奈良 東大寺3
★★★★
前回「一即一切、一切即一」を論じたが、あのような原理を説明しただけでは何の価値的内容とも結びつかないので、あまり意味がないように思われる。
例えばこのような話である。我々は一個人として存在している為に、全体を考えれば取るに足らない存在と思える時がある。大空を見れば自己の小さきを知るというのはそういう気持ちである。しかし、それだけでは自己を無限小にしただけであって、あまり大した哲学にはならないと思うのである。
しかしこの時、自己を無限小することによって相対的に世界は無限大になってきているというものである。これは世界が単独に無限大なのではなくて、自己が世界に無限小になることによってその領域を譲ったからである。これは相即というものである。相即については後で述べることとしたい。
しかし、同時にこの時、我々はその無限大なる宇宙・世界を構成する欠かせない一要素であることを自覚しなければならない。巨大なる宇宙・世界というのは全体を認識したからこそ広大なものになっているに過ぎず、それは真実には細かい一要素の集合体であって、実は自己よりも無限なものなど少しも存在しないのである。
この時、自己は無限大であり世界は無限小である。しかし、この二つの認識は異なることを述べているのではなくて、ミクロコスモス(自己)とマクロコスモス(宇宙)の相関関係を認識できれば、この二つの認識がどちらも可能なのである。
こうした華厳教学を大成させたのは、中国唐代の法蔵という名僧である。勿論、華厳経はその遥かに昔から存在したが、こうした思想を摂取し、成熟させたのは南北朝時代から唐代にかけての中国の思想運動だと思われる。
当時、唐王朝に保護された玄奘三蔵法師の法相宗を越える思想を生み出す必要があった。その為には、まずその仏教の持つ「空」のニヒリズムを打破しなければならなった。そして「空」の底に眠る「有」を発見しなければならなかったのである。
華厳経は釈迦仏ではなく、宇宙仏の毘盧遮那仏が教えを説くので、大変にスケールの大きな内容である。また「この世界は虚妄であるが、それはこの一心が作り出している」という言葉があり、法相宗の唯識思想を根底に持っていることが分かる。
それでありながら、華厳経はこの世の森羅万象全てが仏の光に照らし出されたものであるという思想を持つ。したがって、この世には仏によって照らし出されいないものなど一つもない。だから山も仏の相であり、川も仏の説法であるという風になる。大変に汎神論的で、生命大肯定的な価値感が展開されているのである。ここに従来の「空」のニヒリズムから脱しようという狙いが見えてくる。
こうした思想は禅に入ってくる。山も川も人間も仏に他ならないということになってゆくのである。
次に「相即相入」という話が出てくる。「相即」とは存在が無になって相手に入る、相手はこれを受け入れる関係のことを言う。そうして一体となることを言う。「相入」も同じようなものである。作用が無になって相手の作用に身をまかせる、そして相手の作用がこれに代わる。そうして二つが一つになる。こうした相補性が自然界の真理だというのである。
人間関係においても、ある時は自分が無になって相手に入り、またある時は相手が無になって、自分に入ってきたりするものである。ぶつかり合うのではなくて、互いに存在というものはこうした相補性の中に生きていると言えるのである。
そして、この相即相入の原理が、次回説明する事事無礙法界を理解するポイントだと思うのである。