奈良 東大寺4
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華厳教学の説く事事無礙法界とは一体どのような世界なのかと言うと、我々の住むこの世界のことに他ならない。何が斬新なのかというと、前回までに述べてきたような、ありとあらゆる存在が相関・相補性を持って、互いに障害とならずに、生き生きと展開している仏の智慧の世界であるという点である。
華厳教学ではこの他に、事法界、理法界、理事無礙法界の三つの世界があると説く。これも結局は事事無礙法界と同じく、この世界のことなのだが我々の認識が違う。この四つの認識の世界を順に見てゆこう。
事法界とは、我々のような衆生が生きている、物質的で存在が実在しているように捉えられている客観世界のことである。また、衆生がありもしない実在を想起したり、不毛な対立概念を思い描いたりする、差別認識のある迷妄の世界であるとも言える。小乗仏教や唯識思想はこれに当たる。
理法界とは事法界の背景に流れる空性の真理の世界である。この場合の空とはまだ虚無的な色彩を持つ空のことであると思われる。空を説く龍樹の中観思想、初期の般若思想のようなものである。
理事無礙法界とは、理法界の空性を背景として、唯物的な事法界が展開する世界であり、実在と空性とが互いに障害とならずに共存しているものである。物質と精神、実在と空性というような対立概念を越えている。これは主観と客観とが別れる以前の精神状態でもある。西田哲学における純粋経験のようなものである。これこそ維摩経の説く不二法門の段階だと思われる。この境地は煩悩即菩提というように、無と有のどちらにもとらわれることのない絶対の空の境地である。この境地こそ多くの仏教が求めている境地に他ならない。
事事無礙法界とは、華厳教学が独自に説く世界であり、存在と存在が互いに相即相入する円融の世界である。森羅万象の物質的な世界でありながらも、仏の光に照らし出された智慧の世界であるとされる。この世界においては存在の空性は打破されているものらしく、存在の虚無性は無くなり、ありとあらゆる存在が仏の智慧ないし慈悲として、自由自在に活動しているものである
私は事事無礙法界まで進む必要はないのではないか、と思う。その下の理事無礙法界の段階こそ大乗仏教の目指すところではないか、としばしば思うのである。それでも華厳思想では空性を離れて存在の実有的な価値にたどり着こうとしているのである。
華厳思想は、この世界の森羅万象を見よ、と伝えている。それは仏の智慧の世界に他ならないと言うのである。単純にこの世を唯物的に捉えるのでも、空として捉えるのでも、その両方に捉えわれぬようにするのでもなくて、存在同士が相関・相補性をもって円融し、自由自在に展開している、仏の光明の顕現としてのこの世界の森羅万象を見ようとしているのである。
そうして考えてみると、空海のこの言葉が思い出されてくるものである。
五大に皆な響きあり
五大とは、この世の構成要素である地・水・火・風・空のことである。そうしたこの世のありとあらゆる存在に仏の光明が顕現していて、絶えず音を発しているというものなのだろう。この響きを聞き取ることは、我々のような凡人にはなかなかできないが、森羅万象にはこうしたものが元から備わっているのだと思う。
こうした自然の内に流れる音を観ずる働きと言えば、すぐに観音菩薩のことを思い出す。観音菩薩は音を観ずる仏なのである。
私は仏教的真理である空をニヒリズムだとして打破してまで、実有的な領域に進む必要はないと思う。だけれど、空を認識した後に、ただこの世は空なのだ、ということに留まって無感情に終わるのではなくて、もっと価値的な内容の領域に入ってゆく必要があると日頃から思っているところである。
例えば、禅においては、悟りの境地とは次の言葉で表される。
柳は緑、花は紅
これはあるがままのものをあるがままに表現したものである。しかし、存在をあるがままに認識するというのは実際には達人の領域である。
柳は緑である。花は紅である。これは依然として人間の主観が入らず、また客体として主観を離れる以前の純粋で自然なる状態である。これを主観と客観とが別れる以前の認識をもって、あるがままに認識することができれば、柳は緑であること、そして花は紅である、ということがここで初めて体得されるのである。
ところが、これが例え真実として認識されたとしても、そこに何らの価値が発見されなかったとしたら、そもそも認識する必要すらないというものだろう。
華厳思想が山に仏を見たり、川の音に説法を聞くというのは、そこに価値が秘められていると見るからだろう。華厳思想がもたらしたものは、日本人にとって最も重要な森羅万象の生命の価値であったと思う。また茶道、華道など小さなものに込められた深遠なる世界の価値であるとも思う。
こうした思想を背景に、仏教思想は新たなる段階に入ったと見て間違いないだろう。それは大乗仏教が、空の思想によって真実を認識することに専念するあまり長い間欠如していた、価値を体得する認識を華厳思想によって得たからに他ならない。そして、その価値こそ慈悲に当たるのではないかと思う。
慈悲というものは智慧と共に現れる。その正体は不明であるが、この自然が仏の光明に照らし出されたものであるとするならば、森羅万象に顕現しているさまざまな生命の価値とは、真に仏の慈悲と言わねばならない。意識・感情としての慈悲を想定している僕にとって、自然に仏の慈悲が溢れているとは到底信じがたいのだが、理屈の上では、空と慈悲は一つであり、一切が空であるとすればそこには慈悲が無ければならないことになる。だとしたら、一切には慈悲が秘められていて、空観によって、それらがありのままに認識されるということになるではないか。




