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京都 清涼寺

 霊気のようなものを感じるというのは、杉の大木が生い茂る霊山などにゆくと割とある話だが、仏像を見て実にすーっとしたのは、たったの一度しかない。その一度というのは清涼寺の釈迦を目の当たりにした時である。



 こういうことを言うと、またスピリチュアルなものにハマりだしたな、という話になりそうだが、これは別に特殊な感覚のことを言っているのではなくて、それは一つの本能的な感覚なのだろう。実際、日本中のお寺などをめぐっていると、何かただならぬ気配のようなものを感じることがあるものだ。ことに人が昔から信仰してきたものというのは、それなりの「気」のようなものを感じるものだ。だからこそ、そうした信仰が連綿として続いてきたというものだろう。

 人が神をつくるのでも、神が人をつくるのでもなければ、自然が「神」と人が言うような「気」をつくりだしているものに違いない。こんなことを言うと、自然のことを神だと捉えることに抵抗のない人々には受け入れられるとしても、こうした思想をもたないキリスト教などの宗教観を持つ方々には大変に不快に感じることだろう。その点はお許しいただきたいと思う。

 信仰物が持つ「気」というのは、何だか正体が知れないものばかりだ。人はそういうものがあるところをパワースポットなどと呼んで、いまだに大変にありがたがったり、信じるも信じないも関わらず、とにかく面白いからいっぺん行ってみようなどと思って結局のところ訪れてしまうのも、やはりそこに何かを感じるからだろう。

 こんな時の日本人というのは、縄文人と何も違わない。文明社会などというものはどこかに消えてしまって「ウッホウッホ、そこに不思議なお湯が沸いてるぞ」「それ行ってみよう、ウッホッホ」という具合に列をなすのである。それは精神の本源というか、あるいは先祖の記憶と言うか、何とでも説明できると思うが……難しいことはともかく、科学的だろうが何だろうが感じてしまうものは感じてしまうのである。だから仕方ない。



 清涼寺の釈迦も、昔から人に信仰されてきたありがたい仏像である。開帳している期間中しか拝めないので、大変にレアである。江戸時代の四大開帳というのは、京都嵯峨野の清涼寺の釈迦、成田山の不動、信州善光寺の阿弥陀、山梨身延山の日蓮のことである。

 清涼寺の釈迦は特に京都であるから、江戸まで運ぶのは大変である。お籠に乗せてわっしょいわっしょいやったとしても、それは肩が凝るなんてレベルの話ではない。そんなにしてまで、どうしてこの清涼寺の釈迦を開帳するのだろう。

 これはインドから中国、そして日本へと伝来した仏像だという。本当はインドから中国に伝わった仏像をモデルとした模像だったのだろうと思うが、そういうケチのつくことは考えてはいけない。インドからやって来たのだと言われたらそう思わないと、江戸っ子の気持ちは理解できないというものだ。この仏さんはインドからはるばるやって来られたのですよ、と言えば、三蔵法師を目の当たりにしているようなもので、大変にありがたいではないか。



 そうは言っても僕はサイズの小さい仏像というのは、どうせつまらないもの、と決めてかかっていた。京都にゆくと仏像というのは三メートルぐらいの丈六仏が多いものだから、サイズの小さい仏像と言うとはなっから期待などしていない。

 おばあちゃんと嵐山の天龍寺に訪れた後、おばあちゃんはどうも久々の旅行で気分が晴れなくて、僕はそれを感じ取って一体どうなることかと心配していた。それに大変に日差しが照ってきて暑くなり、体力的にも大変に心配が増して来ていた。

 そういう訳でこの先どうしようかと思っているところに、ふっと清涼寺の山門が見てた。「あら、すごいじゃない」おばあちゃんは急に元気になったようだった。よく考えてみると、おばあちゃんは小さい頃から真言宗のお寺に慣れ親しんできたのだった。実際、西新井大師によく訪れていた。お寺と言えばこういう山門ががっしりとしているものと思っていたことだろう。だから、禅寺から離れて真言宗のお寺に訪れたのが良かったのかもしれない。

 そして清涼寺の堂内へ入って、釈迦を見上げる。小さい釈迦立像である。おばあちゃんはこの時のことを「体がすーっと楽になった」と不思議がっていた。僕もまたその大変に体が楽になった。こういう感覚は何度も経験しているが、仏像には人の心の疲れを癒す力が備わっているのだろう。残念ながら身体の疲れを癒す力があるかは知らない。しかし病は気からというように、心が癒されると体も自然と癒されるというものだ。

 坐禅をしてリラックスするということがあるだろう。一心に念仏を唱えてリラックスするということがあるだろう。それと同じように大変に素晴らしい仏像と言うというものは、一目見るとそれだけで心の底からリラックスするものだ。やはりそういう時には、仏像は大変に慈悲深い雰囲気を持っているか、抽象的で神秘的な雰囲気を持っているかのどちらかだと思う。金剛力士のようにあまりに強そうだったり、法隆寺の釈迦三尊のように(おごそ)かすぎると、インパクトは強い反面、リラックスという訳にはいかないかもしれない。

 清涼寺の釈迦の話に戻ろう。まことにこういう不思議な仏像はありがたいものだ。霊験あらたかなオーラというものが周囲一体を包み込んでいるような気がした。

 その柔和な表情。そして、そのリアリズムとは無縁の抽象性に溢れた記号的な造形こそ、このただならぬ霊気を生み出しているのに違いない。また小さいものに対する希少な雰囲気、その存在感もこうした霊気を生み出している一因なのではないだろうか。

 だから僕は日頃から、あまり仏像というのは写実的ではいかないよ、と誰とはなしに言っているのである。抽象的こそ神秘的な雰囲気を醸し出すのだから。だから鎌倉時代の仏像よりも奈良・平安時代の仏像が好きなのである。



 何はともあれ、清涼寺の釈迦の持つ神秘的な雰囲気には大変に感動した。

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