奈良 東大寺2
★★★★
華厳教学の「一即一切、一切即一」とは、一が無限であり、無限が一であるということである。または自己が宇宙・世界であり、宇宙・世界が自己であるということである。または部分が全体であり、全体が部分であるということである。また刹那が永遠であり、永遠が刹那ということである。あるいは小が大であり、大が小だと言うことである。
つまり時間・空間の最小・最少は取りも直さずに時間・空間の最大・最多なのだという。ここから、華厳教学というのは非常に難解な思想という気がするものである。
時間の「一即一切」に焦点を当てて考えることにしよう。これはまだ理解できる。現在とは、過去から未来へと無限に続く時間軸の内の一刹那のことであると同時に、無くなることのない永遠の現在のことである。つまり現在とは刹那であると同時に永遠なのである。
つまり、過去があり現在があり未来があると考えた時、現在とはほんの一瞬でしかないと考えられる。これは川の流れのように時間が流れていくという概念による時間論の場合のことである。
しかし、また別なことを考えると、過去や未来というものは存在しない。なぜならば、過去や未来というのはありはしない観念であって、常に存在するのは常に現在しかない。そこに過去や未来と言うイメージが、あくまでも現在意識の中に生み出されているだけなのである。つまり初めから終わりまでこの世には現在しかないのである。こうした時、現在は永遠のものに他ならない。
最初の考えでゆけば時間とは直線である。というのは、過去、現在、未来が直線上に連続しているという風に見るからである。この時、現在とはやはり一瞬(刹那)でしかない。それに対して常に現在しかないという風に見るならば、現在とは永遠なのである。
だからこそ、時間とは無数の刹那であると同時に一つの永遠なのである。
次に「一即一切」を空間論で考えてゆくと、部分は全体であり、全体は部分であるという話になる。これを家の話に例えると、家全体と木材という部分の話になる。家全体は沢山の木材を内包している。しかし反対に家全体も木材という一部分があるからこそ成り立っているのである。こうした相互依存関係によって全体と部分は成り立っている。この二つは離れることの出来ぬ存在同士なのである。だからこれを一つと見る。だから部分とは一つの全体であり、全体は無数の部分なのである。
次に「一即一切」を数理哲学で一から十の数で考えるとこうなる。まず一を本数と見る、一が無ければ次の二が成り立たないと見る。一が無ければ、三や四も成り立たないと見る。一が無ければ二や三や四は独存することはできないのである。そうすると全ての数字は一が無ければ存在できないものである。こうして一とは、その中に十までの数を残らず含んでいる数だと言えるのである。
反対に十を本数と見た場合、その中には九があり、八があり、七があり……一までの数が全て内在していると見る。そうすると十が無ければ一が成り立たないと見る。このようにして、十は一から十までの全ての数を含んでいる数だと言えるのである。
このような点から考えると、一と多は常に調和・相互依存の関係にあるのである。
このような考えに基づき、この世のことを考えてみる。この世の存在・事象とは縁起によって絡み合い、互いに依存しているものである。円教ならばこの状態を「円融」と言うのであるが、華厳思想においてもそうなのである。ありとあらゆる存在が互いに作用・依存しあってこの世は成り立っている。だからこそ、存在と存在を分け隔てることはできない。
それは、この宇宙・世界が、部分が絡み合った大きな一つの円だからである。人間は、その一部分のみを見ることも、同時にその全体を見ることも可能である。
華厳思想では部分は全体だと言う。なぜならば、一部分を引き出そうとすれば絡み合った全体が引き出されてくるからである。一個人には複雑に絡み合ったこの全宇宙・世界の全体が関係しているというのである。そうしてみると、この世に存在する限りは、完全な単独ということはありえないのである。
この小さな自分とは複雑に絡み合った広大な宇宙・世界そのものであり、広大な宇宙・世界は小さな自分を根本として成り立っているのである。これが華厳思想の「一即一切、一切即一」である。