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奈良 法隆寺1

★★★★

 わたしは結局、法華経(ほけきょう)よりも般若心経(はんにゃしんぎょう)よりも、維摩経(ゆいまぎょう)をよく読んだものだ。

 維摩経(ゆいまぎょう)は、出家(しゅっけ)界の最強の論客である文殊菩薩(もんじゅぼさつ)と、在家(ざいけ)界の最強の論客である維摩居士(ゆいまこじ)が、衆人環視の下で、息を呑む論争を繰り広げ、なんと文殊菩薩が打ち負かされてしまうという衝撃的な経典だった。

 あの文殊菩薩が……。法華経の冒頭で、お釈迦さまが、おでこの真ん中にある白い毛がカールした白毫(びゃくごう)から光線を発射した時も、仏たちがその意味がわからず困っていると、この世界の生まれるずっと以前の話にまでさかのぼって、この理由を解説してくれたのは他でもない文殊さまだった。

 そういうわけで、仏教でもっとも智慧(ちえ)の深いことで知られる、あの文殊さまが、よもや負けるとは。それも、その相手は菩薩ではなく、俗世間に生きる維摩居士という一人の老人ではないか。

 この維摩居士はただ者ではない。この維摩居士の正体は誰なのか。



 いきなり話が脱線から始まってしまったが、わたしが法隆寺の五重塔の窓から、内側を覗いたところ、そこには粘土製の塑像(そぞう)が並んでいた。それは五重塔の内側から、四面に向かって、仏教の有名なシーンが各々再現されているのであった。

 お釈迦さまが入滅するシーン、つまりは涅槃(ねはん)ということで横たわっているものとか。

 その中に、この維摩経の文殊対維摩の論争のシーンがあった。

 正座する観客たちと、その一段上に並んで座る、爽やかで凛々しい文殊と、髭の長い老人の維摩。

 その頭上の壁からは、獅子が魔法の米びつを持って雲とともに現れている。これは維摩居士の神通力(じんつうりき)によるものである。



 この物語はこのように始まる。維摩居士は、病気ということで、お釈迦さまの説法を欠席していた。お釈迦さまは、誰かをお見舞いに行かせようと思い立った。

 ところが、十人の弟子は維摩居士にさんざん論破されていて、お見舞いに行ったらまた何かしら論破されてしまうと嫌がった。

 例えば、一番弟子の舎利弗(しゃりほつ)は、静かな森の中でひとりで座禅をしていたら、こんな静かなところで座禅なんかしても意味がない。騒がしい市街でも、座禅ができなければ意味がありませんよ、と維摩居士に言われて、返す言葉がなかった。

 お釈迦さまは次に、菩薩たちをお見舞いに行かせようとしたが、同じ理由でみな嫌がった。最終的に、もっとも頭の良い文殊が、

「ならば、わたしがお見舞いに行きましょう」

「おお、文殊が行ってくれるか」

 ということになった。

 こうなると、文殊と維摩が高度な論争を繰り広げることは目に見えていた。これはすごいことになるぞ、とあらゆる神や仏が維摩の家に集合した。

 そして、実はこの病気とは、維摩が文殊菩薩を誘い出す為に言い出したものであった。



 文殊が部屋に入る、その瞬間、維摩は言った。

「文殊さま、あなたはお出にならずにお出になり、御覧にならずに御覧になりますね」

 いきなりである。お出でにならずにお出でになるとは、行くという行為と行かないという対立概念の打破である。維摩はこの後も対立概念の打破にかかってくる。この立場を不二(ふに)というのであり、言わんとするところは実は(くう)である。それは無分別空(むふんべつくう)と呼ばれる。有るとか無いとか、そういうことを分け隔てることの無いことである。このように、生と死、善と悪などのすべての対立する概念を捨て去り、それが本来的にひとつだとみるのが、維摩の不二法門である。

 さらに付け加えれば、この行くと行かざるというふたつの概念は、実は対立概念ではなく、双方は本質的には相互依存の関係にある。つまり、行くという行為がなければ、行かないという行為が成立せず、その逆も同じである。こうした相互依存の関係を因縁つまり原因として、行為が成立するという点から、対立概念的な二元論の打破にかかったのである。

 この維摩の先制攻撃に対し、文殊が切り返したのが、

「そのとおり。来てしまえばもう来ることはなく、去ってしまえば去るということはない。なぜなら、来るものは来るところがなく、去るものはゆくところがない」

 来るという行為、去るという行為も、その生起(しょうき)させている多くの因縁(いんねん)つまり原因の上に仮の姿で成り立っているものでしかない。これを仮相(けそう)という。こういう点から、文殊は維摩の、来ると去るという行為が仮相であるということに、一役買ったといえよう。



 ふたりの論争は凄まじく高度であった。だんだんと不二法門が論証されてくるに従って、どうすればその悟りに達することができるかという話題になった。

 菩薩たちは善と悪など、具体的な例を挙げて論証していった。しかし、その説明はすべて抽象化されすぎていた。

 悟りそのものはまったく見えてこなかった。

 文殊の番が来た。文殊は不二法門とは何かと尋ねられ、

「わたしの考えでは、一切の法には言葉もなく、説明もできず、示すこともできず、認識することもできず、すべての問答から離れている。これを不二法門に入るという……」

 とストレートに言語道断(ごんごどうだん)の境地を説明した。言語道断とは、真理とは言語化、論理化、抽象化から離れた、思考ではない境地のことである。不二法門とはまさにそのような境地そのものだと説いたのである。

「それでは、維摩、あなたはどうお考えですか」

 最後に、文殊が維摩に尋ねた。誰もが維摩の解答を待っていた。

 しかし、維摩は何も喋らなかった。

 それこそが維摩が最終的に出した解答だった。

 文殊は、言語道断の境地を、言語によって説いた自分のミスに気付いた。そして、文殊は維摩を大絶賛すると、その瞬間に、その場にいたすべての者が不二法門の悟りを開いたのである。

 これを「維摩の一黙(いちもく)、響き(らい)の如し」というのである。



 わたしは、この維摩の解答を、その後の禅の世界によく見るような気がしていた。

 そういうわけで、わたしはこの時の文殊さまが一番、格好良いと思っていた。実際に、法隆寺五重塔の塑像の文殊菩薩が、爽やかで格好良かったのだ。

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