった。何か情熱が込み上げてきて、メモを取った。しかし、空という虚無的・相対的な思想を情熱を持って書き出すというのは、いささか矛盾している気がする。
この頃、仏教思想についての話題で、群馬出身の友人とよく話し合っていたので、仏教思想というものを自分の中でまとめておきたいと思ったのだろう。すると、真っ先に考えられるのは般若心経の内容を理解することで、それが仏教思想=般若思想「空」という単純な計算を弾き出した。
空という問題は今では「空っぽ」とは微塵も思わないが、初めのうちは「空っぽ」と考えることが非常に便利であった。そのように説明する本が実際にあるのである。だから僕も「空っぽ」と考えた。そうして般若心経を読むとそれは相対主義なものだと捉えられた。だから相対主義的な思想として、仏教思想を受け取っていったのである。
一面においては、空を空っぽと捉えるのは正しい。般若心経だけであれば、そのような理解が可能となる。しかし唯識、天台、密教、華厳、禅をも貫く空という思想は、そのような解釈では上手く説明付けられなくなってくる。この時はまだそのようなことまで考えていなかったし、空は「空っぽ」でも良かった。
空海の十住心思想についても話題に上がったことがあった。その時に友人は「菩薩が自己の悟りを放棄してまで、救済を優先する実践的な態度は良くない。自分のことを完了してから救済をすれば良いはずだ」というようなことを言っていた。その翌日、群馬の友人は「仏教における平等とは何か」と討論を仕掛けてきたのだが、僕はその時、仏教における平等についての自分の考えがまだまとまっていなかったので対応できなかった。このようにして、仏教の勉強を始めて半年も経たない内に、早くも仏教擁護派として認識されて、さまざまな仏教思想に関する議論が生じてきたのだった。そんな時期に僕は高尾山に訪れたのだった。
しかし、よく考えてもみれば僕は仏教擁護派ではなかった。というよりも僕はある特定の立場を持つのが嫌いなのだ。そういうのは不自由でいかない。それに僕の宗教観と言えばせいぜい伝統的な先祖信仰ぐらいなものだった。体系的で意識的な宗教を信仰したことはなく、ただ死んだら人は星になるか、ふわふわとこの空で風にそよいでいるのだろうと思っていた。そうしてみると、人は死んで山に帰り、野に帰り、また自然が生命を育むという日本のナチュリズムを意識下に引き継いでいる程度のものだった。
しかし思えば、これは仏教好きというだけで、さまざまな議論を受けることになるという謎の学生生活の始まりだった。そうした生活の中で、僕は思想という点で、さまざまな仏教思想を自己の思想に取り込みながら、宗教という点では原始的な自然信仰を愛している点だけは何も変わらなかった。
そういう自己矛盾は、多くの歴史上の日本人がたどってきた道だったと思う。日本人の宗教観は結局、先祖神・自然神信仰にとどまっているのだ。しかし、そこに仏教思想が入り込み、それらが日本人にとってアレルギーを起こさない形に変質してゆくのである。こうして、仏教思想は自然信仰ににじりによっていったのだろう。だからそういう点では華厳思想が自然信仰との合流点のように感じられた。
僕は初めの頃、仏教思想を論じたり、宗教を論じたかった訳ではなく、日本の精神文化を論じることに最大の主眼をおいていた。ところが、どういう訳か、ある時から仏教思想について考えてみたくなった。仏教思想のどこに魅力されたのかというと空以外には何もなかった。そして空にしてもまず般若思想に関心を抱いてたのだった。続いて真言、天台、華厳の影響を受けた。その後にかえって維摩経を知って、禅に関心を持つようになったのだった。ただ結局、鈴木大拙や西田幾多郎の思想に傾いていっただけな気もする。
ところで、空は老荘思想の無と大変に似ているという。しかし老子の本を読んで頂きたい。似ているどころの話ではない。完全に同じもののようにすら思った。何ということだろうか。




